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「神の国」がなかなか現れないわけ

2016-05-20 18:57:46 | 日記
私たちが祈っても祈っても
神の国の素晴らしさを現成しえない理由は
この世は「神の国」であり、
人間は皆「神の子」であると
理屈でわかっていても
本気で信じていないからである。
ここがポイントであるので、
このことが可能になってくると、
現象は素晴らしく良くなるはずである。

(参考 真理第十巻実相篇 谷口雅春著 日本教文社)
<実相を観ずれば諸々の悪は消える>
神のみが実在であり、神は善であり、愛であり、智慧であり、生命であり、無限の豊かさであり、無限の調和であり平和であるから、不調和とか争いとかいうものは、実在の世界には存在しないのである。換言すれば不調和とか闘争とかいうものはアルかのように見えても、実際は存在しないのである。而も、その存在しない不調和や争闘が実在するが如くあらわれて見えるのは、「神のみが実在である」という真理を知ろうとしないからであり、「人間はお互いに神の子であり、京大姉妹である」という真理を悟らないからである。「真理」を悟るということは別に難しい事ではないのである。「あるがまま」の事実を知るということである。五官という眼鏡を外して、心を素通しにして、素直に存在の実の相を見ることである。五官の眼を瞑じ、心を澄まして実相を観よ! これが神想観である。


種まきの譬

2016-05-20 18:11:16 | 日記

種まきの譬
2016/5/20
(参考 新約聖書 1954年改訳 日本聖書協会)
<マタイによる福音書第13章>
(13・1―23)種まきの譬
(1)その日、イエスは家を出て、海べにすわっておられた。
(2)ところが、大ぜいの群衆がみもとに集まったので、イエスは舟に乗ってすわられ、群衆はみな岸に立っていた。
(3)イエスは譬で多くの事を語り、こう言われた、「見よ、種まきが種をまきに出て行った。
(4)まいているうちに、道ばたに落ちた種があった。すると、鳥がきて食べてしまった。
(5)ほかの種は土の薄い石地に落ちた。そこは土が深くないので、すぐ芽を出したが、
(6)日が上ると焼けて、根がないために枯れてしまった。
(7)ほかの種はいばらの地に落ちた。すると、いばらが伸びて、ふさいでしまった。
(8)ほかの種は良い地に落ちて実を結び、あるものは百倍、あるものは60倍、あるものは30倍にもなった。
(9)耳のある者は聞くがよい」。
(10)それから、弟子たちがイエスに近寄ってきて言った、「なぜ、彼らに譬でお話しになるのですか」。
(11)そこでイエスは答えて言われた、「あなたがたには、天国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていない。
(12)おおよそ、もっている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう。
(13)だから、彼らには譬で語るのである。それは彼らが、見ても見ず、聞いても聞かず、また悟らないからである。
(14)こうしてイザヤの言った預言が、彼らの上に成就したのである。
『あなたたは聞くには聞くが、決して悟らない。
見るには見るが、決して認めない。
(15)この民の心は鈍くなり、
その耳は聞えにくく、
その目は閉じている。
それは、彼らが目で見ず、耳で聞かず、心で悟らず、
悔い改めていやされることがないためである』。
(16)しかし、あなたがたの目は見ており、耳は聞いているから、さいわいである。
(17)あなたがたによく言っておく。多くの預言者や義人は、あなたがたの見ていることを見ようと熱心に願ったが、見ることができず、またあなたがたの聞いていることを聞こうとはしたが、聞けなかったのである。
(18)そこで、種まきの譬を聞きなさい。
(19)だれでも御国の言を聞いて悟らないならば、悪い者がきて、その人の心にまかれたものを奪いとって行く。道ばたにまかれたものというのは、そういう人のことである。
(20)石地にまかれたものというのは、御言を聞くと、すぐに喜んで受ける人のことである。
(21)その中に根がないので、しばらく続くだけであって、御言のために困難や迫害が起ってくると、すぐつまずいてしまう。
(22)また、いばらの中にまかれたものとは、御言を聞くが、世の心づかいと富の惑わしとが御言をふさぐので、実を結ばなくなる人のことである。
(23)また、良い地にまかれたものとは、御言を聞いて悟る人のことであって、そういう人が実を結び、百倍、あるいは六十倍、あるいは三十倍にもなるのである」。

(参考 新約聖書略解 日本基督教団出版局)後に投稿

種まきの譬

2016-05-20 18:11:16 | 日記

種まきの譬
2016/5/20
(参考 新約聖書 1954年改訳 日本聖書協会)
<マタイによる福音書第13章>
(13・1―23)種まきの譬
(1)その日、イエスは家を出て、海べにすわっておられた。
(2)ところが、大ぜいの群衆がみもとに集まったので、イエスは舟に乗ってすわられ、群衆はみな岸に立っていた。
(3)イエスは譬で多くの事を語り、こう言われた、「見よ、種まきが種をまきに出て行った。
(4)まいているうちに、道ばたに落ちた種があった。すると、鳥がきて食べてしまった。
(5)ほかの種は土の薄い石地に落ちた。そこは土が深くないので、すぐ芽を出したが、
(6)日が上ると焼けて、根がないために枯れてしまった。
(7)ほかの種はいばらの地に落ちた。すると、いばらが伸びて、ふさいでしまった。
(8)ほかの種は良い地に落ちて実を結び、あるものは百倍、あるものは60倍、あるものは30倍にもなった。
(9)耳のある者は聞くがよい」。
(10)それから、弟子たちがイエスに近寄ってきて言った、「なぜ、彼らに譬でお話しになるのですか」。
(11)そこでイエスは答えて言われた、「あなたがたには、天国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていない。
(12)おおよそ、もっている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう。
(13)だから、彼らには譬で語るのである。それは彼らが、見ても見ず、聞いても聞かず、また悟らないからである。
(14)こうしてイザヤの言った預言が、彼らの上に成就したのである。
『あなたたは聞くには聞くが、決して悟らない。
見るには見るが、決して認めない。
(15)この民の心は鈍くなり、
その耳は聞えにくく、
その目は閉じている。
それは、彼らが目で見ず、耳で聞かず、心で悟らず、
悔い改めていやされることがないためである』。
(16)しかし、あなたがたの目は見ており、耳は聞いているから、さいわいである。
(17)あなたがたによく言っておく。多くの預言者や義人は、あなたがたの見ていることを見ようと熱心に願ったが、見ることができず、またあなたがたの聞いていることを聞こうとはしたが、聞けなかったのである。
(18)そこで、種まきの譬を聞きなさい。
(19)だれでも御国の言を聞いて悟らないならば、悪い者がきて、その人の心にまかれたものを奪いとって行く。道ばたにまかれたものというのは、そういう人のことである。
(20)石地にまかれたものというのは、御言を聞くと、すぐに喜んで受ける人のことである。
(21)その中に根がないので、しばらく続くだけであって、御言のために困難や迫害が起ってくると、すぐつまずいてしまう。
(22)また、いばらの中にまかれたものとは、御言を聞くが、世の心づかいと富の惑わしとが御言をふさぐので、実を結ばなくなる人のことである。
(23)また、良い地にまかれたものとは、御言を聞いて悟る人のことであって、そういう人が実を結び、百倍、あるいは六十倍、あるいは三十倍にもなるのである」。

(参考 新約聖書略解 日本基督教団出版局)後に投稿