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権威の所在(解説含む)

2016-05-13 21:14:11 | 日記
(参考 新約聖書 1954年改訳 日本聖書協会)
<マタイによる福音書第12章>
(12・22―37)権威の所在
(22)そのとき、人々が悪霊につかれた盲人のおしを連れてきたので、イエスは彼をいやして、物を言い、また目が見えるようにされた。
(23)すると群集はみな驚いて言った、「この人が、あるいはダビデの子ではあるまいか」。
(24)しかし、パリサイ人たちは、これを聞いて言った、「この人が悪霊を追い出しているのは、まったく悪霊のかしらべルゼブルによるのだ」。
(25)イエスは彼らの思いを見抜いて言われた、「おおよそ、内部で分れ争う国は自滅し、内わで分れ争う町や家は立ち行かない。
(26)もしサタンがサタンを追い出すならば、それは内わで分れ争うことになる。それでは、その国はどうして立ち行けよう。
(27)もしわたしがべルゼブルによって悪霊を追い出すとすれば、あなたがたの仲間はだれによって追い出すのであろうか。だから、彼らがあなたがたをさばく者となるであろう。
(28)しかし、わたしが神の霊によって悪霊を追い出しているのなら、神の国はすでにあなたがたのところにきたのである。
(29)まただれでも、まず強い人を縛りあげなければ、どうして、その人の家に押し入って家財を奪い取ることができようか。縛ってから、はじめてその家を掠奪することができる。
(30)わたしの味方でない者は、わたしに反対するものであり、わたしと共に集めない者は、散らすものである。
(31)だから、あなたがたに言っておく。人には、その犯すすべての罪も神を汚す言葉も、ゆるされる。しかし、聖霊を汚す言葉は、ゆるされることはない。
(32)また人の子に対して言い逆らう者は、この世でも、きたるべき世でも、ゆるされることはない。
(33)木がよければ、その実も良いとし、木が悪ければ、その実も悪いとせよ。木はその実でわかるからである。
(34)まむしの子らよ。あなたがたは悪い者であるのに、どうして良いことを語ることができようか。おおよそ、心からあふれることを、口が語るものである。
(35)善人はよい倉から良い物を取り出し、悪人は悪い倉から悪い物を取り出す。
(36)あなたがたに言うが、審判の日には、人はその語る無益な言葉に対して、言い開きをしなければならないであろう。
(37)あなたは、自分の言葉によって正しいとされ、また自分の言葉によって正しいとされ、また自分の言葉によって罪ありとされるからである」。

(参考 新約聖書略解 日本基督教団出版局)
・イエスのいやしの奇跡は悪霊の力によって行われたという非難に対し、イエスは彼の権威の所在を明らかにされた。マルコはイエスの身内の者たちでさえイエスは気が狂ったのではないかと思ったと記している。(3・21)
・23 ダビデの子、すなわちメシヤは奇跡を行なう力をもつと信じられた。《あるまいか》本来は否定の意をもつ疑問文であるが、しかしここでは肯定的な意味で用いている。
・24《べルゼブル》悪霊のかしら。パリサイ人はイエスを悪霊の子分だと言った。
・25 26 イエスが悪霊の子分であるなら悪霊につかれた盲人のおしをいやしたのは、悪霊の分争、同士打ちであり、そのような内部分裂は、国でも町でも家でも自滅のほかない。イエスに対する反対者の論理には大きい矛盾がある。
・27 イエスの奇跡の根源的能力がべルゼブルにあるなら、《あなたがたの仲間》すなわち、パリサイ人の内部の改革も悪霊の力によることにならないか。それとも、ほかの《だれによって追い出すであろうか》。悪霊によって悪霊を追い出すという論理が成り立つなら、《彼らが》すなわち、あなたがたの仲間があなたがたをさばく者になるであろう。
・28 しかしイエスの奇跡がべルゼブルでなく《神の霊》であるならば、それは神の国がすでにここにまで来ている証拠である。メシヤのいる所に神の国(支配)が働いている。
・29 神の国の進展を、敵地略奪の戦略にたとえている。《誰でも》イエスにおいて行為する神。《強い人》サタン。《家財》サタンの捕虜になっている人間。《略奪する》イエスはサタンの手から病人を奪った。彼がサタンの同盟者でないなによりの証拠である。
・30 《わたしの味方でない者は》イエスの神の国の働きを助けない者は、反対者であり、《わたしと共に集めない者は》地上から人々を神の国に集めるためにイエスを助けない者は、羊の群れを《散らすもの》である。神の国の戦いにおいてイエスの味方か敵か、二つに一つで、局外中立はない。
・31 次節と同様、聖霊を汚す罪について語る。人間が犯す具体的な罪、またその一つで冒涜すらもゆるされる。しかし、《聖霊を汚す言葉》イエスに対して故意の誤った評価をし、それを絶対化すること。すなわちイエスの中に働く聖霊をサタンと呼ぶこと。
・32 《人の子》イエスに対して罪を犯す者がゆるされるのは、その罪が誤解に基づいていることが多いから、わかった時、改めさえすればゆるされる。しかし、《聖霊に対して言い逆らう者》は、故意に強情になり、悔い改めないでイエスの救いから自らを締め出すものである。人の子の使命は人をゆるすことにあったが、しかし聖霊をののしる者の罪は、《この世でも、きたるべき世でも》絶対にゆるされない。33-37節イエスの奇跡とパレスチナにおいて普通のことであった悪霊下し(降魔)との相違の見分け方を示している。
・33 山上の説教の中に同じ言葉がある。イエスの行為がなによりもよくイエスがだれであるかを証明する。イエスの行為が神の国が来たことを示すものであるなら、イエスに逆らう者の行為はなにを示すものであるか、《木はその実でわかる》。
・35 人がイエスに反対するのは、彼らが悪であることを自分自身で語るようなものである。《まむしの子らよ》バプテスマのヨハネが用いた言葉。《心からあふれることを、口が語る》当時の格言を引用していると思われる。人の言葉は、心の泉から流れ出る水であるとの意。
・35 前節では心を泉に比し、ここでは心を倉にたとえている。
・36 パリサイ人がイエスに言った言葉は、いつか必ず《言い開き》そのわけを話さないではすまされない。
・37 人はその心より出る言葉によってさばかれる。