gooブログはじめました!

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

自分の内なる自分の行動

2016-05-02 23:13:00 | 日記
私は
なにを望んで
今ここにいるのだろう。
たった今も
漠然と
こんなことを思っている。
でも今日一日いろんなことをやって
夜の11時になったわけだから、
目的がなく生きているのとは違う。
ただ
何かに動かされて行動する傾向が
強くなってきていて
現象の自分の行動というよりか
自分の内なる自分の行動が
ほとんどであるみたいに
なってしまった。

イエスのヨハネ証言

2016-05-02 18:30:01 | 日記
(参考 新約聖書 1954年改訳 日本聖書協会)
<マタイによる福音書第11章>
(11・1―19)イエスのヨハネ証言
(1) イエスは十二弟子にこのように命じ終えてから、町々で教えまた宣べ伝えるために、そこを立ち去られた。
(2) さて、ヨハネは獄中でキリストのみわざについて伝え聞き、自分の弟子たちをつかわして、
(3) イエスに言わせた、「『きたるべきかた』はあなたなのですか。それとも、ほかにだれかを待つべきでしょうか」。
(4) イエスは答えて言われた、「行って、あなたがたが見聞きしていることをヨハネに報告しなさい。
(5) 盲人は見え、足なえは歩き、らい病人はきよまり、耳しいは聞(きこ)え、死人は生きかえり、貧しい人々は福音を聞かされている。
(6) わたしにつまずかない者は、さいわいである。
(7) 彼らが帰ってしまうと、イエスはヨハネのことを群衆に語りはじめられた、「あなたがたは、何を見に荒野に出てきたのか。風に揺らぐ葦(あし)であるか。
(8) では、何を見に出てきたのか。柔らかい着物をまとった人か。柔らかい着物をまとった人々なら、王の家にいる。
(9) では、なんのために出てきたのか。預言者を見るためか。そうだ、あなたがたに言うが、預言者以上の者である。
(10) 『見よ、わたしは使いをあなたの先につかわし、
あなたの前に、道を整えさせるであろう』
と書いてあるのは、この人のことである。
(11)あなたがたによく言っておく。女の産んだ者の中で、バプテスマのヨハネより大きい人物は起らなかった。しかし、天国で最も小さい者も、彼よりは大きい。
(12)バプテスマのヨハネの時から今に至るまで、天国は激しく襲われている。そして激しく襲う者たちがそれを奪い取っている。
(13)すべての預言者と律法とが預言したのは、ヨハネの時までである。
(14)そして、もしあなたがたが受け入れることを望めばこの人こそは、きたるべきメシヤなのである。
(15)耳のある者は聞くがよい。
(16)今の時代を何に比べようか。それは子供たちが広場にすわって、ほかの子供たちに呼びかけ、
(17)『わたしたちが笛を吹いたのに、
あなたたちは踊ってくれなかった。
弔いの歌を歌ったのに、
胸を打ってくれなかった』
と言うのに似ている。
(18)なぜなら、ヨハネがきて、食べることも、飲むこともしないと、あれは悪霊につかれているのだ、と言い、
(19)また人の子が来て、食べたり飲んだりしていると、見よ、あれは食をむさぼる者、大酒を飲む者、また取税人、罪人の仲間だ、と言う。しかし、知恵の正しいことは、その働きが証明する」。

(参考 新約聖書略解 日本基督教団出版局)後で投稿
(解説その1)(解説その2)(解説その3)
・10章の弟子を伝道に派遣する言葉が終わり、この章では当然弟子たちが伝道に出発することが記されるはずであるが、その期待にもかかわらず、弟子たちの実地伝道のことは記録されていない。
・1 弟子たちはイエスについて伝道に行っている。本書において弟子たちの単独の伝道はイエスの復活後まで出現しなかった。2~6節はバプテスマのヨハネが獄中からイエスに質問する記事である。
・2 ヨハネはイエスのために道を備えた者であるが、彼自身はまだ旧約時代に属していたから、イエスを十分に理解することができなかったため、イエスがだれであるかを十分に知ろうとして、あなたは《「きたるべきかた」》かと自分の弟子をつかわして問うた。イエスを世に紹介したイエスが、いまさらこのようなことを問うたのは、イエスが彼の考えていたようなメシヤの型と違うところから彼の心に疑心が生じたからであろう。
・4 以下6節までがイエスの答えです。《見聞きしていること》今ヨハネの弟子が見聞きしていることでなく、日ごろ見聞したこと、すなわち5節に記されているようなこと。
・5 ヨハネの弟子が日ごろ見聞して知っているイエスの行為が列挙されている。これらはみなメシヤが行なうしるしであって、イエスは彼のこれらの行為は、新しい時代の曙光のしるしであると答えられた。《貧しい人々は福音を聞かされ》最後に言われたこのことが、もっとも大事なことである。「貧しい人々」はガリラヤの一般人に適用する言葉である。彼らは文字どおり貧民であり亡国の民であった。
(6)《わたしにつまずかない者は》の「つまずき」は人間を転落させる踏み台やわなのこと。ヨハネをはじめすべての人が、イエスのこれらの行為は悪魔の力から出ていると考えなどして、イエスを見る人の目や耳が、彼らを神の啓示から転落させないならば、幸いである。7~15節は、バプテスマのヨハネに対してイエスのくだした評価である。
(7)イエスはかつて群衆が、ユダヤの荒野に立つヨハネのもとに集ったのは、《風に揺らぐ葦》を見るためであったかと思う。ヨハネの行動は風揺らぐ葦のような弱弱しいものではなかったという意味が含まれている。同時にイエスのところへ弟子をつかわしたヨハネの行動が問われている。
(8)まただれもヨハネを《柔らかい着物をまとった人》すなわち、ぜいたくな生活に慣れた人と考えるものはいない。ヨハネはその正反対の人であった。
(9)群集はヨハネを預言者とみた。イエスは群衆のヨハネ評価を認めた。のみならず彼はキリストの先駆者として、一般の《預言者以上の者である》ことをも認められた。
(10)ヨハネがメシヤの先駆者として預言者以上であることを旧約の預言を引いて証明する。《女の産んだ者》全人類と言うのと同じ意味。マタイはこの言葉にイエスの処女誕生を暗示しているとは考えられない。歴史上最大の人物であるというイエスのヨハネ評価は、それに続く《しかし、天国で最も小さい者も、彼よりは大きい》という言葉でみごとにくつがえされている。イエスはヨハネとその弟子は天国にはいれないとは言われなかったが、イエスにつく者はどんなに小さい者も旧約の時代に属する偉人よりも天国においては大きいとされる。それはイエスの弟子がヨハネやその弟子より道徳的、信仰的にりっぱであるからというのでなく、彼らが受けている恵みの大きさによっていうのである。
(12)《ヨハネの時から今に至るまで》熱心党や革命家が、天国を略奪しようとして《天国は激しく襲われている》。しかしその意味の一つは、天国(イエスの宣教、イエスの民)は世界から抗争されているということである。それはヨハネのうえにすでに臨んでいる死の力や、やがてイエスのうえに臨もうとしている苦難と死によって明らかである。しかし、同時にそれは、神の民によって天国が激しく追及されているという意味である。だれでも《激しく襲う者たちがそれを奪い取っている》のである。
(13)ヨハネは預言者と律法の働きが生きている旧約時代の最後を画する人物である。旧約の時は《ヨハネの時まで》であって、イエスはそこに入っていない。古い時と新しい時とが、ヨハネとイエスによって明瞭に区別されている。
(14)ヨハネは《きたるべきエリヤ》である。エリヤはイスラエルの預言者の先祖であり、メシヤに先駆して再来すると信じられていた。初代協会の信徒はヨハネをエリヤであると見て、両者の立場と使命を正しく評価しようとした。