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パソコンに向かう時間

2016-05-21 23:23:47 | 日記
私は一日のうちで
パソコンに向かう時間が
多いと思う。
朝1,5時間から2時間ほど
ブログ投稿を行う。
夕方から夜にかけて
ブログ下書きと
ブログ投稿を
4時間はかけているから
一日に6時間くらいは
パソコンに向かっている。
これは私の勉強であり、
社会への働きかけであり、
向上への道でもある。
自己確認でもある。
遊びでもあると思う。
考えてみると
私にとってパソコンは
欠かせないものだ。



種まきの譬(解説含む)

2016-05-21 18:51:19 | 日記
(参考 新約聖書 1954年改訳 日本聖書協会)
<マタイによる福音書第13章>
(13・1―23)種まきの譬
(1) その日、イエスは家を出て、海べにすわっておられた。
(2) ところが、大ぜいの群衆がみもとに集まったので、イエスは舟に乗ってすわられ、群衆はみな岸に立っていた。
(3) イエスは譬で多くの事を語り、こう言われた、「見よ、種まきが種をまきに出て行った。
(4) まいているうちに、道ばたに落ちた種があった。すると、鳥がきて食べてしまった。
(5) ほかの種は土の薄い石地に落ちた。そこは土が深くないので、すぐ芽を出したが、
(6) 日が上ると焼けて、根がないために枯れてしまった。
(7) ほかの種はいばらの地に落ちた。すると、いばらが伸びて、ふさいでしまった。
(8) ほかの種は良い地に落ちて実を結び、あるものは百倍、あるものは60倍、あるものは30倍にもなった。
(9) 耳のある者は聞くがよい」。
(10) それから、弟子たちがイエスに近寄ってきて言った、「なぜ、彼らに譬でお話しになるのですか」。
(11) そこでイエスは答えて言われた、「あなたがたには、天国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていない。
(12) おおよそ、もっている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう。
(13) だから、彼らには譬で語るのである。それは彼らが、見ても見ず、聞いても聞かず、また悟らないからである。
(14) こうしてイザヤの言った預言が、彼らの上に成就したのである。
『あなたがたは聞くには聞くが、決して悟らない。
見るには見るが、決して認めない。
(15)この民の心は鈍くなり、
その耳は聞えにくく、
その目は閉じている。
それは、彼らが目で見ず、耳で聞かず、心で悟らず、
悔い改めていやされることがないためである』。
(16)しかし、あなたがたの目は見ており、耳は聞いているから、さいわいである。
(17)あなたがたによく言っておく。多くの預言者や義人は、あなたがたの見ていることを見ようと熱心に願ったが、見ることができず、またあなたがたの聞いていることを聞こうとはしたが、聞けなかったのである。
(18)そこで、種まきの譬を聞きなさい。
(19)だれでも御国の言を聞いて悟らないならば、悪い者がきて、その人の心にまかれたものを奪いとって行く。道ばたにまかれたものというのは、そういう人のことである。
(20)石地にまかれたものというのは、御言を聞くと、すぐに喜んで受ける人のことである。
(21)その中に根がないので、しばらく続くだけであって、御言のために困難や迫害が起ってくると、すぐつまずいてしまう。
(22)また、いばらの中にまかれたものとは、御言を聞くが、世の心づかいと富の惑わしとが御言をふさぐので、実を結ばなくなる人のことである。
(23)また、良い地にまかれたものとは、御言を聞いて悟る人のことであって、そういう人が実を結び、百倍、あるいは六十倍、あるいは三十倍にもなるのである」。

(参考 新約聖書略解 日本基督教団出版局)
・この章の全体は天国に関する譬を集めている。1~23節は「種まきの譬」と、その譬をイエス自身が解釈された記事である。《その日》(一節)この話は前項の出来事がおこったのと同日と考えるには及ばない。《大ぜいの群衆》(2節)に話された。わきで弟子たちが聞いていた。ここの聞く群衆と弟子との比重は山上の説教の場合とは逆である。
・3 譬とは二つの事柄を比較しながら教える方法で、信仰的なことを、日常的なことで表わすのである。ユダヤの農夫はうね(畝)を作らないで、広いままの畑に種を投げ散らすようにしてまく。そのために次に記してあるような事がおこるのである。
・4 《道ばた》畑のそばの道路。《鳥がきて食べてしまった》
・5 《土の薄い石地》岩層の上に薄く土がおおっている土地。太陽の熱が早く浸透してすぐ種を発芽させる。
・7 《いばらの地》いばらの灌木のはえている草むら。
・8 《良い地》ゲネサレの平野のよく耕作された肥沃な土地。マルコは30倍、60倍、100倍と漸増的に表現しているが、マタイは順序をひっくり返している。
・9 ただ言葉だけを理解するだけで、言葉の意味を理解しないとき、イエスは注意を喚起される。
・10以下23節までは弟子の質問に答えて種まきの譬の意味を説明されている。
・11 群衆に譬で話す理由を説明された。すなわち、譬は《天国の奥義》を知らない人に、天国の意味を理解させようとして、日常の事をもって表わすのである。「天国の奥義」は、福音の内容としてのイエス・キリストである。
・12 おそらく当時あった格言「富める者はますます富み、貧しい者はますます貧しくなる」を霊性上の事柄に転用されたと思われる。
・13~15 イエスが譬で語られる理由の深いことを、イザヤの預言の成就とみて語っている。この節はイザ6・9,10の引用。群衆に譬を語るわけをイザヤの言葉で説明されたが、信じない者にとっては、せっかくの譬も役に立たないことを語る結果となっている。
・16・17  11節以下の「彼ら」が、《あなたがた》となり、弟子に向かって語る。弟子たちが《さいわいである》のは、単に弟子であるからでなく、彼らの《目は見ており、耳は聞いているから》である。弟子は天国の曙光を見た人であるからである。
・17 旧約の人間が見聞きしようとしてできなかったことを、弟子たちは見聞きしている。イエスは神の国の現在を信じておられた。
・18~23 種まきの譬のイエス自身の解釈。
・19 人の足や車で踏み固められた道のように、自分の考えや、経験を絶対化して福音を受け容れようとしないとき、福音はその人から取り去られる。
・20 一時の感情ですぐ福音を受け入れる人について言われた。
・21 本書が書かれたのは、《御言のために困難や迫害》の時代であった。
・22 一つの土地にいばらと麦とがともにはえているのが、この世界の実存である。この世界の実存が悪いというのでなく、この実存が《御言をふさぐいばら》になることが悪いのである。この実存の中から神の国に受け入れられる者があるのであるから。
・23 《良い地》はわれわれの性格や、後天的な教養をさすのではなく、イエスによって耕された人間になることである。そのうえでイエスの御言を受け入れることができ、それはわたしたちを成長させ、多くの実を結ばせるのである。