gooブログはじめました!

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

能力が開花するとき

2016-05-29 21:53:50 | 日記
錦織 圭さんは
超がつくほどの天才テニスプレーヤーだが
この人が
ぐんぐん強くなり始める前は
普通に上達のため努力を繰返す選手だったみたいだ。
サッカーの日本代表選手も
高校時代には、
上手ではあるが格段というほどではなかった人が
多いみたいだ。
だが名コ―チとか自分に合った指導者の指導で
頭角を現わし始め、
レベルが超のつく段階にまで伸びた、といった話を
よく聞くことがある。
けっこう多くの人は
良い指導とか
能力を引き出す環境におくとかすれば、
能力が開花するということが
あり得るのかも知れない。
「時」と「環境」そして「能力」が合った時に、
その人はぐんぐん能力を開花させる、
そんなものなのかも知れない。


畑の宝と真珠と地引き網の譬(解説含む)

2016-05-29 21:02:28 | 日記
(参考 新約聖書 1954年改訳 日本聖書協会)
<マタイによる福音書第13章>
(13・44―52)畑の宝と真珠と地引き網の譬
(44)天国は、畑に隠してある宝のようなものである。人がそれを見つけると隠しておき、喜びのあまり、行って持ち物をみな売りはらい、そしてその畑を買うのである。
(45)また、天国は、良い真珠を探している商人のようなものである。
(46)高価な真珠一個を見いだすと、行って持ち物をみな売りはらい、そしてこれを買うのである。
(47)また天国は、海におろして、あらゆる種類の魚を囲みいれる網のようなものである。
(48)それがいっぱいになると、岸に引き上げ、そしてすわって、良いのを器に入れ、悪いのを外へ捨てるのである。
(49)世の終りにも、そのとおりになるであろう。すなわち、御使たちがきて、義人のうちから悪人をえり分け、
(50)そして炉の火に投げこむであろう。そこでは泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう。
(51)あなたがたは、これらのことが皆わかったか」。彼らは「わかりました」と答えた。
(52)そこで、イエスは彼らに言われた、「それだから、天国のことを学んだ学者は、新しいものと古いものとを、その倉から取り出す一家の主人のようなものである」。

(参考 新約聖書略解 日本基督教団出版局)
・天国に関する三つの小さい譬を集めている。初めの二つの譬は天国は最上の宝であること、人はそれを得るためには喜んで犠牲を払うことを教え、その次の地引き網の譬は毒麦の譬と同じ主旨のものである。
・44 天国に関するイエスの豊かな想像力である。まず《畑に隠してある宝》のようなもの。だれが隠したかわからないが、畑を耕す百姓のくわの先で掘り出されて宝、天国とはそのようなものである。《隠しておき》人に奪われることを恐れてだれにも告げない。《喜びのあまり》天国が、どんなに望ましい宝であるかは、それを発見した人は喜びのあまり、《持ち物をみな売りはらい》あらゆる犠牲を払って、《その畑を買う》ほどである。
・45 前節では天国は偶然に発見されたものであったが、ここでは《良い真珠を捜している商人》が、《高価な真珠一個》を見つけたようなもので、いわば多年の望みがかなえられたようなものである。その時、真珠商人は世界のどこにもないたった一つの真珠を買うために全財産を投げ出す。しかも彼は満足である。商人が大利のため小利を捨てるようにしてでないと天国を所有することはできないであろう。《良い真珠》光沢も形も最上のもの。47~50節は地引き網によって天国を譬えているが、前の二つの譬とはその主旨が違い、悪の混入をゆるさないという天国の性格に関するものである。
・47 ここで、譬の舞台は《海》であるが天国が地引き網に譬えられている。それは網の一方を岸に固定して、もう一方を船につなぐ方法か、あるいは二そうの船で引くかして魚をとる。こうして網の中に《あらゆる種類の魚を囲み入れる》。あたかもそのように、天国は善人も悪人も、神を信じる者も、信じない者も、すべての者を一応はその中に入れる網に似ている。イエスはパリサイ人のように、人を人から区別し、完全な者のみを集めようと考えられなかった。
・48 しかし天国は無法無策のことではなく、神は適時にさばきたもうであろう。せっかく網の中にはいっても捨てられるものもあることを教えられた。《悪いのを》ユダヤ人は食べることのできる魚と、食べることのできない魚との規則をもっていた。
ただし天国はこのような規則でなく、イエスの言葉を受け入れるか、入れないかによって、《器に入れ》るか、《外へ捨てるか》が分れる。51、52節は天国の譬を聞いた弟子たちの反応について記してある。おそらく本書の記者の付言であろう。《天国のことを学んだ学者》イエスは弟子たちのことを「学者」(ラビ)と言っておられるが、律法の末節にとらわれて、その意味を学ばないラビのようではなく、「天国のことを学んだ」学者であり、その人は《新しいもの》イエスの新しい律法と《古いもの》旧約聖書の奥義とを、自由に自分の生活に生かす人のようなものである。