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ガリラヤの不信

2016-05-04 09:54:48 | 日記
(参考 新約聖書 1954年改訳 日本聖書協会)
<マタイによる福音書第11章>
(11・20―24)ガリラヤの不信
(20)それからイエスは、数々の力あるわざがなされたのに、悔い改めることをしなかった町々を、責めはじめられた。
(21)「わざわいだ、コラジンよ、ベツサイダよ。おまえたちのうちでなされた力あるわざが、もしツロとシドンでなされたなら、彼らはとうの昔に、荒布をまとい灰をかぶって、悔い改めたであろう。
(22)しかし、おまえたちに言っておく。さばきの日には、ツロとシドンの方がおまえたちよりも、耐えやすいであろう。
(23)ああ、カぺナウムよ、おまえは天にまで上げられようというのか。黄泉(よみ)にまで落されるであろう。おまえの中でなされた力あるわざが、もしソドムでなされたなら、その町は今日までも残っていたであろう。
(24)しかし、あなたがたに言う、さばきの日には、ソドムの地の方がおまえよりは耐えやすいであろう」。

(参考 新約聖書略解 日本基督教団出版局)後に投稿

現証を得るために必要な自覚

2016-05-04 09:03:29 | 日記
現証を得るためには
ある自覚が必要だ。
この自覚があれば
祈りは実現できる。
ではその自覚とは何か。
以下の文章は
そのことを教えてくれる。


(参考 真理第十巻実相篇 谷口雅春著 日本教文社)

<現証を得るために必要な自覚>

祈ったり、黙念したりしても、現証があらわれて来ないのは、その祈りの言葉や、黙念の言葉を裏付ける信念がないからである。信念のない祈りや黙念の言葉は、生命のない形骸みたいなものである。祈りや黙念が効果があるのは、その祈りや黙念の言葉が、生ける神との接触感によって裏づけられることが必要である。「生ける神、既にかく応(こた)えたまえり!」という自覚があって、その自覚を媒介として、既にある実相の世界の「善きもの」が時間・空間の額縁の中に現像されて来るのである。“実相の世界”にある「善きもの」が現実の世界にあらわれて来ないのは、「生ける神」と自分とが一体であるという自覚の欠乏と、“実相の世界”では既に「自分の求むるもの」が与えられているのだという自覚が足りないためである。「神と我とは一体なり、全てのものは既に与えられている」と暇ある毎に常に念ぜよ。