新約聖書「ルカによる福音書」
第20章 「ぶどう園と農夫」のたとえ
19 そのとき、律法学者たちや祭司長たちは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたので、イエスに手を下そうとしたが、民衆を恐れた。
この現象世界は
理念の世界であることが、
以下のご文章でよくわかります。
時間・空間のスクリーンの一コマ一コマに、
「神の子・神の国」の理念が
表現されます
人間の一生においてもそうでありますが、
何回もの転生においても
同様であります。
表現されたものは実は非実在でありますが、
そこに完全なる理念「神の子・神の国」が
表現されます。
「神の子・神の国」を観るには
そこに“いのち”(理念)を観る必要があります。
これは見えない、つかめない“霊妙なる存在”(聖経『甘露の法雨』)です。
(神癒への道 谷口雅春)
【メタフィジカル・ムーヴメントの處依(しょえ)するところの根本的信念は、人間は、人間は神の最高の自己顕現であり、他の被造物は、より低位なる被造物であるから、かくの如きものによって人間が侵されると云うことはない。人間が万物の支配者であると云うことであります。ところが一方に「進化論」と云うものがある。人間が現在あるような姿に現れたのは、たしかに進化の結果であると云うのである。そこで人間が神の理念の最高自己表現であるということをいえば、生長の家は、進化論に反対するかの如き感銘をうける人があるかもしれないが決してそうではないのであります。進化ということは、神の心の中に既に内在する所の至美至善の「理念」が、形ある世界に徐々に展開して尚一そう完全に自己表現を遂げることであって、無限に完全なる「神の肖像」(にすがた)なる理念が人間であるから、その理念は一度に表現されるのではなくして次第を追って徐々に時間的過程を通して表現されつつあるのであります。人間は知性的存在であるから、その完全なる姿が発現する所の「根源」(もと)となるべきものは、知性的原因即ち「理念」でなければならないのであります。】
吾々は毎日、
神の智慧の意識的交流の中に
存在しております。
現象世界は全て、丸ごと、
神の智慧にて存在しているのです。
ということは現象世界は全部一体として霊的存在であって、
神の“いのち”であるということであります。
(神癒への道 谷口雅春)
【神が斯くの如くしてこの広大無辺にして同時に精微微妙なる宇宙を創造したことから考えればそれは無限の叡智をもちたまうものであるということがわかるのであります。その叡智は分子の構造や電子の運動や更に人間の脳髄におこる所の極めて精妙なる智慧の働きを観察するならば、如何におどろくべき力が神の創造力の中に宿っているかということがわかるのであります。斯くの如き叡智ある被造物を叡智なき者が造り得る筈がないからであります。その神の叡智は極微の電子の中にさえも満ちています。神の叡智の存在しない所はないのであります。吾々は神の叡智の中に住んでいるということができるのであります。叡智(智慧の優れたもの)は意識的存在であって、それ故に吾々は大生命の中に生きているのだということがわかるのである。そして吾々自身も自己の自覚体験によって、自ら知っているように意識的存在であるから、大生命と意識的感応又は交流が常に行われているものであるということがわかるのであります。】