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吾々は、人間に必要なる全てのものは“すでに”与えられているという堅信をもたなければならないのである。

2020-06-29 09:48:34 | 日記
私たちは「まことなる願い」を見出し、
それを実現すべく努力すべきである。
「まことなる願い」を見つけ出すこと自体が、
なかなか大変なことであると思うが、
誰もが自分なりのそれを持っていると
言われている。
それを見出して実現させたら、
本望と言えるのではないか。
(祈りの科学 谷口雅春)
【吾々は、人間に必要なる全てのものは“すでに”与えられているという堅信をもたなければならないのである。その信念を起こすためには吾々の魂の奥底から浮び上って来る所の「まことなる願い」は、すでにそれが実在の世界に体験されている事実であるから魂の深き願いとして吾々の世界に浮び上って来るものだということを知らなければならないのである。体験のないものは決して願い求める希望は起らないのである。煙草(たばこ)を吸った体験のないものには煙草をすいたいという切実な願い求めが起らないようにである。その如く吾々の魂の奥底から真にかくありたいという切実な願い求めが起らないようにである。その如く吾々の魂の奥底から真にかくありたいという願い求めが起ってくるのは、実相の世界に「既にかくある」体験があるからであって、ただそれを現象界に現すには強烈な信仰によってただ波長を合わせればよいのである。】
【如何に強烈な信ありとも、放送のないものをラジオ・セットにて聴取する事はできない如く、実在界にないものを、如何に心の波長を起こして現象界に浮び上らせようとしても実現し難いのである。そこで吾々は何が真に吾が「まことなる願い」であるかを知ることが必要であるのである。「まことなる願い」とは「すでに実在界に創造されたる物が内部的要請として吾々の心に浮び上がって来たもの」を称するのである。】


神に全托というのは、具体的にいえばこういうことか!・・・湖に落ちて神にすべて任せるという実に解り易い全托の喩えです。

2020-06-29 09:38:02 | 日記
下の例文の中に男性は湖の中に陥った譬えで説明されていますが、
これは投稿者の考えですが、
この湖を現象世界と考えると良いと思います。
この現象世界は“見えない神”の世界であるので、
現象の摑みをすべて放して神に身を任せればよいのです。
とても参考になる文章です。
(祈りの科学 谷口雅春)
【マン女史「人間には自由意思がある。人間は自ら選ばなければならない。神は本能即ち無意識的な本能によって吾々をここまで発達せしめて来たことは明らかです。しかしここまで発達した人間は、自分で法則を駆使して、自らが自らの主人公として一そう高き状態に進歩することも、進歩を拒むこともできるのです。吾々は自由意思によって神々の生活を送ることもできれば犬猫の生活を送ることもできるのです。神はこのすばらしい可能性を吾々の手に委ね給いました。しかし、この可能性を是非伸ばさなければならないと強制はし給わないのです。そこに吾々の中に凡ゆる光栄もあれば、凡ゆる失敗もあり、凡ゆる恥辱もあるのです。」
「その凡ゆる可能性が私にもあるとおっしゃるのですか。」とその男はいった。「よろしい私はその可能性を使ってみたいのです。私は何をなすのが一番好いか知りたいのです。私は何をなすべきかを決心し、それをやり遂げて見たいのです。それだのに私ができないというのは何故ですか?」
「そのできないわけは、あなたは余り自分の問題にしっかりしがみついているからです。」とマン女史はいった。「今あなたの中に働いているのは恐怖心です。あなたは恐怖心を捨てなければならない。捨つべきものをすてなければならない。すべてを放して神をしてあなたを導かしめるべく神の手にそれを委ねるのです。湖の中へ陥ったと考えてごらんなさい。ずーっと沈んで底にぶつかる。そしてそこに沈んでいる古い木の根や岩角につかまって、そして助けてくれと叫んでいるようなものです。しかし陥った水の底でつかまっていては、あなたの生命は救われようがありません。溺れる外はありません。放しなさい。神に任せなさい。そしたら水の面に浮き上がることができます。」
「私は雑貨商以外の仕事をしようと考えると、何かつかみ所のない空中へでも浮揚するような気がするんです。もう幾年もながく、その仕事ばかりやって来たんですからね。そして私はもう今殆ど60歳なんです。」
「結構です。空中へ浮び上がればいいんですよ。」とマン女史はいった。「そうすれば神さまがあなたの手をとって下さるんです。神さまがあなたの手をとって下さる限りは沈むことも、墜落することも、又まちがった方向へ脱線することもできないのです。しかしあなたがその問題にしがみついている限りは神さまはあなたの手をとることはできないのです。人間は自由意思をもっています。拒絶するものを神さまは決して強制なさいません。」】
これは本当に全托ということを
素晴らしく説明していると
私は感じました。