新約聖書「ルカによる福音書」
第20章 権威についての問答
8 すると、イエスは言われた。「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい」
なかなか本当の神想観ができるまでに
時間がかかるのである。
現象的なもののつかみを放すことが容易でないということと、
神想観の‟実相の正観”までに、
観法の進歩が必要であるからだ。
でもやがて
正しい神想観のやり方に近づいてゆく。
それは間断なく祈る人のみが
体験できるのである。
(如意自在の生活365章 谷口雅春)
【あなたは、今日こそ、ゆっくり落ち着いて神想観を実修するのである。問題をつかまえて、「この問題を、神さま、このようにして下さい」と祈るのではないのである。問題の‟ない”世界に超入するのが神想観なのである。天国には問題は‟ない”のである。その問題のない天国に超入するのが神想観なのである。「われ今、五官の世界を去って、実相の世界(天国)に入る・・・」、「入る」と「居る」と同時即入である。すでに今、天国浄土にいるのである。その自覚を獲得したとき、それが原因となって、結果として現象世界の天国化があらわれるのである。天国といい、浄土といい、エデンの楽園といい、竜宮海といい、いずれも同じく‟実相世界”のことである。「五官の世界を去って・・・」とは、あらゆる外部的、現象的、物質的、肉体的な問題と悩みとを心から放ち去ることである。そして心を自己の存在の中核たる‟実相”に想念を集中して、‟自己が神である”実相を悟るのである。】
人間は
実相という存在の真実を隠された状態で現象世界に誕生してくる。
現象世界は
神の大事な第二創造の舞台であるから、
生まれた時に人が自分が‟神の子”だと分っていないから、
そこに意味があるのである。
つまり人が自由な心を使って、
何も分らない状態から、
実相を顕現して行くという、
つまり本来そうである神を実現して行くという、
魂の生長の過程が尊く美しいのだから、
あえて肉体として現われているのである。
だからこそイエスは
愛の実践を最高位の人間行動と教えているのである。
(如意自在の生活365章 谷口雅春)
【その完全なる「第一創造の世界」の上に人間の想念がつくり出した「第二創造の世界」が重なり合って二重写しとなり、二重撮影の写真が不完全な映像をあらわすのと同じように、不完全な状(すがた)をあらわしているのがこの現象世界なのである。すでに第一創造の実相世界においては、人間は「神の肖像」に造られて、他の一切の主宰者として一切を支配する権能を与えられているに拘わらず、「創世記第2章には、その完全なる霊的人間が、肉体人間として出現する過程を‟土の塵”によって人を創造り・・・・」というふうに形容して書かれており、それが単なる‟土の塵”ではなく、内部の生命の押し出す力によって生かされて、仮りに‟肉体”としてあらわれているのだということを、神が「生命の息をふき入れ給えり」というような象徴的な語句をもって表現されているのである。‟土の塵”(物質分子の象徴)の集合体なる肉体と見えているのはどこどこまでも現象なのであって、その内部の真実の実相は霊的実在であるのが「本当の人間」なのである。この真実を知ることを、「実相を悟る」というのである。】