新約聖書「ルカによる福音書」
第20章 「ぶどう園と農夫」のたとえ
10 収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を納めさせるために、僕を農夫たちのところへ送った。ところが、農夫たちはこの僕を袋だたきにして、何も持たせないで追い返した。
新約聖書「ルカによる福音書」
第20章 「ぶどう園と農夫」のたとえ
10 収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を納めさせるために、僕を農夫たちのところへ送った。ところが、農夫たちはこの僕を袋だたきにして、何も持たせないで追い返した。
何故人生に苦しみというものが存在するのかと、
人生の意味について青年時代に疑問をもち、
その答えはずっと分らずに今まで来たが、
その理由が分ったのは、
アディントンの『奇蹟の時は今』という本を読んだ時である。
今回は『信仰の科学』という本に、
人生に苦しみというものがあるかの如く現われる理由が
書かれている箇所を見つけたので、
それを転載する。
ここに神が顕われると
「善と義と慈悲が現われ、こうして完全なる調和を全うする」
と書かれているが、
このことが素晴らしいわけで、
これが起こると
今までの苦痛なんて‟屁の河童”となってしまう。
(信仰の科学 谷口雅春 F・ホルムス 共著)
【さらに一歩進めて言えば、‟苦痛”は神がそこに在(いま)さないということの別名であるということが出来るのである。それ故、神が顕われれば苦痛は必ず消え去る運命にあるのである。したがって苦痛というものは積極的な存在ではないのである。生長の家の聖経『甘露の法雨』には「神があらわるれば乃(すなわ)ち善といなり、義となり、慈悲となり、調和おのずから備わり」と書かれている。若い人々はこの聖経によって救われて来ているのであるが、それはそこに秘められている真理が徐々に顕現されるからであり、さらに一度神があらわれると、それと全く時を同じゅうして善と義と慈悲が現われ、こうして完全なる調和を全うするからである。そして癒しがもたらされるのである。】
人間は誰でも自分固有の‟心のカメラ”を持っているので、
この心のカメラで毎分毎秒撮影して
潜在意識の深層に保存しているわけです。
そしてその撮影され保存された‟もの”が
自分というものを形成し
自分の自由な心の使用により
「現在心+潜在意識」で表現され現象として現れるのです。
ですので、
美しい神の世界を現象化するためには、
現在心を変え、潜在意識を変えるしかなく、
これは神の力に依拠するしか
方法はないのであります。
自己の本体なる‟神の心”を顕わし出せばよいのであります。
(如意自在の生活365章 谷口雅春著)
【‟肉体の人間”は、肉体という仮面をかぶった‟神の子”なのである。そして‟肉体”の頭脳を通して仮りに‟もの”を考える。頭脳は一種のカメラ的役割をしているのであって、その人が立っている意識の観点~カメラに喩えれば‟カメラ角度”によって、自己に写ってくる形が変わってくるのである。従って、その人には観る角度によって、自己に写ってくる形が変わってくるのである。従って、その人には観る角度に従って人生がいろいろの形に見えるのであり、生活苦多き世界にも見えれば、順調に事が運ぶ世界にも見え、人間は病気するのが当たり前にも見えれば、人間は本来健康なのが当たり前にも見え、この世界が調和せる世界にも見えれば、争いに満ちた世界にも見えるのである。こうして各人は各人の人生を撮影する‟心のカメラ”を持ちながら、常に魂は向上しつつあるのである。各人には各人の人生の生き方があり、いろいろの姿を自分の心に写しながら、最後には‟神の国”を存在の根元に見出すのである。そして、その‟神の国”が自己の内にあることを見出すのである。】