神想観において
一番解りにくいことは
「心の眼で実相を観る」
ということです。
「観なければ現われない」と言われていますし、
心に目なんか付いてないから
見ることなんてできないからです。
まして“実相”なんて分ること自体が難しいものを、
見ようがないわけであります。
それ故ここから百尺竿頭進一歩を進めることが、
超と言えるほど厄介なわけです。
ではここで何が必要であるのかと申しますと、
やはり真理であるのです。
この現象世界はいのちの波動であり、
心の影であって実在しているのではなく、
本当にあるものは“視えない”“生命の実相”なのであるという真理が、
理解もでき感覚的にそうだと納得できるようになって初めて、
“視えない実相”を心の眼で捕捉することが
可能となります。
実相というものが真理として分るから、
心の眼で観ることが可能となります。
「真理は汝を自由ならしめん」とイエスが言ったのは、
神なる本来の面目である「生命の実相」が
宇宙の本体であり本当の自分であると分ることで
実相の自由が得られると
いうことであります。
このことが分って“実相の正観”ができます。
実相への「信」が不退転になるまで
自己の内で真理が熟成する必要があります。
でも谷口雅春先生が終始お説きくださいましたように、
実相は既にもともと自分の本体として実在しているわけであり、
唯その真実をさとることだけが問題であるのです。
実相が自分の内にあったとしても、
その事を知り、現象化させないと、
宝の持ち腐れであり、
この現象の世で、実相に生きる喜びを味わうことは
出来ないわけであります。
業の流転を免れません。
やはり「生命の実相」の真理を学ばないと駄目であり、
私は『ヨハネ伝講義』(谷口雅春)と『法華経解釈』(佐藤勝身・谷口雅春)の2冊を根本聖典として
推薦します。
実相独在という真理はキリスト教と仏教の根本真理ですので、
この原点にまで立ち戻ることで、
真理の把握は絶対的なものになるのです。
真理を本当に分るからこそ、
神想観で「実相を心の眼で観る」ことが
可能となるのです。
真理が分るということは
「現象ナシ実相あるのみ」が
確信となることです。