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「既に天に成る世界」を「地の世界」に持ち来たすには、真理を知ることと実相に対して心の波長を合わせることが必要である。

2020-06-30 11:03:37 | 日記
すでに実在の世界において
“吾々になくてはならぬもの”は
与えられている。
しかし吾々がそれを受け取るには、
実相に対する“信仰”が必要である。
自分の本体が“見えない神”である真理をつきとめ、
且つその“神”を「信」と「観」で
顕わし出すのである。
信仰によって奇蹟が生ずるのである。
現象世界は実在していなくて、
視えない実相世界が実際には存在しているのだという究極の真理が
分って来ないといけない。
(祈りの科学 谷口雅春)
【吾々の祈りは吾々が如何なる程度に神を信ずるかという程度に比例してかなえられるのである。これは神が愛情深き存在であり信ずる者に対してのみ依怙贔屓をなし給うというような意味ではないのである。イエスのいったように神は太陽が善人にも悪人にも光と熱とを与え給い雨が善人にも悪人にも等しく潤いを与えるように万人を始めから恵み給うているのである。このことは金光教祖も、「頼まいでもおかげはやってある」と百節の御理解の中に喝破しているのである。然も金光教祖は、「おかげはわが心にあり」とも喝破しているのである。「すでに与えられているおかげ」と、「吾が心に従って与えられるおかげ」との関係は、微妙な関係にあるのであって、そこに多くの人々は迷うのである。既に与えられているならば祈る必要もないではないかとも考えられるし、祈ってそれが与えられるならば、神は訴えたり泣きついたり懇願したりする者に対して心を動かし給うではないかというような考えも生ずるのである。併し「頼まないでも与えられているおかげ」は「聴取を申し込まないでも放送されているラジオ放送」の様なものであるのである。それは既に放送されているのである。しかしそれを具体的に現象世界に於いて受けとる事ができるのとできないのとは、吾々がラジオ・・セットをそなえて放送に対して波長を合わせると否とにあるのである。神が宇宙を創造したのは前述の通り「心の波」によってであるから吾々が神の創造に対して波長を合わし、それを見えざる波動の世界から現実の世界に浮び上らせて来る力も、「心の波長」でなければならないのである。即ち目に見えざる放送の波を現実に受けとる為のラジオ・セットは、吾々各々の「心」であり、吾々は心の波長を神の創造の波長に合わせることによってそれを現実化する事ができるのである。すでに吾々になくてならぬものは実在界に於いて創造済みなのである。この事が即ち「み心の天になる世界」の意義である。それを「地の世界」即ち現実界に持ち来たすには、「祈り」即ち「心の波長」を起こす事が必要なのである。即ち「祈り」とは実在界にすでに存在する所の事物を求むるに従って現実界に浮び上らせるための「心の波動」を起こすことになるのである。信仰はその心の波動の起こし方の強いものをいうのである。「もし芥子種程の信あらばこの山に動いて海に入らんといえども必ず成らん」という所の「芥子種ほどの信」とは強烈なる受信セット的波長である。一切の存在は時間空間を超越せる実在世界にすでに存在するのであるが、それを所要の時間空間面に出現せしめるのは心のラジオ的波動によるのである。これを祈りというのである。】

「すでにある」と信ずることのできるもののみ「すでにある」実在とぴったり波長を合わす事ができるのである。

2020-06-30 10:27:03 | 日記
「すでにある」と信じることが
ちょっと難しいのである。
実相(いのち)は
目に見えるものではないからだ。
自分が信じられないから、
そんなものはないと、決め込んでしまうと、
このことが神性隠蔽の始まりなのである。
「内」に本気で向かうことをしないと
“神の子”は見つからないのである。
「内」に向かうことを多くの人はしないのであるが、
「内」に向かうことが本当の“神”を見いだすことに
つながるのである。
“神”は内にいるので、
内に求めない人は、
“神”を見つけることが不可能なのだ。
内に神を求め続けていくと、
内にもともと“神の子・神の国”が存在していることに、
気付くのである。
『万物はこれ神の心、万物はこれ神のコトバ』
の“神の心・神のコトバ”は
人間の内に実在しているからである。
(祈りの科学 谷口雅春)
【かくて強烈なる信仰は奇蹟を起こすのであるが、「神を信ずる」のと「不幸の存在を信じ」て神に泣きつくのとは根本的に違うのである。多くの人達の祈りがかなえられないのは、彼らが余りにも強く「不幸の存在を信じ」て、神を信ずることの方が稀薄であるからであるのである。ヨガナンダは「人間は神の子であるから泣きついたり懇請したりすることはいらないのであって、神の子である所の吾々はただ神に要求(demand)すればいいのである」といっているのであるが、実は要求する必要もないのである、それはすでに与えられているのである。それは己に放送局の放送が今現にあるのと同じであって、ただ放送の波が目に見えないにすぎないのと同様である。吾々は信仰によって波長を合わしさえすればいいのである。即ち信仰とはすでにあるもの(実相)と同じ波長を自分の心に起こしてそれを確認する事である。「すでにある」と確認する事ができなければ神への堅き信仰ということはできないのである。「すでにある」と信ずることのできるもののみ「すでにある」実在とぴったり波長を合わす事ができるのである。】


“生命の実相”の真理を本当に信じられることにより、神想観で「実相を心の眼で観る」ことが可能となるのであります。

2020-06-30 10:00:40 | 日記
神想観において
一番解りにくいことは
「心の眼で実相を観る」
ということです。
「観なければ現われない」と言われていますし、
心に目なんか付いてないから
見ることなんてできないからです。
まして“実相”なんて分ること自体が難しいものを、
見ようがないわけであります。
それ故ここから百尺竿頭進一歩を進めることが、
超と言えるほど厄介なわけです。
ではここで何が必要であるのかと申しますと、
やはり真理であるのです。
この現象世界はいのちの波動であり、
心の影であって実在しているのではなく、
本当にあるものは“視えない”“生命の実相”なのであるという真理が、
理解もでき感覚的にそうだと納得できるようになって初めて、
“視えない実相”を心の眼で捕捉することが
可能となります。
実相というものが真理として分るから、
心の眼で観ることが可能となります。
「真理は汝を自由ならしめん」とイエスが言ったのは、
神なる本来の面目である「生命の実相」が
宇宙の本体であり本当の自分であると分ることで
実相の自由が得られると
いうことであります。
このことが分って“実相の正観”ができます。
実相への「信」が不退転になるまで
自己の内で真理が熟成する必要があります。
でも谷口雅春先生が終始お説きくださいましたように、
実相は既にもともと自分の本体として実在しているわけであり、
唯その真実をさとることだけが問題であるのです。
実相が自分の内にあったとしても、
その事を知り、現象化させないと、
宝の持ち腐れであり、
この現象の世で、実相に生きる喜びを味わうことは
出来ないわけであります。
業の流転を免れません。
やはり「生命の実相」の真理を学ばないと駄目であり、
私は『ヨハネ伝講義』(谷口雅春)と『法華経解釈』(佐藤勝身・谷口雅春)の2冊を根本聖典として
推薦します。
実相独在という真理はキリスト教と仏教の根本真理ですので、
この原点にまで立ち戻ることで、
真理の把握は絶対的なものになるのです。
真理を本当に分るからこそ、
神想観で「実相を心の眼で観る」ことが
可能となるのです。
真理が分るということは
「現象ナシ実相あるのみ」が
確信となることです。