新約聖書「ルカによる福音書」
第19章
46 彼らに言われた。「こう書いてある。
『わたしの家は、祈りの家でなければならない。』
ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にした。」
新約聖書「ルカによる福音書」
第19章
46 彼らに言われた。「こう書いてある。
『わたしの家は、祈りの家でなければならない。』
ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にした。」
実相が顕われるためには
三正行が必要であります。
私の場合は
一切の行の中核となっていたのが、
聖経『甘露の法雨』を含む聖経『四部経』であります。
これは実相独在哲学の“いのち”と言ってよいものであります。
(参考 生命の実相第8巻 無限生命に汲む道 谷口雅春)
【「神想観」はすなわち「実相観」でありまして、存在の実相の自己生命の実相を認識することがいよいよ清くなるに従って、われらは実相そのものに成り切ってしまうのです。われらは神そのままの円満さになりきってしまうのです。ここにわれらは何ものにも縛られぬ完全な自由を得るのであります。信念は、実相を現実の世界に持ち来たすには、ぜひともなくてはならぬ要素であります。実相の円満さを肯定し、本来の完全なる実相を、ただ心で考えているというような状態だけでは、われらはまだ十分ではないのであります。われらの「念」が存在の実相と一致し、生命の実相がわれらの「念」と、ピッタリ一致してその間寸分の隙もないようにならなければならないのであります。このように信念が実相に一致するようになるのは聖典読誦と神想観と愛行とによってであります。】
「神想観」で「生命の実相」を観じることの修行を、
とにかく続けてゆくことをたゆまない時は、
遂に「実相」を観じることが可能となります。
ただこれには真理の獲得が要り、
愛行(これは色々あっていいのです)も不可欠だし、
間断なき祈りが要ります。
実相の正観も必要です。
でも報酬は約束されています。
安心して実修すればよいのです。
(参考 生命の実相第8巻 無限生命に汲む道 谷口雅春)
【五官に見ゆる状態は嘘にすぎず、実相を正観せよ! かくする時、心はただただ完全健康のみを意識するでありましょう。この完全健康の意識を現実界に具象化するためには、いよいよふかく、この意識を清めてゆかなければなりません。われらが毎日怠らず神想観して実相へ実相へとわが心の行進を続けて行きますならば、自覚はいよいよ深く冴えて生命の実相に這入って行き、わが生命の実相の精髄の精髄にまで貫き行くのであります。それには招神歌を誦えたる後に、「実相を観ずる歌」のとおり繰返し念じつつ、神の造りたまえる大調和の実相世界にひたすら心を向け、思念をあつめてこの大実相世界の知恵と愛と生命とに充ち満ちて大調和なる有様を観ずるのも一方法です。しかるのち、全思考、全感情、さては心の全状態を通じて、われこの大調和の実相世界に坐す神の子なりと強く念じ、神のもち給うすべての善きもの流れ入り、われに大生命生き、大生命にわれ生き、われと大生命と寸分の隙間なく一つであると観ずるのです。かくするとき、貴下の現実に属するいっさいのものは、挙げて実相世界の完全な状態にまで高揚せしめられるのであります。】
【「神想観」はすなわち「実相観」でありまして、存在の実相の自己生命の実相を認識することがいよいよ清くなるに従って、われらは実相そのものに成り切ってしまうのです。】