あなたの魂は偉大なる普遍的神の意識の一部である。あなたに用意が出来た時、主はあらわれる―あなたの内なる主が。
2020/5/27
本当の自分を見つける努力を怠っている間は、本当の神(自己の内なる神)が顕われることはない。
自己の内奥深くに真実の自己があると気づき、
それ以外の神?に判断の基準を仰いでいる時には、
‟神の子”もどうすることもできないのである。
(参考 天と地とを結ぶ電話 J.クレンソー・谷口清超宗教論集)
【ゼナーの心霊会の主なる指導霊は、アガシャという霊人であるが、こう言っている。
「あなたの指導霊はあなたがあなた自身何ら努力しないときは、あなたのために何一つすることは出来ないのである」と。
彼はこうも言っている、凡ゆる人間の主たる真の指導者が彼自身であるという事を悟るならば、この理由は明白であろうと。即ち、
「あなたの魂はあなたの最も偉大なる指導者である。そしていかなる外界の指導者のいかなる努力も、それは魂の智慧を開発する方向に向けられ、その智慧をあなたの客観的意識にまでもち来たそうとするだけなのである。実相に於いて、あなたの魂は凡てを知っているのである。何故なら、あなたの魂は偉大なる普遍的神の意識の一部であるからである。あなたに用意が出来た時、主はあらわれる―あなたの内なる主が。】
‟神の言葉”を食することで魂の生長をやり通してくださいというのが、尊師谷口雅春先生の終生の念願でした。
2020/5/26
人間の一生は
「心」の使い方の生涯であります。
「万物はこれ神の心、万物はこれ神のコトバ」でありまして
現象世界の根底には、
見えない‟実相世界”(神の心)が
実在しております。
ですから人は言葉は神性あふれる言葉を使って
人生を航行することが、
この現象の世で魂の向上をし、
実相を顕わすために不可欠となります。
つまり現象界での「言葉遣い」が‟神のコトバ”に
近づくためであります。
この現象世界において「心」が無限生長を行うために、
人が神の言葉を魂のパンとして毎日食し、
この‟魂のパン”を一生食し続けて、
‟実相”を人々に実現した頂きたいと念願し、
『生命の実相』その他の膨大な聖典を世に出し、
『甘露の法雨』を含む聖経『四部経』を
神の御指導でお書き下さったのでした。
人間は‟神の子”であり人間の本体は「神の心」であるので、
私たちは身口意を
つまり行動と言葉と思うことを
「神の心」にふさわしいものに
する必要があるのです。
谷口雅春先生のご著書は全て‟神の言葉”ですから、
極端に言えば、
それのみ毎日主食として食していればよいわけで、
雑草を生えさせてしまうと、
神の種子が雑草に邪魔されて生長不可能となるのです。
谷口雅春先生の尊い生涯は、
一生貫いて「神の言葉」を書き続け、
それを日本人の魂のパンとすることであったのです。
これを広めることで
日本人は魂の生長を国民として行えるのです。
この深い深い真実は、
ちょっと洞察してみれば、
ああそうだったのか、
と誰にでも分ることであります。
これは余談ですが、
私は自分を振り返ってみて、
この「神の言葉」に依拠し、
「神の言葉」でいのち永らえ
「神の言葉」の紹介のために
微力ながらひたすら知らず今まで行動してきたことを
稀な幸運と
今気がついております。
私を指導する守護霊様のお陰であります。
絶対者の実現としての人間・・・その中に一切が含まれている“無”とは、現象の有無相対を超えた“絶対者”そのものである。
2020/5/9
人間が見えない絶対者“神の心”の表現体であるということです。自分を中心とした現象世界は理念なる“神の心”なのです。
人間自体が絶対なるものであり、
この真理が分ってくると
素晴らしいです。
ごらんください。
(参考 神真理を告げ給う 谷口雅春著 日本教文社)
<絶対者の実現としての人間>
【「無よりして一切を生ず」とか「無一物中無尽蔵」とかいう語(ことば)がある。この場合の“無”とか“無一物”とかいうのは、“有無相対の無”ではないのである。それは“絶対無”とでも言うべき“無”なのである。その中に一切が含まれている“無”である。その中に一切が含まれている“無”とは、現象の有無相対を超えた“絶対者”そのものである。絶対者は“空間”に規制せられないから絶対者は遍在である。絶対者なる神は、遍在であるから、どこにも在(まし)ましてすべての人間の内に“仏生”として、また“内在のキリスト”として宿ってい給うのである。宿っているよりも、その“仏生”又は“内在のキリスト”こそ“本当の自分”なのである。人間は絶対者の“個性的顕現”である。“絶対即個”の実現である。】
聖経『甘露の法雨』は上の例文で示されている絶対者について
このように記しています。
神の『心』のことであります。
【神こそ渾ての渾て、
神は渾てにましまして絶対なるが故に、
神の外にあるものなし。
神は実在のすべてを蔽う。
存在するものにして
神によって造られざるものなし。
神が一切のものを造りたまうや(中略)
如何なる道具も材料も用い給わず。
ただ『心』をもって造りたまう。
『心』はすべての造り主、
『心』は宇宙に満つる実質、
『心』こそ『全能』の神にして遍在したまう。】
この世は人間の世ではなく神の世であるのだ。このことに気づいた人は神の国に生きることができる。
2020/5/20
肉体の奥に、
現象の奥に、
完全なる“神の国”が存在しているのです。
【物質の奥に、
肉体の奥に、
霊妙きわまりなく完全なる存在あり。
これこそ神に造られたる儘の完全なる『汝そのもの』にして、
常住健康永遠不滅なる『生命』なり。
汝ら今こそ物質を超越して
汝自身の『生命』の実相を自覚せよ。】(甘露の法雨)
神想観を実修し、
真理を勉強しているうちに、
この現象の世は実際には存在してなくて、
代わりに「視得ない“神の国”」が
見えないけれども支配しているのだと、
直感できるようになってきます。
“神の子”の自覚というのは、
自分は実際には神なるものであり、
神の国に居るのだとの自覚なのです。
その時、
【生命の実相を知る者は
因縁を超越して生命本来の歪みなき円相的自由を獲得せん。】
という状態になる訳であります。
藤原敏之先生は
「目に見える物は心の影であって本当にあるものではなく、
目に見えないものが本当にあるものだ。」
と仰っています。
さらに「無いもの(現象)をナイと、断じないと、
本当にアルものは現われない。」とも
おっしゃっています。
「現象は本当にないんだ、生命の振動の波動に過ぎない」という、
究極の真理がさとりの急所であります。
「われみずからにては何事をも成し得ず、天の父われにいまして御業を成さしめ給うのである」(イエスの語)
2020/5/23
神の力しか存在しないので、
神にすべてをおまかせすればよいのである。
実相の顕現も一切の困った事態の解決も、
神の力を招来することができれば、
為されるのである。
このために‟科学的祈り”は3段階の順序で可能であると、
いいうのである。
1Recognition(実相独在の真理を知ること)
2Realization(実相独在の真理を自己に現実化すること)
3Release(放すこと、つまり神にまかせてしまうこと)
臨済録は「随所に主となれば立つ所皆真なり」という。
雅春先生は「そのままの心を大切にすべし」と仰る。
聖書は‟我は有りて在る者なり”(I am that I AM)と
書いている。
この正念を育て、明確な‟神の子”の自覚へと、
もっていく必要がある。
そのために必要であるのが、
‟科学的祈り”(神想観)である。
3段階の段階を経た祈りは、
間違いなく実相を顕わしてくれるはずだ。
(奇蹟の時は今 アディントン著・谷口雅春訳 日本教文社)
【信じようと信じまいと、いずれにせよ、あなたは、誰かが奇蹟的な神癒を受け得るための媒体になることができるのである。なにも、あなたは、ある宗教の狂信者になる必要はないのであり、あなたが神癒の媒体になるためには、ある宗教宗派に所属しなければならぬということもないのである。神癒はあなたの努力を通してあらわれて来るように見えるかも知れないが、それは逆説的であるけれども、神癒の技術を身につける予備条件は先ず「われみずからにては何事をも成し得ず、天の父われにいまして御業を成さしめ給うのである」(イエスの語)ということを確乎として信ずることである。それでいて、あなたは、他の人が‟必要な信仰”を受け容れるための‟扉”となることができるのである。宇宙には、あなたが‟ある”よりも一層大なる力が存するのであって―その力は人生のあらゆる面に内在しており、その力にとっては何事も不可能というものはないのであり、而もその力はあなたの信仰にしたがって、あなたを通して、そしてあなたのために働いて下さるのである。おそらく、人類の歴史を通して神癒のページを繙(ひもと)いて一瞥してご覧になれば、神癒というものが、どんなに普遍的に存在するものであるかを一層よく理解されるであろうと思う。】
人間が神の自己実現であり、‟完全なる神”の表現のセンターであるならば、どうして不幸、災難、貧乏、病気等に悩むことがあり得よう
2020/5/22
神は唯一の創造者であり、
神は愛深く、
智慧無限にして、
その完全なる智慧によって、
愛に背かざる完全に調和せる世界を創造し給うたのである。
一言でいえば、
「神の御創りになった世界に不完全があるはずがない」
ということである。
これは事実と見るしかない。
一切の不幸は思い違い、考え違いから
生じたことなのだ。
神と神の創造せる世界の完全さがあるのみなのだ。
だが問題は「どうすれば神の国」はあらわれるか」の
方法論である。
このことは私は谷口雅春先生のご著書と
アディントンの『奇蹟の時は今』を使って、
神想観を実修しつつ探究中である。
やはり祈りが鍵なのだ。
(如意自在の生活365章 谷口雅春 日本教文社)
【われわれの知らなければならないことは、病気にせよ、不幸にせよ、災難にせよ、現実の眼で見れば存在するがように見えているけれども、その実は存在しない(実在に非ず)ということである。何故なら、神は唯一の創造者であり、神は愛深く、智慧無限にして、その完全なる智慧によって、愛に背かざる完全に調和せる世界を創造し給うたのであるからである。すべての‟悪”または‟不調和”は、人類意識の暗示によって‟あるか”のごとくあらわれているにすぎないのである。わたしたち生長の家人は‟実在する不幸”と戦うのでもなければ、‟実在する病気”を癒やすために思念するのでもないのである。人類意識の催眠術から眼ざめるために、‟実相”の完全な相を念ずるのである。人間が神の自己実現であり、‟完全なる神”の表現のセンターであるならば、どうして不幸、災難、貧乏、病気等に悩むことがあり得よう。】
目に見えるものは心の影で本当にあるのではなく、目に見えない”輝く神の生命”があるのである。
2020/5/22
藤原敏之先生のユーチューブ動画でのお言葉を、
タイトルに掲げたが、
このことについて
谷口雅春先生のご文章がありました。
目に見える現象はナイのです。
目に見えない実相が実際にはあるのです。
この単純なように見える簡潔な真理こそが
谷口雅春先生の説いた真理であり、
釈迦とキリストが説いた真理であるのに、
多くの宗教家は複雑な自分の用語で解釈する結果、
かえって分らない別物と化してしまうのである。
(如意自在の生活365章 谷口雅春 日本教文社)
【今あなたは神想観を実修して、眼をとじ、肉体の不完全さを見ず、ただ実相の完全さのみを見るのである。そして肉眼の状態はただ自分の過去の”想念の影”であって、それは仮の相であって実相ではないことを知るのである。仮りの相は、本当にアルのではない。ただ実相のみがあるのである。実相は‟神の子”であり、霊的実在であるから、いかなる黴菌にもヴィールスにも冒されず、気候の変化にも、水質の変化にも、風土の変化にも冒されることはないのである。ただ神の生命が輝きながら自分の内部に充ち満ちている実相をわたしは見るのである。】
実相を自覚すれば現象の功徳は自然に伴う
2020/5/22
「自己の「完全なる実相」のみを自覚することを求めよ。」と書かれているが、
この「完全なる実相」に的をしぼり、
「完全なる実相」を正観せねばならない。
1‟実相への焦点化”と2‟実相の正観”が不可欠だ。
もうひとつ3‟神を信じて任せ切る”がこれに加わる。
神想観ではこの3つを的確に実行すれば、
実相は顕われるのである。
(如意自在の生活365章 谷口雅春 日本教文社)
【自己の「完全なる実相」のみを自覚することを求めよ。個々の現象の御利益を求むることをやめよ。現象は“自覚”または“暗示の感応”として自然に展開して来るのである。実相の自覚より生ずる現象は、健康、幸福、繁栄等の善き姿をもって顕われ、人類意識や迷える者の“言葉”や“想念”によって暗示されている姿は不完全な姿となって顕われて来るのである。
わたしたち“神の子”たる人間の実相は、神ご自身が、個身をあらわして、自己実現し給うているのである。それゆえに、人間は個身を現じつつ“無限”を内に蔵するのである。そして人間がこの世に出現したのは、肉体の快楽のためではなく、神ご自身の栄光を顕わさんがためであるのである。神の栄えをあらわしたならば、神は完全であるから、自然にこの世界は完全になり人間もまた完全になるのである。】
‟生命の実相”とは「此の世界が此の儘神の国であり人間は其の儘神の子なり」ということです。神想観は
唯実相円満完全なる相のみを観ずるのです。
2020/5/24
‟生命の実相”とはこの現象世界が
「実はこのままで‟神の国”である」
ということです。
‟物質の国”じゃなくて‟神の国”なのです。
だから物質と見えるものを
‟神のいのち”と観なければならないのです。
言ってみればこれほど簡単なことはないのです。
谷口雅春先生のみ教えは、
この真理のみであります。
(参考 詳説神想観 谷口雅春 日本教文社)
【‟生命の実相”と申し候事は此の世界が此の儘神の国であり人間は其の儘神の子なりと申すに候、観ずればそれが現わるるものに候、観ぜざれば現わるる事なし さればこそ心を静めて実相を見よと申すに御座候 現象に如何なる悪顕われ候とも何れも神の作り給える実在にはこれなく候間気にかけずに唯実相円満完全なる相のみを観ずれば結局は円満完全なる実相顕わるるものに之有り候】
従って神想観は
‟神の子”と‟神の国”を
観ずることです。
観じないと
顕われないのです。
だから心を静めて実相を見ることです。
「神の作り給える実在にはこれなく候間気にかけずに唯実相円満完全なる相のみを観ずれば結局は円満完全なる実相顕わるるものに之有り候」
と結ばれています。
「‟霊”と‟心”とが調和の状態にあるとき、その二つと三位一体になっている‟体”に於いて、可視的世界に神癒が実現するのである」
2020/5/25
神想観について
考察します。
「‟霊”と‟心”とが調和の状態にあるとき、その二つと三位一体になっている‟体”に於いて、可視的世界に神癒が実現するのである」
と書かれているように
1‟霊”(実相)と‟心”とを一体にするということは、
一つは「実相と一体化する」ということであり、
Realizationである。
「われ即ち実相、実相は即ちわれ」ということです。
これは基本的神想観と同じ原理だ。
2もう一つは心の眼で
「神の子と神の国を心の目で観る」ことである。
肝腎なことなのだ。
これはRelease(放す)であり、
‟実相を観る”から‟実相に任せる”ことができるわけだ。
‟実相を観る”‟神の子を観じる”ことが
ポイントであり、
神想観の本質である。
この現象の世は実は「神の国」(キリスト)であるので、
それを観じるわけである。
「実相覚で実相を観じる」というのが
これに当たる。
(奇蹟の時は今 アディントン著・谷口雅春著)
【真の霊的治療は‟心”を変革することによって起るのである。「悔い改めよ、天国は今此処に手近にある」(マタイ伝第3章2節)悔い改めるということは、自己の心を変革して、生活態度を一変するということである。その人の全人格に神癒を受け入れる準備が整うたとき、今ここに天国が現前する事が起るのである。神聖なる正常なる生理的活動の行われている天国は常に今此処にあるのである。‟霊”と‟心”とが調和の状態にあるとき、その二つと三位一体になっている‟体”に於いて、可視的世界に神癒が実現するのである。】
神想観においては、神がすべてのすべてであること、自己の欲するすべてがすでに与えられている事実を、深く魂の奥底より肯定すればよいのであります。
2020/5/26
神想観では、
神がすべてのすべてであること、
されば自己は神と分ちがたく一つであることを全心情をもって知り、
自己の欲するすべてがすでに与えられている事実を、深く魂の奥底より肯定すればよい、
ということです。
「実相においては既に与えられ済みである」ことを、
認めそして実相(神)を観じることが、
神想観の基本であります。
(生命の実相第8巻「久遠生命に汲む道」谷口雅春)
【神想観は一つの祈りでありますが、今なきものをくださいという祈りではないのであります。すでに与えられているものを確認する息宣(いのり)であります。だから神想観で健康を祈り求める際には、単に健康を祈り求めてはならないのであります。健康を常に祈り求めるということは、自己の健康ならざることを自己自身に信ぜしむるにいたるのであります。人間は神の子である。それ故、人間は常に健康であるので今さら健康を求める必要はないのである。ただまず神の子である自分は今現に健康をもつと信じ、実相の意識に入り、実相の完全さこそ‟本当のもの”であること、神がすべてのすべてであること、されば自己は神と分ちがたく一つであることを全心情をもって知り、自己の欲するすべてがすでに与えられている事実を、深く魂の奥底より肯定すればよいのであります。】