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無目堅間(めなしかつま)の小船(おぶね)に乗る

2020-06-15 11:17:15 | 日記

実相世界へ行くには
小船に乗る必要がある。
それは「無目堅間(めなしかつま)の小船(おぶね)」
という船、つまり神想観のことです。
これは素晴らしい乗り物なんだけれども、
その乗物に本当に乗るためには
時間と空間をはりつけにする、
つまり本当はないんだ、
と気が付かないといけない。
これは真理を知るしか
他に方法はないです。
(如意自在の生活365章 谷口雅春)
<“如来の願船”に乗って彼岸に渡る>
【現象界の事物に執着する心を、放ち去り棄てさった時、“迷い”は消える。“消える”というのは「本来ない」からである。現象界の事物から心の執着を去ることを、神想観の実習の際には、
「われ今、五官の世界を去って・・・」と誦えるのである。そして「・・・実相世界に入る」というのは、竜宮海に入ることであり、既に“居る”ことでもある。竜宮海とは、時間・空間いまだ生ぜざる超時空の創生(うみ)の本源世界(生ミの底の世界)である。
 その本源世界に入る道(修行)が神想観である。それを古事記神話は「無目堅間の小船に乗る」と表現されているのである。この小船にのることが、仏教的にいえば「如来の願船に乗って彼岸にわたる」ことになるのである。「如来の願船」にも大乗あり、小乗ありであるが、「信心歓喜、一向専心、至心廻向、唱命念仏、即得往生」となれば、それは「無目堅間の小船」に乗ったことになる。行きつく先は、極楽浄土であり、住吉之世界であり、無量寿の世界であり、竜宮世界であり、それは浦島太郎の神話で年寄らぬ世界として表現されている。無量寿の世界では年寄らぬのは当然である。】


「時間の否定」と「空間の否定」という乗物に乗ることによってのみ、超時空の実相の世界に入ることができるのである。

2020-06-15 10:07:47 | 日記

「入竜宮不可思議境涯」というのは、
実相世界に超入した人の境涯である。
これは「時間の否定」と「空間の否定」という乗物に乗ることによってのみ、
可能となるのである。
これは祈りのことであるが、
“科学的祈り”も坐禅もこれを最後には目指すが、
神想観もこれを目的としており、
神想観は
時間・空間を超えて彼岸に渡る乗物の
最高の方法である。
「神様に対して“神の子”であることを
絶対他力の無条件無我全托する」ことで
可能である。
神の許にいる“神の子”だからが完全なることを委ね、
あとはサラリと放すのである。
(如意自在の生活365章 谷口雅春)
<入竜宮不可思議境涯のこと>
【“年寄らぬ”のは時間を超越している世界であるから、時間がないから年寄らぬのである。それは現象の尺度で“量”(はか)ることができ“ない”から“無量寿の世界”というのである。「即得往生」というのは“即座”にこのまま極楽浄土に“往(ゆ)”いて“生”まれていることである。“即座”であるから“死んでからでない”、従って時間の否定であり、“今このままで”である。“今このままで”極楽に往くというのは、「往かずして往く」である。『維摩経』にあるところの「不来の相にして来たる」であり、「去来なくして去来する」のであり、「場所の否定」であり、「空間の否定」である。「時間の否定」と「空間の否定」という乗物に乗ることによってのみ、超時空の実相の世界に入ることができるのである。
「無目堅間の小船」というのは、「目無し」とは「時間の目盛り無し」ということ、「堅間」とか堅く空間が詰まりて、無空間であること、その無時間・無空間の極微の絶対無の一点が「小船」という語で象徴せられているのである。すなわち“無時間無空間の絶対無”(相対の無に非ず)の関門を超えてわたしたちは竜宮に入るのである。これが入竜宮不可思議境涯である。】