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新約聖書「ルカによる福音書」

2020-06-17 12:56:21 | 日記

新約聖書「ルカによる福音書」
第20章 「ぶどう園と農夫」のたとえ
16 戻って来て、この農夫たちを殺し、ぶどう圜をほかの人たちに与えるにちがいない。」彼らはこれを聞いて、「そんなことがあってはなりません」と言った。


“病まざる心”を再確立するには神の生命と人間の生命とは一つであると悟らねばならぬのである。

2020-06-17 11:07:20 | 日記

病まざる心を確立するには
人間が“神の子”つまり“神”であることを
さとらなければならないのである。
「天に在します汝らの父は完全なれば、されば汝らよ、父の完全であるが如く完全であれ」
とイエスが説いているように
唯神実相哲学を学んで
本当のこと(真理)を知る必要があるのである。
イエスの祈り方の指導は、
実相顕現の方法として優れている。
人間は神の肖像として造られているから、つまり“神の子”だから、
“神の子”(実相独在)の真理を1さとり、2自己において実現し、
3“神の子”たることを神に全託するという三段階の方法論は、
実相を顕わすという点についてだけいえば最高である。
まずは自分が実相を顕わせれば祈る相手はよくなります。
(信仰の科学 谷口雅春 F.ホルムス共著)
【さて精神治療家は“病気”というものが実際には“気を病む”という意味であることを自覚せねばならぬ。そして彼は“病まざる心”を再確立せねばならぬのである。“病まざる心”を再確立するには神の生命と人間の生命とは一つであると悟らねばならぬのである。「天に在します汝らの父は完全なれば、されば汝らよ、父の完全であるが如く完全であれ」とのイエスの命令に彼は従うのである。彼は自力で己れ自身を完全にすることは出来ぬが、本来完全なる自己の実相に目覚め得るということを知るのである。換言すれば、彼の生命と神の生命とは一体であるから、自分に内在する生命は完全である、ということを自覚するのである。これが神の子の“神聖さ”と称せられるものである。清浄なる心と清らかな願望、愛と真理にひたすら振り向く心得(ハート)、これらは神の子の“神聖性”(holiness)の特徴をなすものである。しかし、あなたがそのような高い意識の状態に到達した時、その時こそあなたは“完きもの”となるのである。辞書を引いてみればわかるように英語では神聖性holinessと完全性wholenessとの二つの語は同一語源から発しており、これらの二つの語は同一なのであるから、同じ意味を持つのである。神聖(ホーリネス)であるということは自働的に完全(ホールネス)であるということである。】


治療家が“神の子”をさとり、そのさとりの心で患者を“神の子”と観て祈るから、患者が神癒するのである。

2020-06-17 10:29:47 | 日記

治療家が実相に深く潜入できることが、
患者を癒やす前提事項だ。
“実相”は一つものであるから、
Aさんの実相を祈ってあげる際、
治療家の実相を通してAさんの実相を観るに及ぶのである。
ただしAさんが潜在意識の抵抗を示さず
治療家の信じる実相を受け入れることができることが必要で、
それがあればAさんの実相が顕われる。
従って治療家が自分自身、
人間が“神の子”であるという実相を悟ることが、
人様の実相を祈る上で、
根本的に不可欠なのだ。
(信仰の科学 谷口雅春 F.ホルムス共著)
【さて、われわれは「精神治療家は自分自身を治療する」と述べたのであった。われわれはそれ故治療家というものは、自分自身の心の中にて「完全なるもの」の実在を悟るべく務めるものである、と知るのである。
 この理由は簡単である~彼自身の心の中で真理であると悟られたことは、彼の患者にとっても真理でなければならぬのである。癒す者と癒される者との二人は一つの「共通の心」として自己同一しているのだから、もし治療家が自分の患者の病気を認める信念を悉く己が意識より追い出してしまい、患者と見える人の奥に「完全なるもの」が存在することを認める信仰を獲得するならば同時にこの健康の信念が患者の心の中にも確立するに相違ないのである。治療家の心が変るにつれて患者の心は変るのであり、治療家の心の迷妄の雲が晴れる時、そのとき、両者ともども心の曇りが晴れるのである。】