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新約聖書「ルカによる福音書」

2020-06-18 12:16:15 | 日記

新約聖書「ルカによる福音書」
第20章 「ぶどう園と農夫」のたとえ
17 イエスは彼らを見つめて言われた。

「それでは、こう書いてあるのは、何の意味か。

『家を建てる者の捨てた石、

これが隅の親石となった。』

 


神想観の真髄中の真髄

2020-06-18 10:52:38 | 日記

神想観の根本中の根本とは

何でありましょうか。

雅春先生がお書きくださっている箇所があります。

神想観の真髄であるばかりでなく、

真理の中核でもあるのが

以下の短いご文章であります。

(生命の実相第8巻 無限生命に汲む道)

【人は神なり、人の生命は神の生命なりというのが「生長の家」の根本思想であります。神は絶対健康であるが故に、人もまた絶対健康でなければならないのです。人はその本来の実相において常に健全であり、そして本来の実相だけが人間の全存在であるという自覚に到達するとき、われらは絶対の健康を心に印するのです。心に印したいっさいの事物は、それがなんであるにもせよ、自己の肉体の全細胞に印せられないではいないのです。これは先刻も申しましたとおり肉体の全細胞は、意識を有する存在であるからであります。それ故絶対健康を心に印することは、絶対健康を全身を通じてあらわし、絶対健康を全組織を通じて実現し、絶対健康を全細胞を通じて生きることになるのであります。そこでどうしたらこの絶対健康の自覚を得、絶対健康の意識を生長させうるかと申しますと、(1)自己生命について、神なるその本来の面目を念うことによって、(2)本来の面目のみを念ずることによって、(3)本来の面目のみが存在のすべてであると知ることによって、この自覚は促進されるのであります。この三条件が備わりますと、われらの念はくるいなく実相をうつし出し、真理に充たされ、真理そのものを念うのであります。そして念というものは習慣性をもっていて、最もたびたび考えるところのものにいよいよ深く這入り行くものでありますから、この思念の習慣をつづけて行きますれば、われらはいよいよますます真理の方向へ進み行き、実相の世界に属する一切の存在をいよいよますます深く意識するにいたるのであります。】


あなたが悪しき習慣を棄てる場合、先ず第一に、あなたは“神の愛に陶酔する”ところの“神を信仰する情熱”によって心を奪われるのである。

2020-06-18 10:12:37 | 日記

われわれが悪しき習慣を、病を、罪を棄てようとするとき、
私たちは“神を信仰する情熱”によって
心を奪われるのである。
それ(実相の自覚)には「神の子と神の国」の素晴らしさに
心を奪われるということが
先行するのである。
私が30代後半に通った谷中全生庵の座禅会で
中川宗渕老師が詠んだ一休の歌を思い出すのである。
「本来の面目坊のあで姿
一目見てより恋し初めしか」
吾々も実相の素晴らしさに心奪われる時が、
真理キリストの顕れるときであるのだ。
(信仰の科学 谷口雅春・F.ホルムス共著)
【あなたが悪しき習慣を棄てる場合、何か他に“あなたの心を奪うもの”が必要なのである。先ず第一に、あなたは“神の愛に陶酔する”ところの“神を信仰する情熱”によって心を奪われるのである。信仰的情熱enthusiasmという言葉はin(
の中に)とgod(神)という意味である二つのギリシャ語から語源を発しているのである。本来その言葉は、食事を摂り、崇拝の酒を飲み乾したる信仰の帰依者が、実際に指導霊なる神を己が肉の宮に入れ、その神に憑かれた、という意味なのであった。彼は事実“指導霊なる神に呑まれた”のであった。これが完全に生命を満たし、そして魂を高めたところの神授の陶酔なのであった。“神の霊に満たされし”者は低き欲望とか卑劣なる欲望を全く抱くことがないのである。これが“最後の晩餐”または“ミサ”の本来の意義なのである。キリストの肉体に関わる象徴的儀式によって、人間はキリストとなるのである。】


実相を直視する“キリストの意識”に目覚めることによって彼は全く新しき人間となるのである。自分は(視えない)“神の子”つまり“実相人間”であるという意識です。

2020-06-18 09:55:19 | 日記

自分が肉体人間であると思っていた人が
“キリストの意識”に目覚めることによって
彼は
全く新しき人間となるのである。
“キリストの意識”ということは、
人間はロゴス(神の言)であり、
神の肖像である“神の子”なのだという自覚です。
人間は“真理”つまりキリストであると
いうことです。
“いのち”だから視えない「霊妙なる」存在です。
これは時間・空間を、つまり肉体を
はりつけにして(実際は無いとして)
得られることが可能な霊的真理であります。
自分は現象を超えた実在者なり、
という自覚であります。
実相人間というか“神の子”という理念体が自分だという自覚であり、
現象を超えていながら
現象の本体となっているという、
“霊妙なる存在者”です。
でも現象世界にいて、
“このもの”の存在を感じることは可能です。
例えばメロンを食べておいしかったら、
それは実相人間の働きだし、
テレビを観ていてためになったら、
これも実相人間(神の子)のはたらきです。
メロンとかテレビという物質を見ずに、
おいしかったとか、
テレビで教えられたという神の愛を観るのです。
ですから実相人間を感じることは、
神の善と愛を現象的に感じることが、
それに当たるわけです。ただ実相人間は四六時中働いています。自分の本体ですので・・・。
実相人間(神の子)は
生き生きと現象界に働いているのです。
(信仰の科学 谷口雅春・F.ホルムス共著)
【精神科学の運動の信奉者は実相を直視する“キリストの意識”に目覚めることが、全ての悪習慣を克服する秘訣であると信ずるのである。あなたは今や新しき人なのであり、その“新しさ”はあなたの本性の中に、そしてあなたの悟りの中にあるのである。自己に内在する神人はいかなる過てる欲望も抱かず、過てる激情、渇望とは無縁であり、また特定の狭い見地に立つこともないのである。彼は神の子として感じ、考え、語り、そして行動するのである。彼はこの意味において全く新しき人間となるのである。】