gooブログはじめました!

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

大生命が吾々に於いて自己顕現して人間となっているのである。だから吾々人間は互いに一体であって、ただ一つの大生命の生命を分ち有つのである。

2020-06-21 10:39:15 | 日記

人間は実相において「一つの生命」だから、

人間はみな“神の子”として兄弟であるのである。

キリストは「汝自身を愛する如く汝の隣人を愛せよ」

と教えたのだし、

それはすべての人間の実相は一つであり、

実相を共有しているからである。

華厳経も

「一仏は一切仏にして、一切時に、一切所に説教し給う也」と説くのであり、

人間は“神の子”(神・仏)である点において一つである所の、

兄弟として大調和しているのである。

これが実在としての在り方である。

(神癒への道 谷口雅春)

【吾々は神がすべての本源であることを今悟ったのである。神のみがすべての本源であるからすべてのものは一つでなければならないのである。神は大生命である。大生命が吾々に於いて自己顕現して人間となっているのである。だから吾々人間は互いに一体であって、ただ一つの大生命の生命を分ち有つのである。だからすべての存在は互いに相連関をもっており孤立したものは一つもないのである。吾呼べば天地は応えるのである。吾動けば宇宙は動くのである。互いに肉体は分れていると見える所のものも、実は離れていないのであって互いに「一つの生命」なのである。吾が環境は、吾が宇宙の実質に対して印象した所の自分の心の原型の通りのものなのである。自分は神の自己顕現として一切のものを自己の想念のままに支配する力をもっているのである。すべての存在は大生命に於いて自分の兄弟であるが故に、吾々はすべてのものと和解し調和しているのである。だから自分の周囲にあるすべての人間も自分に対して和解し調和しているのである。自分は神の子であるから、善の他何事をも想念しないのである。だから自分の周囲にはただ善きことのみが現れてくるのである。自分は幸福であり、愉快であり、すこやかであり豊かである。神なる大生命に感謝いたします。】

 


吾々は本当の人間を見ることはできないが、本当の人間はたしかに存在している。・・・見えない“実相人間”が本当の自分です。

2020-06-21 10:18:06 | 日記

本当の人間は“神の子”であります。

神の肖像として造られた“神の子”であります。

“このもの”が自分の本体であり、

たった今も“ここ”に存在していますが、

“ここ”というのは

目に見える場所ではないのです。

“見えない”所にいて、

しかも自分を中心とする全宇宙を司(つかさど)っている、

大存在であります。

この大存在なる“神の子”が

創造の神と共に

実在しています。

全宇宙を貫いて存在しているのが

“神の子”という自分の本体です。

円満完全大調和なる“実相人間”であります。

この自分の本体であると同時に宇宙の本体である所の“神の子”を

誰にも分りやすく一言で言うと、

自分の“いのち”ということができます。

自分は“いのち”をいただいてこの世に誕生したのだし、

此の世が丸ごと消える時は、

“いのち”が

消える時ですが、

その時には自分は“いのち”と共に

霊界にいます。

また朝顔の種、双葉、茎、花等は

その成長過程において常に環境世界と一体ですが、

アサガオの理念は常に“そこ”にあって

不可視の霊的実体であり続けます。

人間も赤ちゃんから老人になるまで

環境世界と一体でありますが、

理念である“神の子”は終始霊的実体(霊妙なる存在)として、

“そこ”にあるわけです。

時間空間の現象世界を司(つかさど)る霊的実体が

“神の子”であります。

この神の肖像として造られた“神の子”を

これが真の自己なりとさとり、

“これ”と一体化したのが、

釈迦であり、イエスであり、谷口雅春先生です。

これを突き止めた聖人や哲学者は、

他にも古今相当いるはずであります。

私はカントもその一人だと思ったので、

『実践理性批判』という哲学書を今後調べ、

このブログでも紹介します。

華厳経等にも手を延ばすかも知れません。

要するに“神の子”という理念としての、

つまり神様の子どもである円満完全存在の探求は

今後も続きます。

(神癒への道 谷口雅春)

【しかし脳髄を摘出したあとの人間はものを考えるであろうか。決して考えないのであります。そうすると脳髄は“もの”を考えないが、脳髄がなくとも“もの”を考えないし、脳髄を引き去った残余の人体も“もの”を考えないのである。そこで脳髄を使うことによって「あるもの」が“もの”を考えるのだということがわかるのであります。即ち脳髄の背後に、“もの”を考えている所の「生き物」があるのであります。その「生き物」はい如何なるものであるか。吾々はそれを見ることはできないのであります。見えないけれども、吾々は体験として「考える所の個性」が人体ににあって生きていることを知るのであります。彼が“何もの”であるかは吾々は見る事ができないのであります。しかしその「考える物」はたしかに存在するのであります。“それ”こそが「本当の人間」であります。吾々は「本当の人間」を見る事はできない。本当の人間の造った所の物なる肉体を見るに過ぎないのであります。即ち肉体は「本当の人間」の被造物であり道具であるのであるに過ぎません。】