(これは6月26日分の投稿です。)
吾々は「吾に宿るキリスト」を自覚しなければなりません。その時はじめて「吾に汲むものは永遠に死なない」という真理を自己の生命として体験出来るのです。
キリスト(真理)はたった今
私の内に生きておりますが、
全ての人の内に生きているのであります。
しかし肉体を十字架につけて抹殺し、
肉体の無を実証したときに
吾らの内なるキリストも
復活するのであります。
雅春先生は「吾々は『吾に宿るところのキリスト』を自覚しなければなりません。」
とお書きくださっています。
「その時はじめて『吾に汲むものは永遠に死なない』という真理を自己の生命として、体験として自覚することが出来るのであります。」
と明確に約束してもおられます。「生命の実相」を自覚せよ、です。
(神癒への道 谷口雅春)
【キリストというのは二千年前にユダヤに出て来た肉体の人間かと思ったら単にそうではないのであって、吾々の中に「今」生きていられるのであります。キリストは十字架につけて肉体を抹殺し、肉体の無を実証したときに生命として復活し、時間空間を支配する権威を得たのであります。「十字架を負う」と云うことは肉体の抹殺であると共に、時間空間タテ・ヨコ十字を自己の掌中に一つに握っていることをあらわしております。だから黙示録にあらわれたる白髪「久遠のキリスト」は「吾れはアルファなりオメガなり。生と死との鍵を持てり」と云っております。吾々がキリストと同じ自覚に入るとき吾々の中にキリストがあるのであり、時間空間を超えながら、而も時間空間を一つに纏めて握っているところのその不可思議ないのちの力が把握されるのであります。吾々は「吾に宿るところのキリスト」を自覚しなければなりません。その時はじめて「吾に汲むものは永遠に死なない」という真理を自己の生命として、体験として自覚することが出来るのであります。】
真理が吾々において生きて働き出す必要があるということであり、
その時がキリストの復活です。