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キリスト(真理)を復活させよう!

2020-06-25 21:50:04 | 日記

(これは6月26日分の投稿です。)

 吾々は「吾に宿るキリスト」を自覚しなければなりません。その時はじめて「吾に汲むものは永遠に死なない」という真理を自己の生命として体験出来るのです。

キリスト(真理)はたった今
私の内に生きておりますが、
全ての人の内に生きているのであります。
しかし肉体を十字架につけて抹殺し、
肉体の無を実証したときに
吾らの内なるキリストも
復活するのであります。
雅春先生は「吾々は『吾に宿るところのキリスト』を自覚しなければなりません。」
とお書きくださっています。
「その時はじめて『吾に汲むものは永遠に死なない』という真理を自己の生命として、体験として自覚することが出来るのであります。」
と明確に約束してもおられます。「生命の実相」を自覚せよ、です。
(神癒への道 谷口雅春)
【キリストというのは二千年前にユダヤに出て来た肉体の人間かと思ったら単にそうではないのであって、吾々の中に「今」生きていられるのであります。キリストは十字架につけて肉体を抹殺し、肉体の無を実証したときに生命として復活し、時間空間を支配する権威を得たのであります。「十字架を負う」と云うことは肉体の抹殺であると共に、時間空間タテ・ヨコ十字を自己の掌中に一つに握っていることをあらわしております。だから黙示録にあらわれたる白髪「久遠のキリスト」は「吾れはアルファなりオメガなり。生と死との鍵を持てり」と云っております。吾々がキリストと同じ自覚に入るとき吾々の中にキリストがあるのであり、時間空間を超えながら、而も時間空間を一つに纏めて握っているところのその不可思議ないのちの力が把握されるのであります。吾々は「吾に宿るところのキリスト」を自覚しなければなりません。その時はじめて「吾に汲むものは永遠に死なない」という真理を自己の生命として、体験として自覚することが出来るのであります。】

真理が吾々において生きて働き出す必要があるということであり、

その時がキリストの復活です。


誰でも自分の内に時間空間の源があって、全時間全空間をば、時間空間交叉の一点に(否一点もあらざる無字の中に)握っているのが吾々なのであります。

2020-06-25 20:59:08 | 日記

(6月26日は出かけますので、
この投稿は26日の分とお考えください。)

吾々は全時間全空間を
一点に握っている素晴らしい存在であります。
自分が“神の子”と分った以上は、
フィルムの掛け替えをしたいと思います、観の力で・・・。
(神癒への道 谷口雅春)
【斯ういう風に吾々が生命の端的を把握いたしますと、ここに此のまま吾々は一切の空間を握り一切の時間を握っている自分を発見するのであります。全く吾々は素晴らしい存在であります。自分の数寸の掌(てのひら)の上に大宇宙を握っている。誰でも自分の内に時間空間の源があって、全時間全空間をば、時間空間交叉の一点に(否一点もあらざる無字の中に)握っているのが吾々なのであります。まことにも素晴らしいものであります。ですから吾々個々人は悉く宇宙の中心であり、各々全智全能であって、何でも出来ないことなどは決してないのであります。そして吾々はこの十字の中心から心の波を起こして、心に描けば富も現れて来るし、不幸が来ると観ずれば、不幸も現れて来るのであります。その現わすためのスクリーン(銀幕)として生命が仮りにつくったものが時間空間であります。その時間空間に於いて、自分の心が描いたものを何でも映画のように映し出すのであります。だから自分の思う通りに、貧乏であろうが、幸福であろうが、不幸であろうが、どんなものでも現わすことが出来るのであります。併しながら現したものは、自分が現わしたのだから、直ぐそれを変更しようと思えば、心の振動(念の波動)を変えれば直ぐまた別の姿にかわるわけでありますから、どんな不幸が顕れていても、そんなに歎くことはない。自分の心の波の変化によって、自由にフィルムの掛けかえが出来るのでありますから。】


実相の自由

2020-06-25 13:34:59 | 日記

生長の家のみ教えが素晴らしいのは「実相の自由」を得られるからです。この「実相の自由」は、現象世界を超え、現象世界の霊的根底となっている“真実の自己”をさとりそれと一体化することによって得られる自由です。この現象の世では、現象的な事物を“神のいのち”と見抜けず“物質である”と錯誤する迷い心から生じる“神”ならざる想念が原因で生じる“罪と病と死”の業の流転から逃れることは、普通なら至難の業なのです。しかし現象世界は実は“視えない神の国”であるという真理を説いて人々を現象苦から救済すべく挺身したのが、釈迦でありキリストであったのです。さらにその易しくて難しい唯神実相哲学を分かり易い言葉で生涯、聖典として書き残したのが、谷口雅春先生なのでした。この現象世界は、実は“視えない神の国”つまり実相世界(神の理念)なのであって、自分の“いのち”の現われなのです。“いのち”あって肉体の自分がいて自分の現象世界がある。その“いのち”世界こそ“実相世界”であり、“神の子理念”なのです。例えばアジサイの花は視えない“神のいのち”であり、私も、視えない“神のいのち”としてここにいます。時間・空間非実在と知ったときに、まさにその現象のその位置に“神のいのち”在りと分るのであります。藤原敏之先生は宇治錬成のユーチューブ動画で「目に見えるものは心の影で本当にあるものではなく、目に視えないもの(神)が本当にあるのです」と教えています。真理の探究と神想観が不可欠なのは、“真実の自己”と現象の心が一体化し“実相の自由”を得るためなのです。
【人間が自由であるのは、“神の子”であり、至上者(いとたかきもの)の子であるからである。それであるから、己が人生、己が環境を支配する権を与えられているのである。今まで自縄自縛していた自分自身の直ぐ今此処に、“神の子”としての実相の自由があることをわれわれは見ることができるのである。ひとたび、われわれが、自己内在の自由を見出すならば、外界は常に内部の自由に一致したものとなるのである。それを奇蹟と見るならば、それはまことに奇蹟でもある。まことに奇蹟の時は今であるのである】(奇蹟の時は今 アディントン著・谷口雅春訳)

 

 


吾々は「宇宙の心」のうちの其の一部を使用しているのであるから、自分が実相をさとることが先決問題で後はさとった実相の心を人に当て嵌めるだけなのだ。

2020-06-25 09:49:15 | 日記

吾々人間はただ一つの宇宙の心(実相)を共有しているのであるから、

自分が生命の実相(神の子・神の国)を確信すれば、

それを病気の人にでも誰にでも当てはめれば良いわけで、

自分が実相をさとることが

先ず先決問題なのである。

(神癒への道 谷口雅春)

【大体、個々別々の孤立した心が吾らの心として人間の数だけあると思うのが間違いである。各個人は決して個々別々に離れ離れに孤立した存在ではなく、普遍の「宇宙の心」の中にある其の一部分の心であり、随って「宇宙の心」を通して互いに一体であるのである。「宇宙の心」は一切の心を包容するのであるから、吾々の心は「宇宙の心」の一部分であり、換言すれば、吾々個人の心とは、「個人の心」ではなくして、「宇宙の心」のうちの其の一部を、吾等が使用している部分なのである。「宇宙の心」は『一つ』であるから、「宇宙の心」は同時に「健康」と「不健康」との両方の念を起すことは出来ない。しかし吾々は「宇宙の心」は神であるから、「健康」の念のみを起こしていることを知るのである。だから病者が起こしている「不健康」の念はウソであり、非真実であり、ニセモノであることを知るのである。だから「不健康」と見るのはウソであると信じて、「健康」のみを神想観中(また出来るならば、行住坐臥)観るのである。】