皆さん、こんにちは。
昨日もよく雨が降っていました。一転して今日は良いお天気でしたね。
もちろん秋の空なので雲が多いですが。
以前、夏目漱石氏の『吾輩は猫である』を読んだという記事を書きました。
先日再び、「吾輩は猫である」を読みました。
よくまあ猫の観点であれだけの長い小説を書けるものだなとつくづく感心します。
夏目漱石氏のイマジネーションというのは素晴らしいです。(夏目氏風に言うと、癇癪(かんしゃく)らしいのですが)
夏目漱石という名を一躍有名にした本、というだけのことはあります。
しかし、終わり方が気にいらなかったので、他にも読んでみようと思い『坊ちゃん』と『こころ』を読みました。もしかしたら「吾輩は猫である」だけが特別なのかなと思ったので・・・・・・。
『こころ』は、吾輩は猫であるとよく似た感じを受けました。物語としては全く違うものですが、非常に夏目氏の思想や思考が含まれていて、私はあまりこの本は好きではありません。
やはり吾輩は猫である同様、同じような結末だからです。
私は個人的に、こういう結末を迎える小説が嫌いです。
『坊ちゃん』は、他の2冊と違い非常に面白かったです。小説も他の2冊に比べ、結構短めです。
悪者(本の中での夏目氏が思う悪者)をやっつけるところなんかは非常に気持ちが良く、気分がスカッとしますね。
小説の最後は他の2冊とは多少違うものの、やはりよく似た感じで結末を迎えます。
私は夏目氏の本はまだ3冊しか読んでいませんが、夏目氏は小説の中で死生観を描きたかったんだと思います。
そして夏目氏の特徴として、結末はかなり急で結構無理に終わらせたという感が否め(いなめ)ません。
「あっ、もう終わりだな」、「結末を迎えるな」というのがわかってしまいます。
しかし、
夏目氏の時代にこのような小説が出たことは、非常にセンセーショナルなことだったと思います。
どの本もユーモラスでイマジネーションが素晴らしいです。
但し、『こころ』に関してはユーモアは含まれていません。どちらかというと、自分の思想や思考がほとんどです。
夏目氏は小説で死生観を説き、死というものを読者に問いかけたかったのかもしれません。
しかし、夏目氏が本を書いていた時代はそれが当たり前だったのでしょう。
なぜならば、日本国民にとって戦争がすごく近いところにありましたからね、そう考えるのは至極当然のことです。
今の小説が死を描くのは、この時代の小説に影響されているのかもしれません。
しかし私は、『死をもって責任を取る』、『死をもって全てを終わらせる』、『死をもって決着をつける』ということは絶対にあり得ないと思っています。
死ぬことで終わりにはなりません。自分は終わりにはなりますが。
残された人間はずーっと続いているんですから。
『死をもって償う』こともあり得ないと思っています。
『償う』ということは、生き続けて自分が何をできるかを問うこと、だと思っています。
しかし、『死刑制度』の賛否はまた別問題です。それは話の観点が違うものになってしまいますから。
これからも夏目氏の他の本を読みますか?と聞かれれば、
私は、「たぶん読みません」と答えると思います。
途中までは面白い本なんですが、どうもあの死生観が好きになれないからです。
夏目氏とはまた違った思想や思考に興味がある方は、東野圭吾氏の『手紙』をおすすめします。
東野氏の本は死で(例えばの話ですが)終わりにはなりませんから。
そこからが物語のメインディッシュになりますからね。
すごく勉強になりますし、感動もしますし、すごく考えさせられる本です。
そう言えば、
夏目氏の本の中で、『感動』の二文字はなかったですね。
だから「もっと読みたい」と思わないのかもしれません。
私は、『生きることは感動すること』、『生きることは感じること』
だと思っていますから。
須山 洋平