今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

世界最長の橋吊り「明石海峡大橋」が開通した日

2008-04-05 | 歴史
1998(平成10)年の今日(4月5日)10年の歳月と約5000億円を投じて建設された世界最長の橋吊り「明石海峡大橋」が開通した。これで、神戸(神戸市垂水区)と淡路島(兵庫県淡路市〔旧津名郡淡路町〕)が繋がり、1985(昭和60)年に完成した淡路島と徳島を結ぶ大鳴門橋を合わせて神戸ー鳴門ルートが全線開通。神戸徳島間は1時間40分とほぼ半分になった。全長3,911m、中央支間長((主塔間、塔と塔の距離)の長さ1,991mは世界最長。明石海峡大橋の主塔の高さは海面上298.3mであり、国内では東京タワー(333.0m)に次ぐ構造物である。建設当初は全長3,910m、中央支間1,990mであったが、1995(平成 7)年1月17日の阪神・淡路大震災で地盤がずれ、1m伸びた(阪神大震災の影響参照)。潮流が激しく、水深が深い明石海峡に、橋梁技術の粋が集められ、建設された。世界第2位の吊橋であるデンマークのグレートベルト橋と姉妹橋縁組みをしている(吊り橋の一覧参照)。
当初、中央径間長1,780mの道路・鉄道併用橋とする計画であったが、建設費用の問題から1985(昭和60)年8月27日に道路単独橋とする方針に変更され、基礎の位置および上部構造の見直しが行われ、現在の中央支間長となった。
工事期間は本格工事10年。工事従事者は延べ約210万人。鋼材は約20万トン。コンクリートは約42万立方メートル。1988年開通の児島ー坂出ルートと1999年開通の尾道ー今治ルートで「四国三橋時代」を迎えるが、1998年3月に発表された「全国総合開発計画」(5全総)では、さらに和歌山ー淡路島の「紀淡」ルートと大分ー愛媛の「豊予」ルートの海峡横断大橋を完成させ、将来的には「四国五橋」にする構想であった。管理者は本州四国連絡高速道路株式会社(愛称はJB本四高速。JBはJapan Bridgeの略)である。現在、本社は兵庫県神戸市中央区にある。本州四国連絡橋個々の概説は同社HP本州四国連絡橋の紹介参照)
明石海峡大橋は、公募により愛称がパールブリッジと定められたが、地元でもこの名前で呼ぶ人は少ないが、夜はその愛称の名に相応しく文字通り異彩を放つている。
明石海峡大橋のケーブルには光の三原色のイルミネーションランプが1084組取り付けられており、季節や日時に応じて彩りを変えている。(国際的な照明デザイナーである石井幹子が担当)ライトアップは日没から24時まで。橋が日本標準時子午線近くにあることから、毎正時と毎30分にも点灯している。(ライトアップパターンはJB本四高速HPのここを参照)又、神戸側の橋桁内に舞子海上プロムナード(以下参考に記載の「舞子公園」参照)という遊歩道、展望台が設けられている。橋台(アンカーレイジ)内のエレベータで上り海面からの高さ47mへ上がり、そこから海側約150mまで行くことができる。途中、床が透明になっている部分もあり直接海面を望むことができる。以下参考に記載の「明石海峡大橋(パールブリッジ) 吊り橋の壁紙写真 」では、その美しい景観が見れるので覗いて、みると良い。
鳴門ー淡路・淡路ー神戸間を結ぶ架橋構想自体は戦前からあったが、技術的など当時の事情から立ち消えになっていた。この橋を最初に構想したのは、戦後の1949(昭和24)年に、神戸市長となった原口忠次郎(プロフィールは以下参考に記載の「銅像 原口忠次郎」参照)だといわれている。戦前に内務省神戸土木出張所長を務め、終戦直後の神戸市局長、翌年復興本部長を経て、神戸市助役を務め市長となった原口(工学博士でもある)は神戸-鳴門間の架橋建設に執念を燃やし続け「市長は夢を見ているのか」と批判されたことに対し「人生、すべて夢なくては」と言ったことから夢の架け橋と呼ばれるようになったとされてる。戦後神戸の街づくりを語るとき彼抜きでは語れない。「山、海へ行く」大構想の下にポートアイランドなど建設がされたのも彼の発想からである。
1988(昭和63)3月13日、北海道と本州を結ぶ青函トンネルが開通、4月1日には四国と本州をつなぐ瀬戸大橋が開通し、日本列島は北から南まで鉄路で結ばれた。この2つの開通は明治・大正の時代から構想されてはいたものの、直接には、1954(昭和29)年の台風15号の暴風雨をついて出向した青函連絡船・洞爺丸の座礁・転覆事故、その1年後の1955年5月11日の高松港を出向した国鉄宇高連絡線紫雲丸が濃霧の中、貨物航送中の第三宇高丸と衝突し転覆、修学旅行中の中学生ら168人が犠牲になるという2つの海難事故がきっかけが引き金となった。難工事のため莫大な費用(工費600億の予算の倍以上)と長期を要して青函トンネルが完成し道民の悲願が実現した頃には周りの環境がすっかり変り、航空機に客を取られ、大赤字。瀬戸大橋も事情は似たようなものであったが、それにもかかわらず、本州四国連絡橋は、1998年のこの「神戸鳴門ルート」で世界一の明石海峡大橋を、翌1999年に「尾道ー今治ルート」で来島海峡大橋が完成したが、どの橋でも自動車の交通量は当初の見込みを下回っており、また、期待された「架橋効果」を四国にもたらすまでにはなっておらず、「世紀の大事業」もいまや年間数十億もの維持費に泣かされお荷物状態である。特に、最後の2つなど、予想を下回ったというよりも、むしろ、もともとの計画があるから造ったといった感じである。最近の詳しい状況は良くわからないが、2002(平成14)年7月の、道路関係四公団民営化推進委員会の第4回議事要旨など見て推測してみてください。
道路関係四公団民営化推進委員会第4回議事要旨(速報版)
http://www.kantei.go.jp/jp/singi/road/dai4/4gijiyousi.html
橋の開業によって、本州と淡路島を結ぶフェリーは次々と廃止され、2007年2月以降は、明石淡路フェリー(愛称:たこフェリー)が、本州と淡路島を結ぶ唯一のフェリーとなり、のんびりと海を渡っての淡路・四国への旅行は過去のものとなってしまいつつある。現役時代よく乗ったフェリーでの旅が懐かしく思い出される。
なお、今日は、「明石海峡大橋」開通10周年記念日である。これを記念して、ケーブルを支える主塔の最上部に上る有料ツアー「ブリッジワールド」が1昨日の3日から始まった。塔内のエレベーターで98階まで上り、眼下の橋や神戸市外、淡路島が眺められる。この催しは、11月末まで木・金・土・日と祝日に実施とか。料金は2100円だそうだ。詳しくは以下参考に記載の「橋の科学館ホームページ」を見られると良い。
それにしても、本州側から四国へ3本もの橋をつけるなんて、その地域、地域の政治家の人気取りだろうが、税金の使い方のいい加減さには驚かされるよね~。
(画像は、舞子公園から見た明石海峡大橋」の夜景。以下参考に記載の明石海峡大橋(パールブリッジ) 吊り橋の壁紙写真より借用。)
明石海峡大橋 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E7%9F%B3%E6%B5%B7%E5%B3%A1%E5%A4%A7%E6%A9%8B
JB本四高速 -本州四国連絡高速道路株式会社-
http://www.jb-honshi.co.jp/
徳島新聞Web「特集・連載」 明石海峡大橋 関連記事あり
http://www.topics.or.jp/index.html?m1=5
6月8日「大鳴門橋開通記念日」
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/2d16fc097d2de88e2d59b27808cd49e0
銅像 原口忠次郎
http://www4.airnet.ne.jp/soutai/07_douzou/26_ha/haraguti_tyuujirou.html
土木学会/橋の話
http://www.jsce.or.jp/contents/hakase/bridge/05/index.html
神戸港[その2](社団法人 日本土木工業協会【土工協】HP)
http://www.dokokyo.or.jp/ce/ce0606/aruku_01.html
高知新聞・連載・結ぶ
http://www.kochinews.co.jp/rensai99/musubu11.htm
舞子公園
http://www.hyogo-park.or.jp/maiko/contents/sisetsu/area_prom.html
連載<50年目の決算/震災で問われたもの>神戸新聞HP
http://www.kobe-np.co.jp/sinsai/95kessan/950810kessan1.html
明石海峡大橋(パールブリッジ) 吊り橋の壁紙写真 
http://kobe-mari.maxs.jp/akashikaikyo_bridge/index.htm
明石淡路フェリー
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E7%9F%B3%E6%B7%A1%E8%B7%AF%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%AA%E3%83%BC
橋の科学館ホームページ
http://www.jbec.or.jp/kagakukan/1kagakutop.htm

シーサーの日

2008-04-03 | 記念日
今日(4月3日)は、「シーサーの日」。「シー(4)サー(3)」の語呂合せからとか。
沖縄県などでみられるシーサーは中国からわたってきた魔よけの獅子(ライオン)像であり、もともとはグスク(城)や寺社の門前、王陵、集落の入り口などに設置されそこに住む人、村に災いをもたらす悪霊を追い払う魔除け、災難避けの意味を持つ「村落獅子」と呼ばれる石造の獅子であったものが、19世紀後半ごろから、民家にも赤瓦(以下参考に記載の「りゅうきゅうねしあ 」の沖縄の赤瓦参照)の使用が許されると、民家の屋根にも据え付けられるようになったようだ。 どうして、屋根の上に据えられるようになったのかはよく判らないようだが、首里城の正殿隅棟(すみむね)中央あたりの前面と背面に1対ずつ「獅子面」の鬼瓦があり、これが「屋根獅子」の始まりと言われているそうだ。
獅子像の源流は古代オリエントのライオンで、シーサーの名前は「獅子(しし)」を琉球語沖縄方言で発音したものだそうである。八重山諸島ではシーシーともいうそうだ。
ライオンの強大な力は人々の憧れや畏怖の的であり、いつしかその威風堂々とした容貌から最強のものを象徴する「百獣の王」と称され、その本種は古来より紋章や文様に用いられている。古代エジプトでは人の顔、ライオンの体、鷲の翼を持つスフィンクスとして神格化されていたが、古代オリエントからシルクロードを通ってくるうちに、街道沿いの国々の様々な文化や生活様式などに影響されながら、現実のライオンからは離れた“獅子”へと変容して中国経由で伝わってきたものと考えられる。
それが、日本本土では中国大陸から直接わたってきたのが唐獅子、朝鮮半島を経てきたのが狛犬、中国から沖縄に伝わったものがシーサーとよばれる獅子像となったといわれており、沖縄のシーサーは、日本本土に伝わった「唐獅子」や「狛犬」とそのルーツは同じではないかとされているのだが、・・・。そして、シーサーは、元々は単体で設置されていたものだが、仏教思想の影響からか、阿吽像一対で置かれることが多くなったという。
「阿(あ)吽(うん)」・・懐かしい言葉である。
「コマイヌサン  ア  コマイヌサン ウン」
私達の年代・・つまり、戦前生まれの昭和10年代の者が、・・・小学校に入学して、1年生ではじめて習った国語の教科書「ヨミカタ」の中に出てくる言葉である。
「コマイヌサン」は「狛犬」のことであり、当時私は地元の神戸への空襲がひどくなり、徳島の方へ疎開し、そこで小学校に入学したが、その当時よく遊びまわった近くの神社には一対の「狛犬」さんが設置されており、その上によじ登ったりして神主さんに怒られたことがある。しかし、当時、これは、昔、日本にやってきた「朝鮮(高麗・コマ)の犬」を神社の守護する像として作られたものだときかされて、どう見ても犬には見えないが子供心に「ふうん・・・朝鮮にはそんな恐い顔をした犬がいるのか」・・と納得しないまま、何時しか、狛犬のことなど忘れてしまっていた。
一対の「狛犬」の1つは、口を開いており、他のものは口をつぐんでいる。これが、「ア(阿)」と「ウン(吽)」であるが、この阿吽(アウン、Skt:A - hum)は仏教の呪文真言)の1つ。悉曇文字(梵字)に於いて、阿は口を開いて最初に出す音、吽は口を閉じて出す最後の音であり、そこから、それぞれを宇宙の始まりと終わりを表す言葉とされたという。この「阿吽」形式は、恐らく寺の山門を守る仁王像(金剛力士像)の阿吽などを取り入れたものと思われる。
仁王も狛犬も、神(君主)を守護するという役割は同じだということからだろう。
私の家にもある(上記写真向かって右:唐獅子)が日本の床の間などに良く飾られている「唐獅子」が中国(唐、とう/から)からきた獅子をかたどったものであることは、理解できるが、狛犬はどうなのだろう?。
狛犬のことを研究している人は多く、諸説が発表されているようだ。曰く、・狛犬と獅子は別物である。・狛犬と獅子は同じ物である。・狛犬は犬である・・・とする説など。
先ず、狛犬は犬派の代表とも言える、以下参考に記載の「日本ペット学会ホームページ」の”狛犬と狆の渡来”では、”狆の祖先犬である短吻種犬(鼻のつまった犬)が天平四年(732年)、聖武天皇の時代に現在のチベット方面から大陸を渡って、日本に渡来した。”このの祖先犬が、狛犬の始まりとしている。
続日本紀』では天平4年(732年)聖武天皇 の御代に、狗(いぬ)が送られたことが書かれており、『日本書紀』(720年)にも天武天皇(672年)の章に、新羅から駱駝、馬、狗など動物が献上されたとあり、『日本紀略』や。『類聚国史』ににも、「天長元年(824年)四月」に狗二頭が献上さている記録があるといい、天武ないし天平期からこのころまでの前後100年余の間に、「蜀狗」と呼ばれた短吻種犬が何度か渡来し、これらの犬が狆の祖先となったと考えられている。 なお、「高麗犬(こまいぬ)」という言葉は、本来は朝鮮を経由して移入されたこのような短吻種犬の呼称であったのかも知れず、当時、顔の長い日本犬しか知らなかった天皇には、毛がふさふさした短吻種犬は珍かっただろうし、それを可愛いと思って大事にしたことは想像できる。その可愛い犬がなくなり、後に天皇は清涼殿の御帳の間(中央南の御昼の間は清涼殿時代に昼の御座で別称御帳の間以下参考に記載の「内裏図面」清涼殿昼御座参照)の帳帷(いちよう)の鎮子(ちんし)(調度品の一。軸物の風鎮のように、敷物・帷帳などが風にあおられるのを防ぐために使うおもし。ちんす。)として狛犬を置き、天皇、皇后の魔除け、お守りとしたというのも、それはそれなりにうなづけるところである。
『枕草子』(八四段)"めでたきもの"には、「后の晝の行啓。御うぶや。みやはじめの作法。獅子、狛犬、大床子などもてまゐりて、御帳の前にしつらひすゑ、内膳、御竃わたしたてまつりなどしたる。」とある。以下参考に記載の「源氏物語: 御帳台」にはその獅子と狛犬が置かれている画像があるので参照されたい。そこに置れている向かって左の獣像には頭に角があり、向かって右の獣象には角が無い。・・・それでは、どちらが獅子でどちらが狛犬???。その回答は、平安時代後期頃に編纂されたもので、宮中や摂関家で行われた儀式の時の宴席の様子や家具調度とその鋪設、装束などについて記録した4巻からなる有職故実(ゆうそく・こじつ)書『類聚雑要抄』(るいじゅうざつようしょう)にあった。その本文には「左師子於色黄、開口 、右胡摩犬於白色不開口、在角」「天皇、皇后の御帳臺(御簾)の前にしつらひ、・・・」と記されているといい(以下参考に記載の「[PDF] 備中狛犬探検隊」参照)。「獅子形を立てる時は、帳前の南方の帷の端に、向かい合わせに立てる」。ということは、天皇のいる北の方から見て南だから、向かって、右が「口をあけている獅子」、左が「角のある狛犬」と言うことになる・・・が???。
兎に角、この当時では、獅子と狛犬は別の動物と考えていたのである。それが次代の推移と共に、狛犬も獅子化して左右同じようになってきたようであるが、にもかかわらず、呼び方は一対を「狛犬」というようになっている。そうなると、「狛犬も唐獅子も同じではないか?」という疑問も感じられるわけであるが、
もともと「狛犬」は獅子ではない別の動物として生まれたものが、時代を経るに従って形の上では獅子の方が主流となり、呼び方は「狛犬」が定着したのだという説もある。(以下参考に記載の「狛犬ネット 」の●第三章● 狛犬の研究ο狛犬とは何か?参照)
王座を守る獅子像のルーツは、先にも述べたように、古代オリエントの時代にすでに見られ、獅子の姿を椅子や城門につけることにより守護される思想が生じ、エジプトのツタンカーメンの椅子やスフィンクスなどにその例を見ることができる。 これがインドに伝わり、釈迦が説法する場所を「獅子座」(仏の座る場所)と呼んで重視仏の座となる(以下参考に記載の「栗田貿易/木彫仏像/文殊菩薩座像飛天光背獅子座」参照)。また、中国に入り皇帝を守る霊獣となり我が国の宮中儀式の調度となった。さらに伎楽に入り今日の獅子舞の祖となった。
狛犬は高麗犬とも書くので朝鮮半島から伝来したとの説があるが、狛犬の「狛(こま)」は、中国の中華思想(中国が世界の中心だとする思想)では「周辺の野蛮な地」を指し、従って、「中国の外(野蛮な異国の地)に棲む正体不明の怪しい犬」という意味で、想像上の霊獣であった。ケモノ扁がついているのもそんな意味がある。中国では、龍や麒麟など、様々な霊獣を生み出し、獅子も羽をつけたり角を生やしたりしてどんどん空想上の生き物に変質した。
現在の中国獅子と日本の狛犬は似てしまっているが狛犬は獅子とは異なる霊獣と考え、中国の思想上の動物である一角獣の字(獬豸=かいち)などを当て、日本独自で生み出されたものだろうともいわれている。
私などには、どれが本当のことかなど判定できないが、今同じ獅子のような1対の狛犬が本当は、頭に角の映えた日本f独自の創造の獣「狛犬」とライオンを租とする「獅子」とが一対であったことだけは確かなことだろう。ただ「狛犬」が元は何であったか・・・まだ、よく判らないな~。
最後に、以下参考に記載の「シーサーの起源とその諸説」に面白いことが書いてある。”世界最古の神話文書メソポタミア神話の中に、ギルガメッシュとエンキドゥの「フンババ」退治のエピソードが在るが、ギルガメッシュは半神半人の英雄とされ、エンキドゥは粘土より生まれた獰猛な神とあり、おそらくこのエンキドゥは「道具」「武器」を象徴しており、武器を携えた英雄ギルガメッシュは神(シャマシュ)の智を得てフンババに勝利する。勝利したギルガメッシュはレバノン杉の大木を伐採し、筏を組んでユーフラテス川に流し富を得る。この森の番人(自然の番人)フンババこそがシーサーの起源である古代インドライオンの象徴でありこのエピソードは、人間が文明文化を築くために森を伐採し自然を征服し野生動物の住処を奪い追い行く様を神話として書き記したものではないかというのである。・・・シーサーの話を遡ってゆくと、『旧約聖書』のノアの箱舟の世界にまで辿り着くのだから面白いね~。 興味のある人は以下参考に記載の頭に※印をつけた「ギルガメッシュの叙事詩」関連を読むとよくわかるよ。
(画像はコレクションの向かって左:沖縄土産の泡盛のシーサーの酒器、右:唐獅子)
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シーサーの日:参考

2008-04-03 | 記念日
参考:
シーサー - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%82%B5%E3%83%BC
MITSUOシーサー美術館
http://homepage2.nifty.com/mitsuo-m/
沖縄シーサー紀行
http://www.wonder-okinawa.jp/011/index.html
月刊 京都史跡散策会
http://www.pauch.com/kss/
斎宮歴史博物館
http://www.pref.mie.jp/SAIKU/HP/index.htm
源氏物語: 御帳台
http://heian.cocolog-nifty.com/genji/2008/03/post_aacd.html
枕草子 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%95%E8%8D%89%E5%AD%90
日本ペット学会ホームページ
http://www5a.biglobe.ne.jp/~nobon/
狆 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8B%86
J-TEXTS 日本文学電子図書館(◎日本書紀◎続日本紀◎日本後紀他)
http://www.j-texts.com/
日本古典文学テキスト
http://www2s.biglobe.ne.jp/~Taiju/classic.htm#hist1
京都御所 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC%E9%83%BD%E5%BE%A1%E6%89%80
内裏図面
http://tukineko.pekori.jp/heian/dairizu/dairi.html#dairizu
斎宮歴史博物館/斎宮百話 /第75話[獅子と狛犬]
http://www.pref.mie.jp/SAIKU/HP/hyakuwa/0075/hyakuwa-75-20060315.htm
源氏物語: 御帳台
http://heian.cocolog-nifty.com/genji/2008/03/post_aacd.html
原文『枕草子』全巻
http://www.geocities.jp/rikwhi/nyumon/az/makuranosousi_zen.html
こまけん
http://enjoo.com/komaken/index.html
狛犬ネット (狛犬・こま犬・こまいぬNET!)
http://komainu.net/
[PDF] 備中狛犬探検隊
http://www.geocities.jp/komainu1195/003-komainu-siryou/20090125-takahasigawa-gennkou.pdf
シーサーの起源とその諸説
http://taiken-jp.net/ryukyu/shop/2007/02/post_8.html
気づくとそこにはシーサー
http://green-sanctuary.tea-nifty.com/begreen/cat5632513/index.html
りゅうきゅうねしあ
http://www.urban.ne.jp/home/ngsek/index_001.htm
中華思想 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E8%8F%AF%E6%80%9D%E6%83%B3
神社様式
http://www.mitene.or.jp/~hayamine/file/jinjakentiku.html
栗田貿易/木彫仏像/文殊菩薩座像飛天光背獅子座
http://store.shopping.yahoo.co.jp/kurita/8674.html
獬豸(カイチ)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%82%A4%E3%83%81
メソポタミア神話 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%82%BD%E3%83%9D%E3%82%BF%E3%83%9F%E3%82%A2%E7%A5%9E%E8%A9%B1
※シーサーの起源とその諸説
http://taiken-jp.net/ryukyu/shop/2007/02/post_8.html
※ギルガメッシュの叙事詩
http://www.geocities.jp/kyoketu/8156.html
※大英博物館とルーブル美術館に、ギルガメシュを探す旅
http://homepage1.nifty.com/endow/all%20gilgamesh/all%20gilgamesh%20htmls/00th_1_mokuji.html
※ギルガメシュ神話と21世紀の農業哲学
http://www.st.rim.or.jp/~success/no_sisaku06.html

五百円札発行記念日

2008-04-02 | 記念日
1951(昭和26)年の今日(4月2日)、岩倉具視の肖像の五百円札が初登場した。
この発行開始日が1951(昭和26)年4月2日の日本銀行券B五百円券(支払停止日:昭和46年1月4日)、および、発行開始日が1969(昭和44)年11月1日のC五百円券(支払停止日:平成6年4月1日)に岩倉具視の肖像が採用された。C五百円券は500円硬貨の登場(1982年(昭和57年)後も、1985年(昭和60年)まで製造されていた。B五百円券、C五百円券は、もう既に支払いが停止されているが使用は、今でも有効である。
 先にB五百円券とかC五百円券とか言っているが、五百円券とか千円券とかの「券名」の最初の文字は発行された時期によって紙幣を分類する記号で、A券、B券等と呼ばれる。概ね、昭和初期までは「甲乙丙丁」、戦時中は「いろ」、戦後はアルファベット「ABCDE」であり、A券は1946(昭和21)年3月以前に発行されていた。
失効したものを除き日本国の法定通貨である日本銀行券とは、日本銀行が発行するもしくは発行していた紙幣である。現在発行中の日本銀行券は、独立行政法人・国立印刷局によって製造され、日本銀行 に納入されている。納入価格は明らかにされていないが、券1枚あたり数十円程度といわれているそうだ。日本銀行は日本銀行法を根拠に、それらを発行し(市中に払い出し)通貨として流通させている。
現在、日本の法定通貨には、この日本銀行が発行する日本銀行券とその補助貨幣である、造幣局が製造し国が発行する硬貨がある。従って、日本銀行の五百円券の代わりに発行された500円硬貨は造幣局が製造した補助貨幣と言うことになり、補助貨幣は銀行券や本位貨幣のような主たる貨幣に対する補助的に使う、おもに小額決済のために発行されたものである。銀行券などと共に法定通貨とされることが通常だが、法定通貨としての強制力においては、一回の決済での総額面や使用枚数に制限があることが多い。日本円では、法定通貨としての強制力を有するのは、一回の決済につき、同一額面の貨幣それぞれについて20枚までと言うことになっている。(以下参考に記載の「通貨の単位及び貨幣の発行等に関する法律」第7条 参照)従って、500円札なら一度に何枚でも使用できるが、500円硬貨なら20枚の1万円までしか原則的には使用できないことになっているのである。
日本銀行の目的は、日本銀行法第1条により、「日本の中央銀行として、・銀行券を発行すること ・物価の安定を図ることを通じて国民経済の健全な発展に資すること ・決済システムの円滑かつ安定的な運行を確保し、金融システムの安定に資すること 」としている。ただ、現在、日本では、”今、衆・参両議院のねじれ現象から、アメリカのサブプライムローン問題の影響により、円高ドル安・株価の下落・石油はじめ麦価ほか諸物価が値上がりし、景気が低迷するなど、日本経済が大変な時期を迎えているのにもかかわらず、中央銀行である・日銀総裁が不在などと言う状況であり、英エコノミスト誌は「JAPAiN」と題する日本特集を掲載、日本政治が馬鹿にされている・・ことは、このブログの3月22日小説家・城山 三郎の忌日でも書いたばかりである。・・・情けない話である。
話は元に戻るが、日本銀行券の肖像などの様式は、日本銀行法第47条②に財務大臣が定め、公示する旨が定められており、例えば、1984(昭和59)年に発行された銀行券(一万円券五千円券千円券)の肖像選定に当たっては、・ 実在の人物で業績があり、知名度が高いこと、・ 史実考証面で明確な写真や肖像画があること、・ 芸術家や文化人の採用が近年における世界的潮流となっていること、・ 国際性があること、・ これら3券種は同時改刷であったため、3券種統一テーマで選ぶこと、などが考慮され、最終的には国立印刷局(旧財務省)のデザイン・彫刻の専門家の意見もあって、福沢諭吉、 新渡戸稲造、夏目漱石という明治以降の文化人トリオに決定したという。なお、12年7月19日から発行された二千円券には、表面に守礼門が、裏面に源氏物語絵巻紫式部が描かれているが、図柄の選定に当たっては、故小渕恵三元総理大臣が大蔵大臣(当時)と相談のうえ、決めたとのことである。小渕元総理は、 官房長官時代に昭和天皇が崩御。元号変更にあたり、記者会見で「新しい元号は”平成”であります」と平成を公表。新元号の発表は、国民的な注目を集めていたこともあり、小渕は「平成おじさん」として一躍超人気者となった。1998(平成10)年7月30日、第18回参議院議員通常選挙での敗北の責任をとって辞任した橋本龍太郎の後継首相となる。しかし、首相在任中の2000年(平成12年)4月2日に突然脳梗塞を発症し、倒れてから約1か月半を経た同年5月14日死去。この脳梗塞で既に意識を完全に失っていたかもしれないといわれる小渕から内閣官房長官の青木幹雄首相臨時代理に就任したとして後任の森喜朗総裁を誕生させたことには、深い「疑惑」があり、不透明さと併せて、「五人組による密室談合政治」と大々的に批判される原因となっている。
又、話は、5五百円札の肖像となった岩倉具視のことに戻るが、岩倉は、前権中納言堀河康親の次男として京都に生まれ、岩倉具慶の養子となる(以下参考に記載の「江戸大名公卿net・岩倉家 」参照)。関白・鷹司政通の門流となり、朝廷改革の意見書を提出した。1854(安政元)年に孝明天皇の侍従となる。1858(安政5)年に老中・堀田正睦日米修好通商条約の勅許を得るため上京した時に、反対派の中山忠能等公家と阻止をはかる。(「廷臣八十八卿列参事件」)。1860(安政7)年に桜田門外の変井伊直弼が暗殺された後、1862(文久2)年公武合体派として和宮降嫁(皇室から降嫁、徳川家茂と婚儀)を推進。「四奸」(よんかん=内大臣久我建通、左近衛権中将岩倉具視、左近衛権少将千種有文、中務大輔富小路敬直〔ひろなお〕)の1人として尊皇攘夷派から非難され、1867(慶応3)年まで幽居される。幽居中も意見書を書いて朝廷や薩摩藩の同志に送るなどの活動を続け、この間に薩摩藩の動向に呼応する形で倒幕派へと路線を変更。1866(慶応2)年の徳川家茂の死を機会に朝廷の名において列藩召集を行なおうとするが失敗、1868(慶応4)年1月3日(慶応3年12月9日)には大久保利通らと王政復古の大号令と徳川慶喜の領地と官位を取上げ、無禄の平民にする辞官納地(官職を辞職させ、領地を返納させる)発令を実現し、天皇親政(天皇を中心とした中央集権制)実現へのスタートを切ったが、明治政府誕生後間もなくして形骸化した。新政府においては、参与、議定、大納言、右大臣等をつとめる。1871(明治4)年特命全権大使として長州藩・木戸孝允らを率いて岩倉使節団を組織し、欧米を視察。憲法制定の方針を確定し、また皇族、華族の保護に力を注いだ。
ただ、孝明天皇の死の際には毒殺説が流れ、首謀者として疑われた。一説には、自分が成り上がろうとして孝明天皇を暗殺し、幼く操縦しやすいと思われる明治天皇を早く即位させ利用したという説もあるが、当然これを否定する説もあり其の真実は不明。
彼は幕府の衰亡を予感すると、公武合体策をあっさりと捨て、薩摩と接近するようになる。最初は条約勅許に公然と反対し、次には和宮の徳川家降嫁を推進して幕府との宥和を図り、幕府がだめとみると、討幕派に加担するなど、その変わり身の早さには驚かされるが、彼の目的である朝廷の復権を実現するための現実的な選択と言うことかもしれないが、犯人としては、岩倉具視が、最も有力視されている。実行犯としては、孝明天皇の妾で、岩倉具視の姉(異母姉)堀河紀子(岩倉らとともに「四奸二嬪」と呼ばれた「二嬪」のうちの1人)と言われている。岩倉具視の孫で、16歳になっていた具定(ともさだ)も、孝明天皇の近侍だったので、下手人の可能性はある。明治天皇の母は権大納言中山忠能の娘・慶子(よしこ)であるが、中山忠能は岩倉具視らと廷臣八十八卿列参事件を起こした中心人物でもある。
政治の政界は恐いね~。昔から、「政治」的に解決するなどいった使い方がされるが、このような場合の「政治」は碌な事を言わないからね~。いずれにしても、岩倉は明治維新の一大革命劇には必須の人物であり、公家のなかでは特異な存在であったことは確かだ。「五百円札発行記念日」に、その肖像画となっている岩倉具視のことをもっと詳しく勉強してみるのも面白いのでは・・・。
(画像は、五百円券。肖像:岩倉具視。発行開始日:昭和26.4.2。日本銀行HPより)
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五百円札発行記念日:参考

2008-04-02 | 記念日
参考:
日本銀行券- Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E9%8A%80%E8%A1%8C%E5%88%B8
岩倉具視- Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E5%80%89%E5%85%B7%E8%A6%96
日本銀行ホームページ
http://www.boj.or.jp/type/list/yuko/data/5hyaku.htm
通貨の単位及び貨幣の発行等に関する法律(昭和62年6月1日法律第42号)
http://www.lawdata.org/law/htmldata/S62/S62HO042.html
討幕密勅中止御沙汰
http://www2.odn.ne.jp/kasumi-so/bakumatu/jiken/michochusi.htm
小渕恵三 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%B8%95%E6%81%B5%E4%B8%89
小渕無能論のウソ
http://homepage3.nifty.com/nskk/kenkyu004.htm
二千円日本銀行券の発行について
http://www.mof.go.jp/jouhou/sonota/so009.htm
2000円札パラダイス
http://starsh2000.fc2web.com/
江戸大名公卿net・岩倉家
http://www1.parkcity.ne.jp/sito/k107.html
江戸と座敷鷹/ 天皇公卿の制度と事件■尊号事件
http://www.0105.jp/~mizuki/tennoukughounoseido6.html
江戸と座敷鷹 /天皇公卿の制度と事件■戊午(ぼご)の密勅事件
http://www.0105.jp/~mizuki/tennoukughounoseido6.html
京都大学附属図書館 維新資料画像データベース/二九 三〇 岩倉公隱棲の趾
http://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/ishin/kanren/doc/kaisetsu/KIS29.html
京都大学附属図書館 維新資料画像データベース/資料 #0108200の参考引用文献
http://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/ishin/kanren/doc/kaisetsu/0108200-1.html
何でも質問箱FAQ
http://www2.dokidoki.ne.jp/quwatoro/faq2/faq2.cgi?action=answer&no=38
なるほど幕末・文久2年← テーマ別「今日」文久3年 →元治元年
http://bakumatu.727.net/kyou/theme-b3.htm
后妃伝 ・孝明天皇后妃
http://homepage2.nifty.com/hpsuiren/koukyu/edo/koumei.htm