今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

食料メーデー」のあった日

2006-05-19 | 歴史
1946(昭和21)年 の今日(5月19日)は、皇居前広場 で25万人による「食料メーデー」があった日である。(「朕はタラフク食ってるぞ」のプラカードで不敬罪起訴)
現在の豊かな飽食の時代に、戦後の飢餓時代の食糧事情を知っている人の数も少なくなってきているだろう。
1945(昭和20)年の暮れ、渋沢敬三蔵相が、「21年には1千万人の国民が餓死するかもしれない」と語った。【朝日クロニクル・週刊20世紀(1946年)参照】。
政治家としては、随分無責任な発言のようだが、その頃大阪では、1ヶ月に60~70人の餓死者があり、東京の場合は、上野駅周辺だけでそのくらいの死者が出ていたから、蔵相の発言もそれほど意外な感じでは受け取られなかった。餓死者の中には、栄養失調の上、着ているものと言えば夏の半袖シャツという状態が重なって、寒さに耐え切れずに死んだ人も含まれていたが、彼らも食べ物にさえありついていたら、死なずにすんでいたかもしれないという意味では餓死者である。1945(昭和20)年、戦争が終わった日本の経済は、混乱そのものだった。戦争で何もなくし、生産活動をしようにもその材料もない。一方、戦争のために国債が多く発行され、貨幣流通量が経済取引が必要とする以上の量になったために、インフレが起こり、国民生活は苦しくなった。外地からは引揚者が続々日本列島に戻ってくる。日本経済はありとあらゆる面で、物不足が激しかった。しかし、食料生産が間に合わない。そのため統制経済が導入されたため、コメは当然配給制であったが魚の配給もあったし、マッチさえ配給であった。このような状況下で、当時の人々にとって生きるための何よりの頼りは闇市だった。闇市には何でもあり、金さえあれば手に入れることはできた。ただし、シチューはアメリカ軍の残飯を集めたもので、常にすえた臭いを発し、中からタバコの空き箱や切った爪が出てくるということもザラ。これが1杯10円である。それなのに、政府は生産活動を行うための資金を集めるため、庶民の預金金利はインフレ率よりも低く抑えられ、更に、1946(昭和21)年2月に新円切り替えを行った。これは金融緊急措置令および日本銀行券預入令を公布し、5円以上の日本銀行券を預金、あるいは貯金、金銭信託として強制的に金融機関に預入させ、「既存の預金とともに封鎖のうえ、生活費や事業費などに限って新銀行券による払出しを認める」という非常措置を実施した。それは、「今の紙幣は使えなくなります。銀行へ預金しなさい。引き出すときには新しい紙幣を渡します。ただし、生活費の引き出しは世帯主月額300円、のちに100円、世帯員ひとり月額100円以内が限度で、それ以上は引き出すことはできません」つまり「1月を1人100円で生活しなさい」ということだった。インフレの中で、金利を抑えられ、お金がある人でもその使用額を規制され、人々は、タンスの中の衣類などを食べ物に物々交換をするといった「たけのこ生活」を余儀なくされたのである。それでも、そのような 「たけのこ生活」を出来る人は幸せな人なのであった。親のいない子供達などは、ガード下で靴磨きをしたり、通りがかりの進駐軍にたかったり、かっぱらいで飢えを防ぐしかなかった子も多かった。又、戦争で働き手の男を亡くした女性には、もっぱら進駐軍などを相手にした「パンパン」と称されるものが多く出現。私が子どもの頃、当時は家が豊かであったお蔭で、母の着物などを食料に代えられ、次々と減りタンスが空(から)になっていくのを目にしたし、近所には、「パンパン」をしている女性がいることも知っていた。その後、貧乏な生活もしたが、一般の世間の人に比べて、幸せな生活が出来たことを今でも感謝している。
そのような、戦後の物不足の1945(昭和20)年10月、大阪で「米よこせ風呂敷デモ」が行われた。これは、遅配・欠配の続く主食の配給に業を煮やした比嘉正子などが中心になって大阪・鴻の池の主婦たち15人が風呂敷を持って布施(現東大阪市)の米穀配給公団支所に対して抗議した事件である。1935(昭和10)年を最後に中断されていたメーデーが1946(昭和21)年5月1日、11年ぶりに復活、東京では皇居前広場に50万人が集まった。大会では民主人民政府の樹立、戦犯追放、食料の人民管理など23項目を決議した。そして、この時、メーデーの実行委員会は飯米獲得に要求を絞った労働者集会を計画、これがきっかけとなって、同年5月19日、食料メーデー(正式には「飯米獲得人民大会」が行われた。人民広場(皇居前広場)に25万人が集まった。この集会には教師に引率された小学生も多く参加し、給食復活などを訴えた。そして、食糧難打開を訴えたでデモ行進中の一人である日本共産党員・松島松太郎が掲げたプラカードの一つの表には、「詔書(ヒロヒト曰ク)国体はゴジされたぞ 朕はタラフク食ってるぞ ナンジ人民飢えて死ね ギョメイギョジ」と、その裏には「働いても働いても何故私達は飢えねばならぬか天皇ヒロヒトよ答えてくれ 日本共産党田中精機細胞」と書かれていた。このプラカードに対して当時まだ有効であった刑法の不敬罪が適用され起訴された。しかし、不敬罪は新憲法で廃止されることになっていたので激しい論争を呼んだ。この事件は「プラカード事件」 また、「食糧メーデー不敬事件」とも言われる。このプラカードで批判された天皇は、5月24日、終戦時以来再びNHKのラジオのマイクの前に立ち「相扶(たすけ)食糧難克服を」「家族国家のうるわしい伝統に生き、難局克服を期待する」などと国民に訴えかける言葉を述べられた。(敗戦時以来2度目の玉音放送)。その後、松島は不敬罪で起訴されたものの、一審は不敬罪を認めず天皇個人に対する名誉毀損のみが認められ、控訴審・上告審は日本国との平和条約(サンフランシスコ条約)発効による大赦で免訴となった。
豊かさに馴れ、ほんの少しのことにも不満を感じ、お金のためには魂まで売る人が多くなった現代である。戦後はものも食べられずに餓死した人が多くいたこと。又、そのような厳しい状況の中を必至に耐え、頑張ってきた人たちがいたからこそ、今の豊かな日本があることを思い出してほしい。そして、そんな厳しい中を必至に頑張ってきた人たち。今は年老いた人たちが、若い人たちからも見放され、一人で孤独に生き、誰にも看取られずに寂しく亡くなっている人がどれだけいることか・・・。それなのに、先日、国会では、老人の健康保険料の引き上安げも決議された。
日本人はどうしてもう少し、老人に対する思いやりの心を持つことが出来ないのだろうか・・・。
以下参考の「黒澤・小津が描いた戦後のこころ」を読まれると両監督が戦後、どのような気持ちで、『長屋紳士録』(小津安二郎監督)や『酔いどれ天使』(黒澤明(1910-1998))を作ったかがよくわかる。当時のことを思い浮かべながら改めて、DVDなどを見るのも良いのではないか。又、ここに、昭和21年の 【米よこせデモ】 の歴史記録映像 がある。映像では、街中のデモ、首相官邸前のデモ、国会前のデモのようすが見れる。今の豊かな時代は、この時代餓死寸前を気力で生き抜き、頑張ってきた人達のおかげであることを思い起こしてもらいたいものだ。
歴史記録映像 :動画【米よこせデモ】 ⇒p-289.mpg 出典は、以下参考のIPA「教育用画像素材集サイト」です。
(画像は、食料メーデー(5月坂下門前)。朝日クロニクル・週刊20世紀より)
参考:
プラカード事件 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%A9%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%89%E4%BA%8B%E4%BB%B6
☆プラカード事件☆
http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/purakadojienn.htm
メーデー
http://www.rengo-news.co.jp/110ban/keyword59.htm
比嘉正子
http://www.kanseiren.com/sho-kai/html/higa-gaiyou.html
趣味の経済学 アマチュアエコノミストのすすめ
http://www.h6.dion.ne.jp/~tanaka42/top.html
黒澤・小津が描いた戦後のこころ
http://www.kyoto-seika.ac.jp/nakao/archives/et_cetra/hearts.html
消費者問題とは?
http://www.wcac.jp/f/f_01.html
IPA「教育用画像素材集サイト」
http://www2.edu.ipa.go.jp/gz/

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2 コメント

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混乱 (Linda)
2006-05-19 10:03:05
よーさん、お早うさんです。

終戦直後、近くに飛行場がありましたので其処に進駐してきたアメリカ兵がパンパンといちゃつきながら歩いていました。

子供だったから闇市はしりませんが、食堂では外食券や米の配給には米穀通帳が要ったような記憶があります。配給の飛は母に手を引かれて米屋さんに並びました。寿司屋さんには1合の寿司には1合の米を持って行った記憶もあります。よく大人たちが「寿司屋は米を1合持って行っても寿司は1合もない」とぼやいていました。
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皆必至に生きてきた・・・ (よーさん)
2006-05-20 09:42:39
Lindaさん、戦後破、皆さん、大変な苦労をして、生き抜いてきたって感じですよね。

それに比べ、現代の人は、何とはなしに生きているといった感じ・・・。

経済的にも貧しいより豊かな方が良いに決まっている。豊かになりたくって、みんな一生懸命頑張ってきた。しかし、経済的な豊かさの代償に、心が病んでしまった。今の人の豊かさを売るために魂を売ってしまったといえるだろう。
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