神戸大空襲とは、第二次世界大戦末期にアメリカ軍によって行われた、神戸市およびその周辺地域に対する戦略爆撃・無差別攻撃の通称である。
特に兵庫区や林田区など西神戸に大きな被害を出した。1945(昭和20)年3月17日と、東神戸および阪神間の町村を壊滅させた6月5日の爆撃を指して用いられることが多い。
アメリカ軍による初めての日本本土への空襲が行なわれたのは1941 (昭和16) 年12月8日の日本軍による真珠湾攻撃(太平洋戦争開戦)から、4ヶ月後の1942(昭和17)年4月18日のことであり、空母ホーネットを発進した爆撃機はノースアメリカンB25の編隊であり、この爆撃は指揮官ジミー・ドゥーリトルの名前をとってドゥーリトル空襲と呼ばれた。
東京・大阪・横浜・名古屋・神戸などを爆撃し、中国基地に着陸するという思いきった作戦に出てきた。このとき神戸では兵庫区中央市場付近が被害を受けた。
このときの空爆による爆撃の直接被害はごく軽微だったが、心理的効果は大きく、大本営に危機感を抱かせ、ミッドウェー海戦に繋がってゆく。
ミッドウェー海戦で主導権を取り戻した米軍の反攻は勢いを増し、1943(昭和18)年、最前線ガダルカナル島は飢餓の島と化した(ガダルカナル島の戦い)。アッツ島守備隊2500人は玉砕して果てた(アッツ島の戦い)。物量戦対物量の消耗戦のなか大本営の発表の虚勢(「退却」ではなく「転進」と言い張る)は、まさに、敗戦への序章であった。
20倍に及ぶ国力の差は覆うべくもなく、ついに連合国軍のもう反攻は1944(昭和19)年10月、フィリピンのレイテ島に及んだ(レイテ沖海戦)。
制空権・制海権ともに失った日本軍は、ついに米軍が“自殺攻撃”と呼んだ神風特攻隊(特別攻撃隊)による史上類のない「十死零生」の戦術(体当り攻撃)の強行が行なわれた(特攻隊をめぐる日米の対応については、以下参考の※5:平間洋一ホームページのここ参照)。
日本の生命線であるとして想定していた「絶対国防圏」を突破された日本軍は、フィリピン、硫黄島、沖縄とアメリカ軍の圧倒的な制空権を背景に重要拠点のみを蛙飛びのように制圧していく“蛙飛び作戦”(アイランドホッピング)にことごとく敗退。実際に戦場となった沖縄での戦い(沖縄戦)は戦闘力の補助に沖縄県民をも巻き込んだことから日本軍の死者を上回る県民の死者を出すという酸鼻(さんび)を極めるものだった。
しかし、日本本土の国民もまたマリアナ諸島陥落後は、米軍の新型長距離戦略爆撃機B29の爆撃圏に入ったため、先に述べた1944(昭和19)年11月の空襲をはじめにそれ以降爆撃に曝され、空爆は日増しにその激しさは増し、翌1945(昭和20)年からは、主要都市の市街地は焼夷弾による無差別絨毯爆撃で人も家も焼き尽くされた。
戦時中の空襲に関する日本側の公式記録は余り残されていないが、米軍のマリアナ基地のB29部隊である、第21爆撃機軍団(第20航空軍)は、作戦遂行中に、包括的で正確な記録を作成すること、さらにこの記録すなわち推進中の作戦に役立つ情報を広く知らせることを目的に、戦史将校(Historical Officer)をおき、正確な記録を作成しており、主な報告書としては、「作戦日報(Operational Summary)」、「作戦要約(Mission Resume)、1945年7月16日から作戦概要(Mission Summary)」、作戦任務報告(Tactical Mission Report)などがある。
神戸大空襲に関する日本の“記録”としては、以下参考の※1:神戸市文書館 「米軍資料にみる神戸大空襲」がネットで公開されている。
その中で、“神戸大空襲とは 日本側の資料(「神戸市史第三集」に掲載) によると、神戸市上空にアメリカ軍機があらわれたのは84回である。そのうち、神戸大空襲とは、マリアナ基地のB29部隊が、神戸(市街地あるいは軍事目標)を第1目標として攻撃した、以下の空襲をいう”として主要な5回の空襲を例示。”なお、その他神戸沖への機雷封鎖や模擬原爆の投下もおこなわれた。”と補足している。
・ 1945年(昭和20)・2月4日(日) (目標:神戸市街地)、
・ 3月17日(土) (目標:神戸市街地)、
・ 5月11日(金) (目標:川西航空機深江製作所)、
・ 6月5日(火) (目標:神戸市街地)、
・8月6日(月) (目標:御影町・魚崎町・住吉村・本山村・本庄村【現神戸市東灘区】から、芦屋市を経て西宮市・鳴尾村【現西宮市】にいたる地域)
米軍のこれらの空爆による作戦概要・作戦要約・作戦の位置づけ ・投下された爆弾の量や損害評価など事細かに記録されており、その内容は、それぞれのところを見られると良く判り、凄まじかった空襲の被害の状況も凡そは推測できるのではないかと思うので、詳しいことは以下参考の※1:神戸市文書館 「米軍資料にみる神戸大空襲」を見てください。
空襲で、神戸を目標としたことの重要性については、2月4日のところに、“神戸は、日本で六番目の大都市、人口約100万人、日本の主要港である。造船所群は、船舶建造と船舶用エンジン製造能力の面で日本最大の集中地域。神戸で、本州の西端からの山陽本線と大阪・東京への東海道本線とが連結している。鉄鋼、鉄道車両、機械、ゴム、兵器などの基幹産業施設は、神戸の輸送活動と密接に関連して立地している。神戸を通過する国道は、市中の密集区域を通過している。攻撃目標として選定された地域は、1平方マイルあたりの人口密度が平均10万人以上、高度に密集した市の中心部である。”・・・ことをあげている。
空爆の状況は書かれているが空襲の被害の状況等については、記載されていないが、「神戸市史第三集」の脚注には戦争関係の記録や資料が戦災で焼失しており、残存資量はここに揚げたデーターと一致しないこともあり、正確なことがわからない・・としている。
過去には1994(平成6)年に神戸市が発行した「新修神戸市史歴史編4近代・現代」(以下参考の※2参照)が“公式記録”として一般に引用されてきたようだ。恐らく、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』の「神戸大空襲」も、それを参考に書かれたものと思うが、以前、私が、このブログで書いた「実写映画版「火垂るの墓」が公開された日」では、野坂昭如の1945(昭和20)年の自らの体験をもとに、神戸市近郊を舞台とし、親を亡くした幼い兄妹が終戦前後の混乱の中を必死で生き抜こうとするが、その思いも叶わず悲劇的な死を迎えていく姿を描いた小説「火垂るの墓」の物語のことにについて書くことが目的であったことから、神戸空襲の内容等はWikipediaに記載のものをそのまま引用した。
「新修神戸市史歴史編4近代・現代」への記載の内容がどんなものかは本を読んでいないので判らないが、概ね、以下参考に記載の3:「神戸 災害と戦災 資料館(神戸市HP)」の“神戸の戦災”に記述されていることと変わらないだろう。そこには、“空襲による現在の神戸市域の被害は、戦災家屋数14万1983戸、総戦災者数は、罹災者53万858人、死者7491 人、負傷者1万7014 人」とある。
しかし、このことに関して、以下参考の※4:「神戸新聞Web News NEWS」では、「空襲の研究そのものは、米国立公文書館(ここ参照)収蔵の「戦術作戦任務報告」などの分析で1080年代後半から飛躍的に進んでいるが、神戸市域での空襲による死者数について、市史は根拠を示さないまま7491人とした。経済安定本部調べ(1949年)の6789人、「建設省戦災復興史」(57年)の8209人といった数字は紹介されず、死者数の検証は皆無に近い。(中簡略)阪神・淡路大震災を上回る死者数にもかかわらず、神戸空襲の死者の名簿はほとんどないのが実情だ。」・・・と手厳しく指摘している。
私も神戸の人間であり、神戸の空襲の凄まじさは子供心に記憶しているが、空襲が激しくなり神戸に住んで居れず父親だけが神戸で家を守り、子供である私達兄弟や母親は神戸を離れ徳島の母方の親戚へ疎開したが、その疎開前に、私たちが住んでいる軍需産業など何もない山手の民家への空襲があり、空襲警報に従って母親に手を引かれながら一目散に防空壕へ逃げ込もうとしているとき、米軍機による機銃掃射を浴びせかけられ、少なからぬ人がバタバタ倒れ、真っ暗な防空壕へ逃げ込んでぶるぶる震えていた記憶が残っている。その後家に帰ると、家の屋根には穴が開き不発の焼夷弾が玄関に突き刺さっていたのも覚えている。疎開したのはその後だ。
終戦後、父親からひと段落したので神戸へ帰って来いとの連絡があり、帰ってくると疎開前に住んでいた家は焼失てしまい、戦後のこと、家を建てる建材もなく、街中に焼け残った家に住んでいた年老いた大工夫婦が田舎に帰ると言っているのを父親が聞きつけて譲ってもらい、何とか家に住めるようになったのだが、駅近くにあったその家の周囲は数軒の家を残して後は焼け野原であった。その荒廃した惨憺たる光景を目にして子供心に涙したことも思い出したが、戦後、神戸では、役所の登記簿なども焼失し、今は神戸一の繁華街となっている三宮などでも戦時中に他都市へ疎開していた人達がやっと、住んでいたところへ帰って来ると焼け野原となった元自分の住んでいた家のあったところには、何処の誰かわからない人達が縄張りをして住んでいても、そこが、自分の土地である事を実証できずにトラブルが多く発生し、結局住み着いていた人に乗っ取られてしまったなどと言う話も聞いたことがあるので、戦災の被害状況などの記録や資料も多く消失してしまったものがあるであろうことは理解できる。阪神大震災の時に見た長田地区・須磨区の震災後の火災で焼け野原となった光景は、ちょうど戦災の後の焦土と化した光景と全く同じであった。神戸は山と海名に挟まれた狭い人口密集地であり、戦時中の建は殆どが木造であっただけに焼夷弾による空爆の人口および面積から換算した被害率としては、五大都市の中でも最悪の状況だったと言われている(神戸市の罹災状況図。神戸市史第三集参照)。
これから後は、余談だが、その余談の方が長くなってしまった。興味のある人は以下を見てください。
神戸大空襲の日【余談Ⅰ】大東亜戦争へ突入の原因 へ
神戸大空襲の日【余談Ⅱ】敗戦、米軍基地問題 へ
神戸大空襲の日:参考 へ
(冒頭の画像は、焼夷弾の猛攻を受ける神戸港のドック地帯。1945年6月5日。アサヒクロニクル「週間20世紀」より)
特に兵庫区や林田区など西神戸に大きな被害を出した。1945(昭和20)年3月17日と、東神戸および阪神間の町村を壊滅させた6月5日の爆撃を指して用いられることが多い。
アメリカ軍による初めての日本本土への空襲が行なわれたのは1941 (昭和16) 年12月8日の日本軍による真珠湾攻撃(太平洋戦争開戦)から、4ヶ月後の1942(昭和17)年4月18日のことであり、空母ホーネットを発進した爆撃機はノースアメリカンB25の編隊であり、この爆撃は指揮官ジミー・ドゥーリトルの名前をとってドゥーリトル空襲と呼ばれた。
東京・大阪・横浜・名古屋・神戸などを爆撃し、中国基地に着陸するという思いきった作戦に出てきた。このとき神戸では兵庫区中央市場付近が被害を受けた。
このときの空爆による爆撃の直接被害はごく軽微だったが、心理的効果は大きく、大本営に危機感を抱かせ、ミッドウェー海戦に繋がってゆく。
ミッドウェー海戦で主導権を取り戻した米軍の反攻は勢いを増し、1943(昭和18)年、最前線ガダルカナル島は飢餓の島と化した(ガダルカナル島の戦い)。アッツ島守備隊2500人は玉砕して果てた(アッツ島の戦い)。物量戦対物量の消耗戦のなか大本営の発表の虚勢(「退却」ではなく「転進」と言い張る)は、まさに、敗戦への序章であった。
20倍に及ぶ国力の差は覆うべくもなく、ついに連合国軍のもう反攻は1944(昭和19)年10月、フィリピンのレイテ島に及んだ(レイテ沖海戦)。
制空権・制海権ともに失った日本軍は、ついに米軍が“自殺攻撃”と呼んだ神風特攻隊(特別攻撃隊)による史上類のない「十死零生」の戦術(体当り攻撃)の強行が行なわれた(特攻隊をめぐる日米の対応については、以下参考の※5:平間洋一ホームページのここ参照)。
日本の生命線であるとして想定していた「絶対国防圏」を突破された日本軍は、フィリピン、硫黄島、沖縄とアメリカ軍の圧倒的な制空権を背景に重要拠点のみを蛙飛びのように制圧していく“蛙飛び作戦”(アイランドホッピング)にことごとく敗退。実際に戦場となった沖縄での戦い(沖縄戦)は戦闘力の補助に沖縄県民をも巻き込んだことから日本軍の死者を上回る県民の死者を出すという酸鼻(さんび)を極めるものだった。
しかし、日本本土の国民もまたマリアナ諸島陥落後は、米軍の新型長距離戦略爆撃機B29の爆撃圏に入ったため、先に述べた1944(昭和19)年11月の空襲をはじめにそれ以降爆撃に曝され、空爆は日増しにその激しさは増し、翌1945(昭和20)年からは、主要都市の市街地は焼夷弾による無差別絨毯爆撃で人も家も焼き尽くされた。
戦時中の空襲に関する日本側の公式記録は余り残されていないが、米軍のマリアナ基地のB29部隊である、第21爆撃機軍団(第20航空軍)は、作戦遂行中に、包括的で正確な記録を作成すること、さらにこの記録すなわち推進中の作戦に役立つ情報を広く知らせることを目的に、戦史将校(Historical Officer)をおき、正確な記録を作成しており、主な報告書としては、「作戦日報(Operational Summary)」、「作戦要約(Mission Resume)、1945年7月16日から作戦概要(Mission Summary)」、作戦任務報告(Tactical Mission Report)などがある。
神戸大空襲に関する日本の“記録”としては、以下参考の※1:神戸市文書館 「米軍資料にみる神戸大空襲」がネットで公開されている。
その中で、“神戸大空襲とは 日本側の資料(「神戸市史第三集」に掲載) によると、神戸市上空にアメリカ軍機があらわれたのは84回である。そのうち、神戸大空襲とは、マリアナ基地のB29部隊が、神戸(市街地あるいは軍事目標)を第1目標として攻撃した、以下の空襲をいう”として主要な5回の空襲を例示。”なお、その他神戸沖への機雷封鎖や模擬原爆の投下もおこなわれた。”と補足している。
・ 1945年(昭和20)・2月4日(日) (目標:神戸市街地)、
・ 3月17日(土) (目標:神戸市街地)、
・ 5月11日(金) (目標:川西航空機深江製作所)、
・ 6月5日(火) (目標:神戸市街地)、
・8月6日(月) (目標:御影町・魚崎町・住吉村・本山村・本庄村【現神戸市東灘区】から、芦屋市を経て西宮市・鳴尾村【現西宮市】にいたる地域)
米軍のこれらの空爆による作戦概要・作戦要約・作戦の位置づけ ・投下された爆弾の量や損害評価など事細かに記録されており、その内容は、それぞれのところを見られると良く判り、凄まじかった空襲の被害の状況も凡そは推測できるのではないかと思うので、詳しいことは以下参考の※1:神戸市文書館 「米軍資料にみる神戸大空襲」を見てください。
空襲で、神戸を目標としたことの重要性については、2月4日のところに、“神戸は、日本で六番目の大都市、人口約100万人、日本の主要港である。造船所群は、船舶建造と船舶用エンジン製造能力の面で日本最大の集中地域。神戸で、本州の西端からの山陽本線と大阪・東京への東海道本線とが連結している。鉄鋼、鉄道車両、機械、ゴム、兵器などの基幹産業施設は、神戸の輸送活動と密接に関連して立地している。神戸を通過する国道は、市中の密集区域を通過している。攻撃目標として選定された地域は、1平方マイルあたりの人口密度が平均10万人以上、高度に密集した市の中心部である。”・・・ことをあげている。
空爆の状況は書かれているが空襲の被害の状況等については、記載されていないが、「神戸市史第三集」の脚注には戦争関係の記録や資料が戦災で焼失しており、残存資量はここに揚げたデーターと一致しないこともあり、正確なことがわからない・・としている。
過去には1994(平成6)年に神戸市が発行した「新修神戸市史歴史編4近代・現代」(以下参考の※2参照)が“公式記録”として一般に引用されてきたようだ。恐らく、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』の「神戸大空襲」も、それを参考に書かれたものと思うが、以前、私が、このブログで書いた「実写映画版「火垂るの墓」が公開された日」では、野坂昭如の1945(昭和20)年の自らの体験をもとに、神戸市近郊を舞台とし、親を亡くした幼い兄妹が終戦前後の混乱の中を必死で生き抜こうとするが、その思いも叶わず悲劇的な死を迎えていく姿を描いた小説「火垂るの墓」の物語のことにについて書くことが目的であったことから、神戸空襲の内容等はWikipediaに記載のものをそのまま引用した。
「新修神戸市史歴史編4近代・現代」への記載の内容がどんなものかは本を読んでいないので判らないが、概ね、以下参考に記載の3:「神戸 災害と戦災 資料館(神戸市HP)」の“神戸の戦災”に記述されていることと変わらないだろう。そこには、“空襲による現在の神戸市域の被害は、戦災家屋数14万1983戸、総戦災者数は、罹災者53万858人、死者7491 人、負傷者1万7014 人」とある。
しかし、このことに関して、以下参考の※4:「神戸新聞Web News NEWS」では、「空襲の研究そのものは、米国立公文書館(ここ参照)収蔵の「戦術作戦任務報告」などの分析で1080年代後半から飛躍的に進んでいるが、神戸市域での空襲による死者数について、市史は根拠を示さないまま7491人とした。経済安定本部調べ(1949年)の6789人、「建設省戦災復興史」(57年)の8209人といった数字は紹介されず、死者数の検証は皆無に近い。(中簡略)阪神・淡路大震災を上回る死者数にもかかわらず、神戸空襲の死者の名簿はほとんどないのが実情だ。」・・・と手厳しく指摘している。
私も神戸の人間であり、神戸の空襲の凄まじさは子供心に記憶しているが、空襲が激しくなり神戸に住んで居れず父親だけが神戸で家を守り、子供である私達兄弟や母親は神戸を離れ徳島の母方の親戚へ疎開したが、その疎開前に、私たちが住んでいる軍需産業など何もない山手の民家への空襲があり、空襲警報に従って母親に手を引かれながら一目散に防空壕へ逃げ込もうとしているとき、米軍機による機銃掃射を浴びせかけられ、少なからぬ人がバタバタ倒れ、真っ暗な防空壕へ逃げ込んでぶるぶる震えていた記憶が残っている。その後家に帰ると、家の屋根には穴が開き不発の焼夷弾が玄関に突き刺さっていたのも覚えている。疎開したのはその後だ。
終戦後、父親からひと段落したので神戸へ帰って来いとの連絡があり、帰ってくると疎開前に住んでいた家は焼失てしまい、戦後のこと、家を建てる建材もなく、街中に焼け残った家に住んでいた年老いた大工夫婦が田舎に帰ると言っているのを父親が聞きつけて譲ってもらい、何とか家に住めるようになったのだが、駅近くにあったその家の周囲は数軒の家を残して後は焼け野原であった。その荒廃した惨憺たる光景を目にして子供心に涙したことも思い出したが、戦後、神戸では、役所の登記簿なども焼失し、今は神戸一の繁華街となっている三宮などでも戦時中に他都市へ疎開していた人達がやっと、住んでいたところへ帰って来ると焼け野原となった元自分の住んでいた家のあったところには、何処の誰かわからない人達が縄張りをして住んでいても、そこが、自分の土地である事を実証できずにトラブルが多く発生し、結局住み着いていた人に乗っ取られてしまったなどと言う話も聞いたことがあるので、戦災の被害状況などの記録や資料も多く消失してしまったものがあるであろうことは理解できる。阪神大震災の時に見た長田地区・須磨区の震災後の火災で焼け野原となった光景は、ちょうど戦災の後の焦土と化した光景と全く同じであった。神戸は山と海名に挟まれた狭い人口密集地であり、戦時中の建は殆どが木造であっただけに焼夷弾による空爆の人口および面積から換算した被害率としては、五大都市の中でも最悪の状況だったと言われている(神戸市の罹災状況図。神戸市史第三集参照)。
これから後は、余談だが、その余談の方が長くなってしまった。興味のある人は以下を見てください。
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神戸大空襲の日:参考 へ
(冒頭の画像は、焼夷弾の猛攻を受ける神戸港のドック地帯。1945年6月5日。アサヒクロニクル「週間20世紀」より)