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記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

東京招魂社が靖國神社と改称され、別格官幣社となった日(Ⅱ)

2009-06-04 | 歴史
冒頭掲載の右画像は、左画像より、少し時代も進み、1941年(昭和16)年11月6日の靖国神社の秋季例大祭の日、同神社に参拝した近衛歩兵第3連隊(近衛師団参照)である。同様に、アサヒクロニクル「週刊20世紀」(1941年版)より借用のものだ。この写真には、以下のような補足がある。
“兵士の表情は凛々しく、緊張感がみなぎっている。靖国神社の前身東京招魂社は、1869(明治2)年の創設。維新期の内乱で死んだ官軍の犠牲者を祀った。10年後、別格官幣社靖国神社と改称。別格官幣社は、勤皇忠死、顕著な功績のあった人臣を祭神とした。また、一般の神社が内務省のみの管轄だったのに対し、靖国神社は陸・海軍省との共同管理となった。国民学校の音楽で以下の歌が歌われた”・・・と。
ああ、たふとしや、大君(注・天皇のこと)に
命ささげて、国のため
たてしいさをは、とこしへに
光かがやく 靖国の神。
この歌のこと、その出来た経緯など、以下参考に記載の「「平和を守る」を、あなたと一緒に考える: 記録 国民学校の音楽の時間 総集編」に詳しく書いてあるが、当時使われていた『初等科音楽 一』のなかにある「靖国神社」の歌詞だそうである。この歌の2番は、以下のように続くらしい。
 ああ、かしこしや、桜木の
    花と散りても、忠と義の
    たけきみたまは、とこしへに
    国をまもりの 靖国の神。
この2ヶ月前の1941(昭和16)年9月1日には、欧州で第二次世界大戦が勃発している。そのような中で、1937(昭和12)年から始まった日中戦争に行き詰まっていた日本が、日米開戦(太平洋戦争参照)に突き進むのは、この近衛歩兵第3連隊が参拝した約1ヵ月後の12月8日のことであった。満州事変や上海事変後すでに戦意高揚のための映画や歌が作られていたが、日中戦争も2年後の1939(昭和14)年ごろになると、大陸からの主要都市陥落のニュースが飛び込み、列島各地で、戦勝を祝う提灯行列が行なわれる(やはりマスコミが煽っているが・・)一方では、戦死者の知らせが相次いだ。そのため、いつ召集が来るか、いつ戦死の公報がまいこむか・・と、当時の人々は、「お国の為」に、明るく振舞ってはいても内心は、「不安な時代」でもあったろう。
そのような中で、映画なども兵士個々の姿を描いたものから、分隊という集団の中の兵士たちの姿を描いた火野葦兵の従軍記録「土と兵隊」(以下参考のgoo-映画参照)を田坂具隆監督が映画化するようになった。この映画は火野の戦争三部作と言われるものの1つであるが、集団の中の兵士たちをとらえ、延々と続くぬかるみ道を歩く姿を克明にカメラに収めることで運命共同体としての連帯感を描写したものである。
そして、1939(昭和14)年1月、松原操、童謡歌手飯田ふさ江の歌唱で発売された「父よあなたは強かった」と同じく、東京・大阪両朝日新聞社企画募集歌で、「皇軍将士に感謝の歌」として児童向けに募った第1位当選歌詞「兵隊さんよありがとう」が発売されている。以下で聞ける。
YouTube - 父よあなたは強かった作詞:福田 節 、作曲:明本 京静 。歌:松原操、飯田ふさ)
http://www.youtube.com/watch?v=5XXggeAttdw
YouTube - 兵隊さんよありがとう(作詞・橋本善三郎 作曲・佐々木すぐる歌・二代目コロムビア・ローズ)
http://www.youtube.com/watch?v=3FW39uioyR8
この歌は4節に亘って「兵隊さんのおかげです」と繰り返し、最後に同文言で締めくくっている。この時代になると、子供たちまでが「小国民」としての自覚と責務が求められ、このような、小国民愛国歌が沢山作られるようになった。「少国民」とは、戦時中に小さくとも国民なんだから、頑張れという意味で、小学生に対する呼び名として使われた言葉である。
靖国神社はもともと戊辰戦争官軍側の戦死者を弔う招魂祭を起源としていたのだが、それがその後の事変や戦争、ひいては大東亜戦争殉死した日本の軍人などが祀られることになるのであるが、明治期の軍人でも、あの乃木希典や、東郷平八郎などは戦時の死没者でないため靖国神社には祀られていない。(別に個人として乃木神社や、東郷神社で祀られてはいるが・・・。)
毎年、8月15日は、大東亜戦争の終戦記念日であるが、『終戦』そのものは靖国神社にとって特別な意味を持たないため、特定の行事は行われていない。しかし、年間を通して最も多くの参拝者がある。靖国神社支援団体等による式典や、英霊の遺族・戦友、大臣・政治家らの参拝も行われ、更には全国から神社を支持・支援する者や神社の存在に反対する者なども多数集まる。これらが神社の境内や周辺で小競り合いを起こすようなこともある。靖国神社が1年のうちで最も注目を集め、最も騒々しくなる日である。
1978(昭和53)年7月、靖国神社の第6代宮司に就任した松平永芳が10月、それまでの宮司預かりの保留であった東京裁判A級戦犯14柱の合祀を実行した(靖国神社では昭和殉難者と呼ぶ)。これが、いわゆるA級戦犯合祀問題の発端となる(合祀の判明は、翌年4月19日)。この論争は今日まで続いている。
この問題に関しては、それぞいれの考え方があるであろうし、私にもそれなりの考えはあるが、ここで意見を述べようとは思わない。
ただ、あのラフカディヲ・ハーン(小泉八雲)が、その絶筆となった『神国日本ー解明へのー試論ー』の中でも触れているように、「死者の霊を迎える社」招魂社が、天皇と祖国の為に死んだ霊全てを迎えるところとして信じられる。祖国愛としてこの古い招魂の信仰が、神道として結びついたときの悲劇を述べていることは注目されるところだろう(以下参考に記載の「靖国神社とはなにか」参照)。
第6代宮司に就任した松平永芳は、“平泉澄博士を師と仰ぎ、盡忠憂國、志操あまりに純粹一途、己の名利を追求することなく、日常の一擧一動に至るまで、全ての行動の判斷基準を、皇室と國家の護持といふ點に置いた”と云う(以下参考に記載の「靖國神社考(1)」「靖國神社祀職」など参照)。
松平永芳は平泉澄門下の筋金入りの皇国史観派将校であり、太平洋戦争開戦直後に東條内閣が倒れ、小磯国昭内閣が成立後、国家総力戦に備えるべく、陸海軍を統合して皇族を総参謀長にする体制作りと、特攻作戦の実施を島田東助(同じ平泉澄門下で当時の海軍技術少佐だったようだ)に伝えたといわれるが、昭和天皇自身は、昭和初年から平泉皇国史観に対して、本音では否定的であったろうという。少なくとも、昭和天皇は、A級戦犯合祀以降、靖国神社への参拝はしていない(この件については、以下参考に記載の「昭和天皇、A級戦犯靖国合祀に不快感・元宮内庁長官が発言メモ」参照)。
(画像は、左:1905年5月の靖国神社での乃木第3軍の招魂際の様子。右:1941年11月6日の靖国神社秋季例大祭の日に靖国神社に参拝した近衛歩兵第3連帯。いずれも、朝日クロニクル「週刊20世紀」より)

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