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記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

島原の乱(原城の一揆)が勃発した日

2007-10-25 | 歴史
1637(寛永14)年の今日(旧暦10月25日=新暦12月11日)、島原の乱(原城の一揆)が勃発した日。関ヶ原の戦いの後処理を終わらせた徳川家康は、1603(慶長8)年江戸幕府を開いた。徳川幕府は政治体制の安定を求めて、政治的、文化的な体外接触を最小限にとどめ、さらに経済面では貿易についても厳しく統制管理をして、日本を国際的に孤立した体系を鎖国の中に置いた。それゆえ、鎖国は一挙に完成したものではなく、段階的な各種の制限令によって成立した。当初の政策は、キリスト教の宣教(宗教を教え広めること。伝道。布教)は厳禁するが外国貿易は認める方針をとっていた。しかし、貿易船を利用しての宣教師の潜入は相変わらずであった。そこで、幕府はついに両者ともども禁止することになった。
1633(寛永10)年、幕府は、幕府の許可を得ている奉書船以外の海外渡航を禁じた。また、キリスト教の禁止を全国に布令し、神父の訴人には銀100枚を与えることにした。また、貿易面では、オランダ船の滞在は50日、出発は9月20日を期限とし、中国船についても同様とした。そのほか海外渡航5年未満の者はその帰国を許可した。
1634(寛永11)年、さらに、日本人の海外往来や通商を禁止するとともに、長崎の海中に出島の建設を開始し、在留ポルトガル人をここに隔離する方針をとった。ついで、翌・1635(寛永12)年には、海外在留の日本人の帰国を禁止し、500石以上の大船建造をも禁じた。これによって、東南アジア方面に発展していたいわゆる南洋日本人町(日本人町参照)も、衰亡の一路をたどることになり、一方で、大船建造の禁止は、外国への渡航を不可能とするものとなった。また、中国船の来航地も、長崎のみに限定された。出島は、1636(寛永13)年5月に完成し、ポルトガル人はすべてここに移住させられた。また、ポルトガル人との間に生まれた混血の男女、実に287人をマカオに追放するなど、その政策は次第に強化されていった。
その翌・1637(寛永14)年の今日(10月25日=新暦12月11日)、島原で、キリスト教徒や農民が島原藩領主・松倉氏 (松倉重政と次代の松倉勝家)の圧政に対して叛乱(一揆)を起こし、廃城となっていた原城に立てこもった。彼等は、その翌々年・1638(寛永15)年2月28日(新暦4月12日)まで、激しい抵抗をみせた。これが、島原の乱と言われるものである。
島原は元はキリシタン大名である有馬晴信の所領であり、領主の庇護のもと、宣教師の積極的な布教が行われ、領民のキリスト教への信仰も盛んな土地であった。
しかし一方では、キリシタンは、仏教など“異教徒”に力づくで改宗を迫っていた。こうした改宗活動を扇動していたのが宣教師だった。
豊臣秀吉や徳川政権の時代に禁教政策がはじまり、有馬氏が転封となり、代わって有馬氏の後を受けたのが、松倉重政である。重政は1618(元和4)年、一国一城令により、従来あった原城と日野江城を廃して島原城の建築を始める。石高に見合わない壮大な規模の島原城建築のために過重な年貢の取立てに加えて、幕府も徳川秀忠から家光が将軍になると、キリシタンの禁制はますます厳しくなり、重政もこれに応じて厳しいキリシタン弾圧を始めるが、その弾圧の残酷さは俊烈を極めたという。
そのような、過酷な取立てと種々の拷問に耐えかねた島原の領民は、武士身分から百姓身分に転じて地域の指導的な立場に立っていた旧有馬氏の家臣の下に組織化し(この組織化自体が一揆)、1637(寛永14)年10月25日、代官・林兵左衛門を殺害。ここに島原の乱が勃発する。
天草も島原同様キリシタン大名小西行長の土地であったが、関ヶ原の戦いの後に寺沢広高が入部し、次代の寺沢堅高の時代まで島原同様の圧政とキリシタン弾圧が行われていた。
この島原半島の口の津付近で発生した農民たちの一揆はたちまち天草諸島に伝わり、肥後天草でもこれに呼応した領民達が、総大将として宗教的カリスマ性を持つ当時14歳と言われる少年天草四郎を総大将に蜂起。四郎に率いられた天草勢は天草で戦った後、島原に向かい島原の一揆勢と合流し、一揆の勢力は3万7千人に達したという。この一揆勢が、廃城となっていた島原の原城で籠城する。
この島原の乱(原城の一揆)は、島原・天草一揆とも呼ばれる。農民たちの叛乱はいよいよ幕府にキリスト教弾圧の方針を固めさせた。
そのため、島原の乱は、キリシタン弾圧に対する宗教戦争と見なす向きもあるが、その弾圧は、何もキリシタンに止まらず、松倉氏の領する島原藩のある肥前・島原半島と、寺沢氏の領する肥後・天草諸島の農民をはじめとする諸領民が、百姓の酷使や過重な年貢負担に窮し、さらに飢饉の被害も加わり、両藩に対して反乱を起こした乱なのである。
事の重大さに慌てた幕府は、島原の一揆鎮圧に12万4千人もの兵を投入。1638寛永15)年2月28日、幕府軍の総攻撃によって一揆勢はすべて討ち死し、未曾有の惨事となった。この乱の後、幕府は1639(寛永16)年第5次鎖国令を発布し、ポルトガル船の入港を禁止。 1640(寛永17)年、マカオより通商再開依頼のためポルトガル船が来航するが、幕府は使者61名を処刑したといわれている。 残酷なようだが、天草四郎たちは、カトリックの援軍を頼りにしていたと言われており、幕府側にしてみれば、カトリックの国ポルトガルは、災いの種を蒔くだけという判断があったからであろう。そして、1641(寛永18)年オランダ商館も出島に移し、鎖国体制が完成した。
キリスト教信徒であった有力大名小西行長が没落してから、大名の間では次第にキリスト教の同情者は減っていた。当時ヨーロッパを多きく引き裂いた宗教戦争によって、プロテスタント国となったオランダやイギリスの船が17世紀のはじめ、来航し、平戸(長崎県)の商館で貿易を開始することが許可された。スペインやポルトガルの宣教師による布教活動が盛んであったにもかかわらず、この両国はキリスト教の布教には関心がなく、貿易の利益のみを求めていた。家康に面会し世界の情勢を説いたのはイギリス人ウイリアム・アダムス(後の三浦按針)である。
当時は、ポルトガルとスペインという2つの競合する国家を背景とするイエズス会フランシスコ会ドミニコ会といったカトリック内部の教派の対立、加えて、ヨーロッパの宗教改革によって、プロテスタントに生きる新興のイギリス、オランダの進出といった複雑な対立のなかに日本は巻き込まれつつあった。これを打開し、同時に徳川政権の全国支配体制の確立を目指すために、各地のキリスト教徒の弾圧を開始したのであり、スペイン船の来航を禁止し、日本船の渡航も次第に制限を加え、厳しい鎖国政策へと進んで行ったのである。
「鎖国」はなにも日本だけにみられた政策ではなく、同時代の東アジア諸国においてもとられた「海禁政策」であり、現代の歴史学においては、「鎖国」ではなく、東アジア史を視野に入れてこの「海禁政策」という用語を使う傾向がみられるようだ。
鎖国といっても、日本には4つの窓口が開いていた。オランダ・中国は長崎会所で、 李氏朝鮮対馬藩経由で、 琉球薩摩藩経由で、 アイヌ松前藩経由での4つである。
このような島原の乱の起こる原因となった当時の日本の背景など、以下参考に記載の※「新しい歴史教科書・その嘘の構造と歴史的位置・近世の日本:15 鎖国の背景」などを見るとよく分かるのではないか。
(画像は、島原籠城軍の最後。熊本城主細川忠利の軍勢は本丸に乗り込んで、天草四郎の首を取ったが、忠利は松平忠勝宛の書状で、一揆勢の最後を「焼け候燠(おき)を手にて押し上げ、中へはいり死に候者、逃げ申す者は見申さず候、」「さてさて不思議なる仏法(宗教)」「きとく(奇特)なる下々の死、言語に絶し候」と述べているという。週間朝日百貨「日本の歴史」より)
参考:
Wikipedia - 島原の乱
http://ja.wikipedia.org/wiki/島原の乱
原城
http://shiro39.hp.infoseek.co.jp/kyushu/hara/hara.htm
島原の乱を訪ねて(南島原市)
http://www.city.minamishimabara.lg.jp/icity/browser?ActionCode=genlist&GenreID=1000000000045&ParentGenre=1000000000044
鎖国 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8E%96%E5%9B%BD
新しい歴史教科書・その嘘の構造と歴史的位置・近世の日本:15 鎖国の背景
http://www4.plala.or.jp/kawa-k/kyoukasyo/3-15.htm
出島 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%87%BA%E5%B3%B6
島原の乱異聞
http://blog.tatsuru.com/2007/02/23_1353.php
キリシタン史 禁教・潜伏時代
http://www.collegium.or.jp/~take/christi/rekisi4.html
日本人街 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E8%A1%97
龍宮城はベトナムだった
http://www2m.biglobe.ne.jp/~saigon/ibn/cafe12.htm
黒田長興 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E7%94%B0%E9%95%B7%E8%88%88


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