今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

佐渡流罪の日蓮、鎌倉へ帰る

2006-02-14 | 歴史
1274(文永11年)年 2月14日(ユリウス暦1274年3月23日)佐渡に流されていた日蓮が幕府に赦免され鎌倉へ帰る 。
日蓮(1222~1282=貞応1年~弘安5)は、鎌倉時代の仏教の僧侶。日蓮宗、日蓮正宗、顕本法華宗、本門法華宗、法華宗本門流、法華宗陣門流、法華宗真門流、日蓮宗不受不施派、不受不施日蓮講門宗など日蓮門下の伝統宗教の宗祖。 安房国長狭郡東条郷小湊の漁夫の子として生まれ、12才の時、故郷にほどちかい安房清澄山で仏道に入る。その後、5年間を修学に費やし、16歳で出家、得度した後下山。鎌倉・比叡山など各地の諸山・諸寺を歴訪し修行を積み、その際全ての仏経典を読破し研鑽した結果、妙法蓮華経(法華経)が釈迦の本懐であるとの結論に至った。 1253年(建長5年)32歳で比叡山を下り清澄山に戻り、日蓮宗を開く。しかし、法華経が唯一の正しい教えだとして他宗を激しく攻撃・排斥した為、他宗との対立を深め、ついには、領主に追われ再び鎌倉に出る。鎌倉・松葉ヶ谷に小さな草庵を建てた日蓮は、ここから、毎日街頭に出て、道行く人々につじ説法を行って法華経の教えを説いた。このような地道な活動と並行して、1260(文応元)年7月、当時の日本の状態に危機感を抱いた日蓮は『立正安国論』を著し前執権で幕府最高実力者の北条時頼に建白した。この書では、「この国には邪法がはびこっている。一刻も早く仏教経典を根拠に、正法たる法華経を立てなければ内乱や外国からの侵略によって滅びるだろう」と説かれている。幕府や念仏批判に恨みを持っていた僧ら数千人により、松葉ヶ谷の草庵が焼き討ちされるも難を逃れる。その後ふたたび布教をおこなうが、 1261(弘長元)年、幕府は日蓮を捕らえ、伊豆へ配流。1263(弘長3)年、伊豆流罪を解かれて鎌倉に戻った日蓮は、布教活動を再開。幕府に再び立正安国論を差し出し、蒙古来襲を警告した。このことを幕府は政策への批判と解釈し、1271(文永8)年鎌倉松葉谷で説法中の日蓮を逮捕、市中引き回しのうえ、龍口処刑場(現在の神奈川県藤沢市片瀬の龍口寺)で処刑する事にした。しかし処刑は、日蓮の「種種御振舞御書」に「江の島のかたより月のごとく光たる物まりの様にて、辰巳の方より戌亥の方へ光渡る」とあるように、稲光が起き刀が段々に折れるという怪異が発生し中止。そのまま佐渡へ流される。佐渡に流されたとき日蓮は50才。思想、信仰の成熟した時であった。弟子や信徒から遠く離れて、死を覚悟した中で3年間の静思の時が与えらた。ここで、彼は筆を取り、法門教義を組織的に詳細著述して書き残す考えになった。そして、佐渡流罪中の3年間にいくつかの大著述を書いたが、中でも日蓮当身の大事という最重要教義『開目抄(かいもくしょう)』と『観心本尊抄(かんしんほんぞんしょう)』を著した。
佐渡に流された当初の住まいは、塚原という墓場の中の三昧堂で、寒風吹きすさぶあばら屋であった。ここで著された『開目抄』は法華経の行者として日蓮の使命について自他の疑いを解き、盲目を開くことを目的とした大文章。 「我れ日本の柱とならん 我れ日本の眼目とならん 我れ日本の大船とならんと誓いし願破るべからず」と示された、日蓮の遺言の書ともいえる。又、身柄を一の谷入道の家へ移され、ここで日蓮の生涯において最も重要なご文章である『観心本尊抄(正式には、如来滅後五五百歳始観心本尊抄)』を書いた。この「本尊抄」には、法華経に説かれている表面的な内容だけでなく、文章の奥に秘められている宇宙の真実の姿、生命の真実の姿が説かれている。さらにその後、「本尊抄」に説いた法門を図様化した「十界互具の大曼荼羅」を顕した。これが、日蓮門下の誰もが最も尊ぶべき「本尊」としているものである。
1274(文永11)年の2月14日、赦免によって佐渡から戻った日蓮は、鎌倉の夷堂に滞在した後、甲斐国の身延山に入って久遠寺を建立し、布教を再開した。その数ヵ月後の、文永の役と1281(弘安4)年の弘安の役の2度にわたる蒙古襲来があり、日蓮の予言が的中した。1282(弘安5)年、日蓮は武蔵国池上で病により、60歳で激動の生涯を閉じた。
日蓮は、数多くの経典から敢えて「法華経」を選びとり、その教えを鎌倉時代の世に実践して、命がけの布教に生涯を捧げてきた。法華経こそが釈尊の本意を説きあらわした真実の教えであるからこれを信じなさいと説いた。法華経は、最初に、聖徳太子が法華義疏を著わし、平安時代には、天台宗を開いた伝教大師最澄もまた法華経を中心として一宗を立てたものであり、この経典は日本でも日蓮の現れる前より、仏教の重要な位置を占めていたものであり、古くから広く人々の信仰を集めてもいた。しかし、その経典に説かれた高度な教えは現実社会に生きる者にとって、難解で理解し難く、次第に遠ざけられ、混迷した世の中から逃避する教えに人々は傾いていくようになっていた。そうした中で、法華経にこそ釈尊の真意があることを明らかにしたのが日蓮である。 法華経は、今の現実を積極的に肯定していこうとする教えである。
ただ、昔は法華経は釈尊が直接説かれたものと信じられていたが、今では、その成立は釈尊滅後500年ほど経た紀元100年前後とするのが定説になっているようである。釈迦のいた時代には、紙などもなく、釈迦の教は、全て口伝えである。それを当時の仏弟子(当時の僧は、その時代の最高の知識人といえる)たちが大勢集まり、仏説に込められた意図を究明し、論理を深め成立した経典は、釈尊の説かれた真理と実践が高度に集約されたものになっているといっていいだろう。その中でも、仏教経典の核となる『法華経』は、世界最高の芸術作品だという人もいる。日蓮の波乱の一生を描いた長谷川一夫や萬屋錦之介主演による映画も製作されたことがある。
(画像は、色紙「日蓮聖人御尊像」)
参考:
絵で読む日蓮上人のご生涯
http://www.genshu.gr.jp/Center/material/denkie/page01.htm
日蓮
http://www.tabiken.com/history/doc/N/N357C100.HTM
PDC日蓮年譜
http://www.asahi-net.or.jp/~ia8d-tkmr/pdc07.html
法華経 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E8%8F%AF%E7%B5%8C
元寇 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E5%AF%87
佐渡の歴史建造物 年表
http://www.sadokankou.gr.jp/jp/history/kenzou_nenpyou.html
日蓮 - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD18951/

最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
哲学 (よーさん)
2006-02-15 15:34:24
Lindaさんの言われるとおり、昔の宗教家はある意味では哲学者だったかもしれませんね。私は、余り、宗教の話はしたくないのですが、もともと日本に伝わった仏教(インドの釈迦の説いたもの・インド仏教)には、先祖祭りのようなものはなく、釈迦の説いた教義であった。西洋の文化は、キリスト教と哲学から成り立っているが、東洋の多くの国は仏教を哲学としている。しかし、日本の場合、仏教が、日本へ伝来して、もともと日本に昔よりあった神さんの思想や儒教の思想などと融合して仏教が出来上がっている。日本人には、家に仏壇は飾ってあっても、外国人のように確とした、宗教といえるものを持っている人は少なく、それが故に、変なイデオロギーがない点では、良い面もあるが、確たる哲学をもっていないことは欠点でもあろうと思います。兎に角、家に仏さんを祭り、正月などには神社に参拝し、クリスマスを祝うお国柄ですからね。
返信する
揉め事 (Linda)
2006-02-14 10:27:11
よーさん、お早うさんです。

宗教はよく解りませんが、昔の宗教家はある意味では哲学者だったのですかね。

今の宗教家はどうなんでしょう。日蓮と関係の深い何処かの宗派のように、勢力争いをしていますが教義と関係のある争いでしょうかねえ。
返信する

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。