今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

西行忌、円位忌

2006-02-15 | 人物
今日(2月15日)は、「西行忌」「円位忌」
歌人・西行法師(さいぎょうほうし)の1190(文治6)年の忌日。
亡くなったのは旧暦2月16日であるが、「願はくは花の下にて春死なむ そのきさらぎの望月の頃」の歌より、15日を忌日としている。
2月15日は釈迦入滅の日であり、この前後に亡くなることは仏教の修業をする者にとっての憧れだったからだそうだ。
西行(さいぎょう)は、1118(元永元) 年~1190(文治6)年は平安末期、院政期から鎌倉時代初期にかけての歌人。俗名は佐藤義清(のりきよ)。父左衛門尉佐藤康清、母源清経女。北家藤原氏の末裔で、将門の乱の鎮圧に大功を立てた関東の豪族藤原(俵藤太)秀郷の子孫(九代目)。 奥州藤原氏とも近い系譜をもつという。紀州紀ノ川のほとりに広大な領地を有する武門の家系で、若くして、鳥羽法皇の御所に仕える北面の武士となり文武両道に活躍したが、1140(保延6)年、23歳の若さで妻子を捨て出家した。法名は円位、西行と号し、諸国を行脚しながら多数の名歌を残した。歌集に『山家集』、『山家心中集』『聞書集』などがある。なお、西行は出家後も俗界と交わりを絶ったわけでなく、その経歴、出自から当時の政界上層部(白河法皇、主家筋に当たる徳大寺家などの上級公家、北面の武士時代に培った平清盛ら有力武士との交わり、親戚筋にあたる奥州藤原氏など)に知古が多く、源平争乱の世に情報僧として政治の動きに一定の役割を果たしたといわれている。
西行といえば花、さらに旅から旅への漂泊の人として、世を捨てた隠遁の人としても、さまざまの神話に彩られている。その逸話や伝説を集めた説話集に『撰集抄』『西行物語』があり、『撰集抄』については作者に擬せられている。
旅の歌が多いが、特に桜の花を愛でた歌は有名でその多くは『山家集』に収められている。出家後、西行は吉野山の麓に庵を結んでいる。ここで、桜への思いを和歌に詠んでいる。
「花に染む心のいかで残りけん捨てはててきと思ふわが身に」(出家したばかりなのに、どうしてこんなにも桜の花に魅せられるのだろう)
吉野山は、西行にとって在俗時から慣れ親しんでいた和歌の歌枕の地であり、清浄きわまりない桜の名所であった。
「嘆(なげ)けとて 月やは物を 思はする かこち顔なる わが涙かな 」・・・これは、あの有名な小倉百人一首(86番)に選ばれた西行法師の歌である。
嘆き悲しめといって、月は私に物思いをさせるのだろうか。 いや、そうではない。本当は恋のせいなのに、まるで月の せいであるかのように、恨みがましく流れる私の涙であっ たよ・・・といった意味らしい。一説によると、佐藤義清(西行)が北面の武士として上皇の御所を守って いた頃、白河院の愛妾にして鳥羽院の中宮であった待賢門院璋子を好きになり、あきらめようと出家したといわれる。
出家後、西行は吉野山や京都嵯峨の小倉山の麓の庵で暮らしなが ら、全国を旅していた。ある時、西行は中宮の幻を見 て、まだ悟れなかったことを後に思い出して作ったのがこの歌だそうだ。 
北面の武士をしていた西行は出家したため五位にあがることはなく、宮中資格を持っていなかった。それでも、和歌に秀でていた崇徳院は西行とは、もっとも親しい天皇であった。
待賢門院璋子は、鳥羽天皇の中宮で、崇徳・後白河両天皇の母である。また、左大臣実能(徳大寺家祖))の妹でもある。西行は、出家後、法皇の崩御により宮中での力はさらに衰えるが、彼の並外れた詩才と共に、主家に徳大寺実能がいたことや、妹待賢門院璋子などとのつながりなどから宮中の歌会に招かれるなど、崇徳院の歌会にも出席していたのだろう。
崇徳院は藤原顕輔に詞花集の撰集を命じていた。西行没後ぬ出来た勅撰和歌集である『新古今和歌集』に、西行の歌は一首のみ撰入されている。
「身を捨つる人はまことに捨つるかは捨てぬ人こそ捨つるなりけれ」
この歌は、読人知らずとして撰入されているがそれは、西行が正式には、宮中資格を持っていなかったためであろう。
歌の上だけではなく、待賢門院璋子の長子である崇徳院への西行の思い入れは深かったのだろう。身分の差を越えて保元の乱後に仁和寺にも駆けつけた。鳥羽法皇が崩御、保元の乱では、崇徳院と後白河天皇の皇位をかけての相克に加えて、摂関家の内紛、武家同士の反目が加担し、正に血で血を洗う戦乱となった。結局、崇徳上皇は、後白河天皇に敗れ、都を追われて讃岐に流された。西行は、流島になった崇徳院とも「女房」を介して歌の贈答をしている。保元の乱の3年後、平治の乱が起こり、平清盛が大勝した。1159(平治元)年12月のことであった。その後、王朝文化は終焉し、武家政権が続くことになる。
西行が身の上を案じていた崇徳院は、讃岐へ配流後も継子いじめのような度重なる朝廷からの不当な取扱いに,憤怒と望郷の想いを胸にたぎらせこの地で没した。 1164(長寛2)年8月のことであった。保元の乱後、西行は、崇徳院への深い追悼の念を持ちつつ、1145(久安5)年頃高野山に入る。大峯修行を決行した後、1168(仁安3)年、讃岐(四国の香川県)へ旅をし、白峰の墓所に詣で、
「よしや君昔の玉の床とてもかからむ後は何にかはせん」としみじみ詠んでいる。この時51歳であった。
上田秋成「雨月物語」は9つの物語からなり、それぞれ別々の物語であるにもかかわらず、裏に表に微妙にテーマとモチーフがつながっている。その一話、崇徳院天狗伝説を蘇らせる「白峯」は、この崇徳院の怨念にまつわる怪奇物語である。崇徳院は、讃岐に流された後、失意の中,自らの血を墨に写経した大乗教典五部を仁和寺の門跡である実弟の覚性法親王に送るが、その取り巻きの進言により、その受け取りが拒否される。それを知った崇徳院は、鬼の形相で末代まで祟たってやると言い放ち、怨念を秘めたまま死をむかえる。讃岐を訪れた西行の回向に対して成仏できない崇徳院の霊が現れ西行と問答を繰り返すという謡曲的な構成になっている。
四国では、白峰の墓所に詣でたほか、弘法大師空海誕生の地を訪ねている。その後も各地を旅し庵を結んでいたが、最後は、河内の弘川寺(河南国南葛城=現・河南町)に草庵を結び、1190(文治6)年春2月16日(旧暦)に入滅。
 冒頭の「願わくば・・・」の歌は、西行の桜への熱い思いが凝縮された歌として有名である。自らの願いの通り、桜の咲く春に73歳の大往生であった。
西行は、全国各地を旅しており、各地に、西行の歌が残っている。西行の歌に興味のある方は西行ゆかりの地を見ると良い。全国各地の西行にまつわる話と歌が詳しく書かれている。
(画像は百人「西行法師」)
参考:
お茶街道:人物:西行法師
http://www.ochakaido.com/rekisi/jinup/jinup06.htm
西行 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E8%A1%8C
詞花和歌集 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A9%9E%E8%8A%B1%E5%92%8C%E6%AD%8C%E9%9B%86
崇徳天皇(Wikipedia)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B4%87%E5%BE%B3%E5%A4%A9%E7%9A%87
待賢門院-Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%85%E8%B3%A2%E9%96%80%E9%99%A2
白峯天狗伝説
http://www.city.sakaide.kagawa.jp/local/minwa/tengu2.html
弘川寺
http://www.octb.jp/search/detail.cgi?id=00954
西行物語(あらすじ)
http://ddb.libnet.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/otogi/sai/sai1.html
ISEインターネット放送局 お伊勢さんチャンネル>伊勢学講座>西行
http://www.isenet.jp/oisesan/html/isegaku/saigyou/saigyou.html
雨月物語 うげつものがたり
http://www.tabiken.com/history/doc/B/B316R100.HTM
西行ゆかりの地
http://tekipaki.jp/~archive/saigyo/html/yukari.html


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2 コメント

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Unknown (いぎょう)
2012-04-21 16:33:35
 読みました。長かった。声に出して読んだのですが結構疲れました。喉も疲れるし頭も疲れる。でも西行に詳しくなれて良かったです。
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ごめんなさい (よーさん)
2012-04-25 09:35:53
いぎょうさん、ブログ見ていただき有り難う!
文章力がないもので長文になりすみません。
人に見てもらうと言うより、自分自身が色々調べたことを読書間隔で書いているだけなので、まとまりが悪くたらたら書きすぎといつも反省しています。
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