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毛利元就が息子の毛利隆元・吉川元春・小早川隆景に14箇条の遺訓(三子教訓状)を記す

2007-11-25 | 歴史
1557(弘治)3年の11月25日の今日、毛利元就が息子の毛利隆元・吉川元春・小早川隆景に14箇条の遺訓(三子教訓状)を記す。(後に「三本の矢」の話として伝えられる。 )
毛利 元就(もうり もとなり)は、室町時代後期から戦国時代にかけての安芸国人領主から中国地方のほぼ全域を支配下に置くまでに勢力を拡大し、後世、戦国時代最高の名将の一人と評されている。
1497(明応6)年、安芸の国吉田で毛利弘元の二男としてで生まれ、20歳のとき初陣で、「有田中井手の戦い」(後世「西の桶狭間」といわれた)に勝利し、安芸国人「毛利元就」の名は、ようやく世間に知られるようになる。この頃に吉川国経の娘(法名「妙玖」)を妻に迎えている。
27歳で毛利の本家をついだ元就は、50代半ばまでは、周防(今の山口県)の大内氏と出雲の尼子氏の間で領国を守ることに終始した。中でも、1540(天文9)年~1543(天文12)年にかけての尼子晴久率いる2万の尼子軍に本拠地吉田郡山城攻め(吉田郡山城の戦い)と、大内義隆に従っての出雲国の月山富田城への侵攻(第1次月山富田城の戦い)は、元就にとって大きな危機であった。元就は1555(弘治元)年59歳のとき、陶晴賢と対決した「厳島合戦」の2年後、1557(弘治3)年に、大内氏の内紛を好機とみた元就は、晴賢に傀儡として擁されていた大内氏の当主・大内義長を討って、大内氏を滅亡に追い込んだ。これにより九州を除く大内氏の旧領の大半を手中に収めることに成功。中国地方の大大名となる。この年、元就は長男の毛利隆元に家督を譲って隠居した。ただし実権は元就がなおも握り、吉川元春(次男)と小早川隆景(三男)による『毛利両川体制』を確固たるものとしていった。隠居に際して同年11月25日の今日『14箇条の遺訓(いわゆる「三子教訓状」)をしたため、家中の結束を呼びかけた。この遺訓が後に「三本の矢」の逸話の基となったとされている。
「一本の矢はすぐ折れても三本の矢を折ることは難しい。この矢のように、お前達も1人づつでは力が弱い」
この「三矢の訓」(さんしのおしえ)は、兄弟の争いを戒める例としてとくによく知られた話である。
確かに、骨肉相食む(あいはむ)乱世にありながら、元就の3人の子供は、争うことなく、助け合い、毛利の名を天下に高らしめ、戦国諸大名の羨望を集めた。更に、戦国の世を潜り抜けた毛利家は、その後の豊臣政権、徳川政権の下でも巧みにその家を守り、幕末には維新の志士達を輩出させ、明治の世には徳川家に勝る権勢を掌中にしている。この毛利家の繁栄とその生命力は、「三矢の訓」がもたらしたものだといわれている。しかし、この三本の矢の話が事実であることを証明する記録はどこにも残されておらず、しかも、毛利元就とは、相手を倒すのに手段を選ばず、また、いささかも情に流されない戦国武将であったという。
「能も芸も慰めも道たても本路たても、何もかもいらず候。ひとえにひとえに武略・計略・調略かたの事までに候々」「はかりごと多きは勝ち、少なきは敗け候と申す」(毛利家文書413)
「三矢の訓」は、中国の『西秦録』(せいしんろく)という書物に見える故事をもとに江戸時代になって三子教訓状と関連させてつくられたもののようだが、元就が日頃から3人の協力を説いてやまなかったことは書状からも窺える。
強大な権力を築くことの難しさは国人から身を起こした戦国大名が負わざるを得ない宿命である。西国の雄元就も、この宿命に苦悩し続けた1人である。元就の結論は晩年自らが述べているように「計略こそが唯一の道である。」と言うことである。
強力な権力を持たない毛利氏にとって、血縁的な紐帯(じゅうたい)の強化が独立性の強い国衆に対する最も有効な対抗手段だった。そのため、元就は安芸・石見に勢力を持つ吉川氏と、安芸・備後瀬戸内海に勢力を持つ小早川氏、両家に次男、三男を養子に送り込み他家の乗っ取りを果たした。しかし、家督を譲った長男隆元は15歳から3年余り大内氏へ人質として預けられ、元服して、義隆からその名をもらったのだが、この時、西の京都といわれた山口の優雅な公家文化に浸っており、書画修業にも励み文化人としての素養はあっても武将としては優柔不断であったようであり、武将としての一層の鍛練を求めている。軟弱な当主では、厳しい戦国の世を乗り切れないという父親の思いが伝わってくる。また、武略一筋で中国地方一帯の覇者となった知将元就は苦労人の細心さで隆元ら三子の結束を説いた教訓状も残したのである。
(画像は、毛利元就 。防府毛利報公会蔵。週間朝日百貨「日本の歴史」より)
参考:
毛利元就 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E5%88%A9%E5%85%83%E5%B0%B1
中国新聞 毛利 元就
http://www.chugoku-np.co.jp/Mouri/index.html
毛利元就とその一族を探求する「安芸・毛利一族HomePage」
http://fukubara.web.infoseek.co.jp/2003a/2003_6_8.htm
戦国毛利氏
http://www2.harimaya.com/sengoku/mouri/index.html
毛利元就 (NHK大河ドラマ)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E5%88%A9%E5%85%83%E5%B0%B1_(NHK%E5%A4%A7%E6%B2%B3%E3%83%89%E3%83%A9%E3%83%9E)
毛利博物館
http://www.c-able.ne.jp/~mouri-m/
[図説]歴史の意外な結末
http://books.google.com/books?id=EDyuvZjoww4C&pg=PA48&lpg=PA48&dq=%22%E8%A5%BF+%E7%A7%A6%22+%22%E4%B8%89+%E6%9C%AC+%E3%81%AE+%E7%9F%A2%22&source=web&ots=Y6YCUpOpkW&sig=SAcQpcP6iWT_ocwaK2Rl37Ii6zI#PPA47,M1

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