今日(11月24日)「東京天文台設置記念日」
1921(大正10)年の今日(11月24日)、東京都麻布区板倉(現在の港区麻布台)に東京天文台が設置された。
1878(明治11)年に東京帝国大学(現・東京大学)構内に作られた理学部星学科観象台を母体とし、旧内務省、海軍省の天文関係業務を統合して設立された。1924(大正13)年に、都会の明るさのために観測が困難になったことから、郊外の三鷹市に移転。1988(昭和63)年に、東京大学附属東京天文台から文部省(現在の文部科学省)附属の天文台に移管された。
天文学の起源は暦を作ることから始まったと考えられている。人類が農耕を行うようになると、農作物の栽培や収穫に最適な時期を知るために1年周期の季節変化を正確に把握する必要が出てきたからである。
日本の天文学は主に中国の天文学が移入され、それが発展した。6世紀頃の飛鳥時代に百済から渡来した人々が中国の暦を日本に伝え、日本でも暦法が行われるようになった。暦は9世紀半ばまで、その時々の中国の暦を採用していたが、遣唐使の廃止などによって中国との往来が途絶えると、862(貞観4)年の宣明暦の採用を最後に改暦は長く行われなくなった。これによって暦の誤差はその後800年にわたって累積することとなったが、江戸時代の天文学者渋川春海が中国の元の暦を元にして貞享暦を作り、改暦を行った。この功績によって春海は江戸幕府に新設された天文方の職に就き、幕府の公設天文台として「浅草天文台」が設置された。(以下参考に記載の「伊能忠敬図書館 /写真資料室」参照)これ以後、朝廷の陰陽寮が行ってきた暦の編纂は幕府主導で行われるようになった。そして、この時より、幕府天文方の浅草天文台で継続的に星の観測をするようになった。
江戸中期には、西洋天文学を取り入れた暦法を採用したいという将軍徳川吉宗の強い意向を受け、改暦の準備が始めら、幕府天文方には吉宗の要望を実現するに足るだけの人材が集められると同時に、西洋天文学がこの組織の中で盛んに研究された。この流れの中で、在野の天文学者でありながら独自の計算で日食を正しく予報したりケプラーの法則を独立発見した麻田剛立や、剛立の弟子で後に幕府天文方となった高橋至時などが現れた。至時はケプラーの楕円軌道理論を取り入れた寛政暦を1798(寛政10)年に編纂し、また伊能忠敬の師として彼の日本地図作成を助けた。伊能は、幕府天文方が西洋の知識を導入する過程で求めていた天文・地理情報を実測によって提供するために、精密な日本地図作りに励んだのである。
明治維新以降になると西洋天文学が本格的に日本にもたらされたが、工業化とは直接的には無縁であった天文学は他の科学に比べて新政府の関心は低く、江戸幕府の天文方が廃止されて、陰陽寮が日本の天文暦法の一切を統括するなど明治当初には却って危機的状況に置かれていたが、太陽暦の導入や新設の海軍省から航海上の安全確保の観点から西洋天文学導入の必要性を訴える意見が出た事によって、政府も天文学研究に本腰を入れるようになった。
江戸幕府の洋学所をルーツとする東京開成学校が東京医学校(以下参考に記載の「旧東京医学校本館」参照)と合併して1877(明治10)年に東京大学が設立され、日本で初めての近代的な大学が設立された。また、設立と同時に、理学部星学科が設置され、翌1878(明治11)年には理学部学生の実習用に天文台として星学科観象台が作られた。1882(明治15)年には天象台と気象台に分離されて前者のみ東京大学にとどまった。
因みに、1875(明治8)年6月から東京府第2大区(のち赤坂区)溜池葵町内務省地理寮構内(現在の東京都港区虎ノ門2-10ホテルオークラのあたり)で気象業務を開始(気象庁の前身東京気象台、当初は、御雇外人ジョイネルが一人で担当して地震観測と1日3回の気象観測を開始)していた。日本で「天気図」が毎日作られるようになったのは、1883(明治16)年2月16日からで、東京天文台が各地の気象観測の結果を電報で集め、暴風の可能性があるときに警報を発表する業務を始めてからである。一般国民が毎日「天気図」を見られるようになったのは、1924(大正13)年8月21日の「国民新聞」に掲載されてから。同時に「台風経路図」が載ったのが好評で、その後、掲載紙が増え、次第に専門家のものだった「天気図」が国民にも親しまれるようになった。
1886(明治19)年3月2日に帝国大学令(以下参考に記載の「中野文庫 - 帝国大学令」参照)が施行されると、高等教育機関の改組・改称が行われ、東京大学理学部も帝国大学理科大学と改称され、その7学科の一つとして星学科が開設された(大学制度の実質的な変化は伴っていない)。
1888(明治21)年天象台が麻布飯倉に移転して東京天文台(改称) となるに及んで星学教室も同所に移った。1924(大正13)年に東京天文台は三鷹に移転したが、星学教室は同所に留まった。この間1919(大正8)年に理科大学は再び理学部に改められ星学科は天文学科と改称、1921(大正10)年には、東京天文台が理学部を離れて東京大学附置の研究所となる。
1988(昭和63)年、東京大学東京天文台は水沢の緯度観測所(以下参考に記載の「緯度観測 ・水沢観測所木村記念館」参照)などと一緒になり、国立天文台となり、さらに国立天文台は文部省、文部科学省の管轄を経て2004(平成16)年4月1日より法人化し、大学共同利用機関法人自然科学研究機構国立天文台となっている。
海外のハワイ観測所などいくつかの観測所や、三鷹キャンパスなどで研究活動を行っており、総称として国立天文台と呼ばれており、本部は三鷹キャンパス内にある。
国立天文台三鷹キャンパスは年末年始を除く期間自由に公開施設を見学可能だそうである。(国立天文台三鷹キャンパス常時公開参照)
(画像は、「明治十六年(1883)十月三十一日 太陽金環触の圖」国立天文台 三鷹図書室より。拡大図等他の貴重資料も国立天文台 貴重資料でみれます。)
参考:
国立天文台
http://www.nao.ac.jp/index.html
国立天文台 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E7%AB%8B%E5%A4%A9%E6%96%87%E5%8F%B0
東京大学大学院理学系研究科天文学専攻・理学部天文学科/天文学教室の沿革
http://www.astron.s.u-tokyo.ac.jp/history.html
Category:廃止された日本の国家機関
http://ja.wikipedia.org/wiki/Category:%E5%BB%83%E6%AD%A2%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%9F%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E5%9B%BD%E5%AE%B6%E6%A9%9F%E9%96%A2
天気図 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%B0%97%E5%9B%B3
伊能忠敬図書館 /写真資料室
http://www.tt.rim.or.jp/~koko/salon.html
国立天文台 三鷹図書室
http://library.nao.ac.jp/Default.htm
旧東京医学校本館
http://www.geocities.jp/bane2161/kyuutoukyouigaxtukou.html
文部科学省・学制百年史 [第一編 第五章 第二節 一]
http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/hpbz198101/hpbz198101_2_140.html
気象庁の歴史
http://www.jma.go.jp/jma/kishou/intro/gyomu/index2.html
國民新聞 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%8B%E6%B0%91%E6%96%B0%E8%81%9E
気象に関する用語
http://www.kishoyoho.net/yougo4.html
中野文庫 - 帝国大学令
http://www.geocities.jp/nakanolib/rei/rm19-3.htm
東京天文台
http://www.intwk.co.jp/YAMADA/build2b/tenmon.htm
緯度観測 ・水沢観測所木村記念館
http://uenishi01k.at.infoseek.co.jp/s293-10ido.html
1921(大正10)年の今日(11月24日)、東京都麻布区板倉(現在の港区麻布台)に東京天文台が設置された。
1878(明治11)年に東京帝国大学(現・東京大学)構内に作られた理学部星学科観象台を母体とし、旧内務省、海軍省の天文関係業務を統合して設立された。1924(大正13)年に、都会の明るさのために観測が困難になったことから、郊外の三鷹市に移転。1988(昭和63)年に、東京大学附属東京天文台から文部省(現在の文部科学省)附属の天文台に移管された。
天文学の起源は暦を作ることから始まったと考えられている。人類が農耕を行うようになると、農作物の栽培や収穫に最適な時期を知るために1年周期の季節変化を正確に把握する必要が出てきたからである。
日本の天文学は主に中国の天文学が移入され、それが発展した。6世紀頃の飛鳥時代に百済から渡来した人々が中国の暦を日本に伝え、日本でも暦法が行われるようになった。暦は9世紀半ばまで、その時々の中国の暦を採用していたが、遣唐使の廃止などによって中国との往来が途絶えると、862(貞観4)年の宣明暦の採用を最後に改暦は長く行われなくなった。これによって暦の誤差はその後800年にわたって累積することとなったが、江戸時代の天文学者渋川春海が中国の元の暦を元にして貞享暦を作り、改暦を行った。この功績によって春海は江戸幕府に新設された天文方の職に就き、幕府の公設天文台として「浅草天文台」が設置された。(以下参考に記載の「伊能忠敬図書館 /写真資料室」参照)これ以後、朝廷の陰陽寮が行ってきた暦の編纂は幕府主導で行われるようになった。そして、この時より、幕府天文方の浅草天文台で継続的に星の観測をするようになった。
江戸中期には、西洋天文学を取り入れた暦法を採用したいという将軍徳川吉宗の強い意向を受け、改暦の準備が始めら、幕府天文方には吉宗の要望を実現するに足るだけの人材が集められると同時に、西洋天文学がこの組織の中で盛んに研究された。この流れの中で、在野の天文学者でありながら独自の計算で日食を正しく予報したりケプラーの法則を独立発見した麻田剛立や、剛立の弟子で後に幕府天文方となった高橋至時などが現れた。至時はケプラーの楕円軌道理論を取り入れた寛政暦を1798(寛政10)年に編纂し、また伊能忠敬の師として彼の日本地図作成を助けた。伊能は、幕府天文方が西洋の知識を導入する過程で求めていた天文・地理情報を実測によって提供するために、精密な日本地図作りに励んだのである。
明治維新以降になると西洋天文学が本格的に日本にもたらされたが、工業化とは直接的には無縁であった天文学は他の科学に比べて新政府の関心は低く、江戸幕府の天文方が廃止されて、陰陽寮が日本の天文暦法の一切を統括するなど明治当初には却って危機的状況に置かれていたが、太陽暦の導入や新設の海軍省から航海上の安全確保の観点から西洋天文学導入の必要性を訴える意見が出た事によって、政府も天文学研究に本腰を入れるようになった。
江戸幕府の洋学所をルーツとする東京開成学校が東京医学校(以下参考に記載の「旧東京医学校本館」参照)と合併して1877(明治10)年に東京大学が設立され、日本で初めての近代的な大学が設立された。また、設立と同時に、理学部星学科が設置され、翌1878(明治11)年には理学部学生の実習用に天文台として星学科観象台が作られた。1882(明治15)年には天象台と気象台に分離されて前者のみ東京大学にとどまった。
因みに、1875(明治8)年6月から東京府第2大区(のち赤坂区)溜池葵町内務省地理寮構内(現在の東京都港区虎ノ門2-10ホテルオークラのあたり)で気象業務を開始(気象庁の前身東京気象台、当初は、御雇外人ジョイネルが一人で担当して地震観測と1日3回の気象観測を開始)していた。日本で「天気図」が毎日作られるようになったのは、1883(明治16)年2月16日からで、東京天文台が各地の気象観測の結果を電報で集め、暴風の可能性があるときに警報を発表する業務を始めてからである。一般国民が毎日「天気図」を見られるようになったのは、1924(大正13)年8月21日の「国民新聞」に掲載されてから。同時に「台風経路図」が載ったのが好評で、その後、掲載紙が増え、次第に専門家のものだった「天気図」が国民にも親しまれるようになった。
1886(明治19)年3月2日に帝国大学令(以下参考に記載の「中野文庫 - 帝国大学令」参照)が施行されると、高等教育機関の改組・改称が行われ、東京大学理学部も帝国大学理科大学と改称され、その7学科の一つとして星学科が開設された(大学制度の実質的な変化は伴っていない)。
1888(明治21)年天象台が麻布飯倉に移転して東京天文台(改称) となるに及んで星学教室も同所に移った。1924(大正13)年に東京天文台は三鷹に移転したが、星学教室は同所に留まった。この間1919(大正8)年に理科大学は再び理学部に改められ星学科は天文学科と改称、1921(大正10)年には、東京天文台が理学部を離れて東京大学附置の研究所となる。
1988(昭和63)年、東京大学東京天文台は水沢の緯度観測所(以下参考に記載の「緯度観測 ・水沢観測所木村記念館」参照)などと一緒になり、国立天文台となり、さらに国立天文台は文部省、文部科学省の管轄を経て2004(平成16)年4月1日より法人化し、大学共同利用機関法人自然科学研究機構国立天文台となっている。
海外のハワイ観測所などいくつかの観測所や、三鷹キャンパスなどで研究活動を行っており、総称として国立天文台と呼ばれており、本部は三鷹キャンパス内にある。
国立天文台三鷹キャンパスは年末年始を除く期間自由に公開施設を見学可能だそうである。(国立天文台三鷹キャンパス常時公開参照)
(画像は、「明治十六年(1883)十月三十一日 太陽金環触の圖」国立天文台 三鷹図書室より。拡大図等他の貴重資料も国立天文台 貴重資料でみれます。)
参考:
国立天文台
http://www.nao.ac.jp/index.html
国立天文台 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E7%AB%8B%E5%A4%A9%E6%96%87%E5%8F%B0
東京大学大学院理学系研究科天文学専攻・理学部天文学科/天文学教室の沿革
http://www.astron.s.u-tokyo.ac.jp/history.html
Category:廃止された日本の国家機関
http://ja.wikipedia.org/wiki/Category:%E5%BB%83%E6%AD%A2%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%9F%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E5%9B%BD%E5%AE%B6%E6%A9%9F%E9%96%A2
天気図 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%B0%97%E5%9B%B3
伊能忠敬図書館 /写真資料室
http://www.tt.rim.or.jp/~koko/salon.html
国立天文台 三鷹図書室
http://library.nao.ac.jp/Default.htm
旧東京医学校本館
http://www.geocities.jp/bane2161/kyuutoukyouigaxtukou.html
文部科学省・学制百年史 [第一編 第五章 第二節 一]
http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/hpbz198101/hpbz198101_2_140.html
気象庁の歴史
http://www.jma.go.jp/jma/kishou/intro/gyomu/index2.html
國民新聞 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%8B%E6%B0%91%E6%96%B0%E8%81%9E
気象に関する用語
http://www.kishoyoho.net/yougo4.html
中野文庫 - 帝国大学令
http://www.geocities.jp/nakanolib/rei/rm19-3.htm
東京天文台
http://www.intwk.co.jp/YAMADA/build2b/tenmon.htm
緯度観測 ・水沢観測所木村記念館
http://uenishi01k.at.infoseek.co.jp/s293-10ido.html