今日(9月2日)は、東京専門学校が大学へ昇格し「早稲田大学」に改称した日だそうだ。(1902年)
早稲田大学は、東京都に本部を置く日本の私立大学で、略称は早大。1882(明治14)年に大隈重信が創立した東京専門学校が前身。
1881(明治14)年国会開設問題について、伊藤博文と意見が合わず対立していた大隈重信は、その後の 政変によって追放され、参議を辞任。 翌1881(明治14)年 3月 立憲改進党を結成、その総理となる。 大隈は、小野梓にはかり、小野の傘下にある高田早苗,天野為之,市島謙吉ら鴎渡会の青年たちの参加を得て、半年後の1882(明治15)年10月当時大隈の別邸があった南豊島郡下戸塚村の早稲田に、洋風木造2階建の3棟の新校舎で開校した。入学生80名だったそうだ。初代校長には大隈の養嗣子大隈英麿が就任。開校式には大隈校長の開校宣言、ついで天野の演説,成島柳北の祝辞ののち、小野が同校設立の抱負を述べ、”学問の独立”こそが国民精神の独立、一国の独立の基本理念であることを強調したという。その小野の言う“学問の独立”とは、政治からの独立とともに、母国語による学術の教授という意味があるそうだ。それは、明治初期には外国語によらなければ高尚な学術の教授は不可能とする通念があったからのようである。
1902(明治35)年9月 東京専門学校を大学組織に改め、早稲田大学と呼ぶ。又大学部と専門部を新設し、大学部に政治経済学科、法学科、 文学科を設置。1903(明治36) 年、高等師範部創設(現在の教育学部の母体) 。この年、早慶野球戦開始 。1904(明治37)年、 専門学校令による大学となり、大学部に商科を設置 。
1907(明治40年)、東京専門学校では開校以来、校長が学校を代表していたが、校長・学監(校長の補佐役)制を廃止して、総長・学長制を新設し、大隈重信が初代総長、高田早苗が学長となる。 創立25周年記念式典を行い校歌を制定する。
そして、1920(大正 9) 年、大学令による大学となり、政治経済学部、法学部、文学部、商学部、理工学部、大学院を設置。 早稲田高等学院も設置。戦後、1949(昭和24)年の学制改革により新制大学となり、新制早稲田大学11学部開校。新制早稲田大学高等学院開校となる。以上、東京専門学校開校から、1949(昭和24)年の学制改革により新制大学となるまでの経緯を簡単に書いたが、以降現代までの詳しいことは、以下参考の早稲田大学公式HPを見てください。
しかし、「明治14年の政変」によって追放されるように参議を辞任後、翌年 3月に立憲改進党を結成するが、その半年後の10月に、東京専門学校を開校している。大隈にとって、この学校開設の真の狙いは何だったのか?
明治14年の政変による大隈の追放については「大隈の追放」を、東京専門学校の誕生については、「東京専門学校の誕生」を見られると、誕生の経緯などが分かるだろう。又、明治の時代に大学設立に対する当時の政府の考え方などについては、以下参考の「大学教育と”官尊民卑” - 戦前の私立大学の名称に関連して -」を読むと凡そのことが理解できるだろうし、違った観点からこの経緯を見ようとする場合、以下参考に記載の「教育の原点を考える: 『明治14年の政変』」など参考にするとよいであろう。
早稲田大学の学風およびその特色は、創立者である大隈重信が「在野の精神」を唱えたことから一般に大学受験業界やマスメディアからは「リベラルな校風」という評価をされることが多いようだ。
しかし、今日のブログに、この記事を選んだ理由は、今年の夏の高校野球での、早稲田実業学校の活躍と優勝が、凄く印象的であったからである。
ご存知早稲田実業学校 の正式名称は「早稲田大学系属早稲田実業学校」、略称は「早実(そうじつ)」、であり、読んで字のごとく、早稲田大学系属校 3校の中の1校である(他に早稲田中・高等学校、 早稲田渋谷シンガポール)。1901(明治34)年に、早稲田大学の創立者である大隈重信の教育理念を実現し、その建学精神に基づいた中等教育をめざして大隈重信の周囲の者達により設立された。初代校長は大隈英麿。現在の理事長も早稲田大学総長の白井克彦(2006年08月現在)である。 早稲田実業野球部は、甲子園に計45回出場。(選抜18回・選手権27回)斉藤佑樹投手の大活躍で37年ぶりに初優勝を果たした。この早稲田実業学校優勝の話は、長くなるので、又次の機会に譲ることにするが、甲子園では、この早実の白熱したゲームを必至に応援するスタンドの応援団の応援歌!「紺碧の空」の大合唱が響き渡った。
「紺碧の空 仰ぐ日輪 光輝あまねき 伝統のもと すぐりし精鋭 闘志 は燃えて 理想の王座を占むる者 われ等 早稲田 早稲田 覇者 覇者 早稲田♪♪.」
「紺碧の空」は、1931(昭和6)年8月に制定された早稲田大学の第一応援歌である。
ここに→紺碧の空の原文がある。
作詞は住治男、作曲は古関裕而。当時、早慶戦で連勝していた慶應義塾の応援歌「若き血」に対抗するための応援歌として誕生したものだとか。慶應義塾の応援歌が誕生したシーズンに初めてラジオで早慶戦の実況放送が行われ、早稲田を神宮球場で連覇。慶應義塾の応援歌「若き血」はとってもいい曲だものな~。早稲田としては悔しかっただろう。しかし、古関裕而も紺碧の空が出世作となり、次々とヒット曲を飛ばし続けて音楽界の寵児と騒がれることになった。
早稲田と慶応との野球、早慶戦は日本国内の大学野球ファンの間では知らぬものはないほど有名だが、早稲田・慶応両校の初の対戦は1903(明治36)年11月21日、三田綱町球場にて行われた。早稲田が先輩格の慶應に「挑戦状」を送達した事によって行われた試合である。試合は11-9で慶應の勝利。翌1904(明治37)年、当時学生野球王者と謳われた第一高等学校野球部に早慶両校が勝利すると、早慶戦は学生野球の頂点を争う試合として衆目を集めた。翌1905(明治38)年に早稲田は初の海外遠征を強行、多くの野球技術・慣習を日本に持ち帰った。勝ち点制もその一つであり、その年の早慶戦から、先に2勝したものに優勝杯を授与することとなった。これが現在の大学野球リーグの多くに適用される勝ち点制の礎となった。 かくて早慶両校は球界の頂点を争う存在となったが、それは同時に応援合戦の過熱も招き、1906(明治39)年秋、第1戦に勝利した慶應の学生が大隈重信邸・早大正門で万歳を行えば、第2戦に勝利した早稲田の学生も福沢諭吉邸・慶大正門に大挙して万歳三唱を行うなど、両校応援団は一触即発となる。更なる状況悪化を危惧した両校は翌第3戦を中止、以後早慶戦は長い空白期間に入る。その後の紆余曲折を経て、 1925(大正14)年の秋、東京六大学リーグができ、早慶戦も再開された。これが東京六大学野球の始まりであるが、早慶両校の白熱した試合ぶりが全国に広まり、そのことから全国に野球が広まり、東京六大学リーグができ、日本の野球の人気が始まったと言っても過言ではないだろう。早慶戦は野球発展の礎を築いたということで敬意を表され、東京六大学リーグの最後の週に、単独で行われている。今にも残る早慶両校のライバル意識の原点は、この早慶戦にあるといえる。又、漕艇部が毎年春に出場する早慶レガッタは、世界三大レガッタに数えられている。
早慶戦 については以下を見ると詳しい。早慶戦 Wikipedia (ウィキペディア) 記事検索 - goo ↓
http://wpedia.search.goo.ne.jp/search/%C1%E1%B7%C4%C0%EF/detail.html?LINK=1&kind=epedia
早稲田には、校歌「都の西北」、応援歌「紺碧の空」のほか、学生歌・応援歌として「早稲田の栄光」、「早稲田健児」、「精悍若き」、「えんじの唄」、「ひかる青雲」、「永遠なるみどり」、「吼えろ早稲田の獅子」、「ビバ・ワセダ」、「Blue sky WASEDA」、「仰げよ荘厳」、「人生劇場」などが知られ、スポーツの応援などでは欠かせないものとなっている。また、ラグビー蹴球部には「荒ぶる」という第二部歌があり、大学選手権に優勝した時のみ歌うことのできる特別な歌となっている。これらの試合での応援合戦も見もの?である。兎に角、歌の好きな大学である。 以下では、そんな早稲田の応援歌をを紹介しているよ。
早稲田大学校歌・応援歌紹介→http://www.w-ouen.com/ouenka.htm
先の甲子園での優勝決定戦での早稲田実業学校の斉藤投手と、駒大 苫小牧の田中投手の2人の凄まじい投手戦であり、手に汗握る大熱戦!であった。結果として、早実の斉藤投手が勝ったが、それは、あくまで結果であって、田中投手も同様にすばらしい投手であり、これからは、大学へ進学するのかプロに入るのか?2人の去就が注目の的である。どちらも、プロに入って通用する逸材である。しかし、私流の見方からすれば、斉藤投手が早稲田に入り、田中投手が慶応に入ってくれたなら、来年からの東京六大学野球はものすごくフィーバーするだろう。そして、その4年後この2人が揃ってプロに入ったら、それこそ、今低迷しているプロ野球は、かっての人気を取り戻せるだろう。・・・でも、2人が、揃って大学に入り、六大学野球がフィーバーしたら、ギャルはプロ野球見なくなってしまうかもしれないね~。
昔は六大学の結果が新聞のスポーツ欄をほとんど占めていて、プロ野球の記事は隅の方にちょこっと載ってるだけだったようだから、又、そのような事になると心配している人もいるかもね。(^0^)。
(画像姜範錫著『明治14年の政変 大隈重信一派が挑んだもの』朝日選書)
参考:
早稲田大学ーWikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A9%E7%A8%B2%E7%94%B0%E5%A4%A7%E5%AD%A6
早稲田大学公式HP
http://www.waseda.jp/top/index-j.html
東京専門学校
http://www.tabiken.com/history/doc/M/M322C100.HTM
大学令
http://www.tabiken.com/history/doc/L/L040R100.HTM
明治十四年の政変 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%B2%BB14%E5%B9%B4%E3%81%AE%E6%94%BF%E5%A4%89
大隈重信 おおくましげのぶ
http://www.tabiken.com/history/doc/C/C195R100.HTM
明治14年の政変
http://www.tabiken.com/history/doc/S/S081L100.HTM
中野文庫 - 大学令
http://www.geocities.jp/nakanolib/rei/rt07-388.htm
中野文庫 - 帝国大学令
http://www.geocities.jp/nakanolib/rei/rm19-3.htm
大学教育と「官尊民卑」 - 戦前の私立大学の名称に関連して -
http://osaka.cool.ne.jp/kohoken/lib/khk122a2.htm
教育の原点を考える: 『明治14年の政変』
http://pro.cocolog-tcom.com/edu/2005/07/post_a6bb.html
明治14年の政変 | 史料にみる日本の近代
http://www.ndl.go.jp/modern/cha2/description03.html
早稲田実業学校 第88回全国高等学校野球選手権大会
http://park21.wakwak.com/~wasedajg/
早稲田大学校歌・応援歌紹介
http://www.w-ouen.com/ouenka.htm
慶應義塾応援歌「若き血」
http://www.keio.ac.jp/kiku/wakakichi.htm
早慶戦 Wikipedia (ウィキペディア) 記事検索 - goo
http://wpedia.search.goo.ne.jp/search/%C1%E1%B7%C4%C0%EF/detail.html?LINK=1&kind=epedia
東京六大学野球連盟ホームページ
http://www.big6.gr.jp/
早稲田大学は、東京都に本部を置く日本の私立大学で、略称は早大。1882(明治14)年に大隈重信が創立した東京専門学校が前身。
1881(明治14)年国会開設問題について、伊藤博文と意見が合わず対立していた大隈重信は、その後の 政変によって追放され、参議を辞任。 翌1881(明治14)年 3月 立憲改進党を結成、その総理となる。 大隈は、小野梓にはかり、小野の傘下にある高田早苗,天野為之,市島謙吉ら鴎渡会の青年たちの参加を得て、半年後の1882(明治15)年10月当時大隈の別邸があった南豊島郡下戸塚村の早稲田に、洋風木造2階建の3棟の新校舎で開校した。入学生80名だったそうだ。初代校長には大隈の養嗣子大隈英麿が就任。開校式には大隈校長の開校宣言、ついで天野の演説,成島柳北の祝辞ののち、小野が同校設立の抱負を述べ、”学問の独立”こそが国民精神の独立、一国の独立の基本理念であることを強調したという。その小野の言う“学問の独立”とは、政治からの独立とともに、母国語による学術の教授という意味があるそうだ。それは、明治初期には外国語によらなければ高尚な学術の教授は不可能とする通念があったからのようである。
1902(明治35)年9月 東京専門学校を大学組織に改め、早稲田大学と呼ぶ。又大学部と専門部を新設し、大学部に政治経済学科、法学科、 文学科を設置。1903(明治36) 年、高等師範部創設(現在の教育学部の母体) 。この年、早慶野球戦開始 。1904(明治37)年、 専門学校令による大学となり、大学部に商科を設置 。
1907(明治40年)、東京専門学校では開校以来、校長が学校を代表していたが、校長・学監(校長の補佐役)制を廃止して、総長・学長制を新設し、大隈重信が初代総長、高田早苗が学長となる。 創立25周年記念式典を行い校歌を制定する。
そして、1920(大正 9) 年、大学令による大学となり、政治経済学部、法学部、文学部、商学部、理工学部、大学院を設置。 早稲田高等学院も設置。戦後、1949(昭和24)年の学制改革により新制大学となり、新制早稲田大学11学部開校。新制早稲田大学高等学院開校となる。以上、東京専門学校開校から、1949(昭和24)年の学制改革により新制大学となるまでの経緯を簡単に書いたが、以降現代までの詳しいことは、以下参考の早稲田大学公式HPを見てください。
しかし、「明治14年の政変」によって追放されるように参議を辞任後、翌年 3月に立憲改進党を結成するが、その半年後の10月に、東京専門学校を開校している。大隈にとって、この学校開設の真の狙いは何だったのか?
明治14年の政変による大隈の追放については「大隈の追放」を、東京専門学校の誕生については、「東京専門学校の誕生」を見られると、誕生の経緯などが分かるだろう。又、明治の時代に大学設立に対する当時の政府の考え方などについては、以下参考の「大学教育と”官尊民卑” - 戦前の私立大学の名称に関連して -」を読むと凡そのことが理解できるだろうし、違った観点からこの経緯を見ようとする場合、以下参考に記載の「教育の原点を考える: 『明治14年の政変』」など参考にするとよいであろう。
早稲田大学の学風およびその特色は、創立者である大隈重信が「在野の精神」を唱えたことから一般に大学受験業界やマスメディアからは「リベラルな校風」という評価をされることが多いようだ。
しかし、今日のブログに、この記事を選んだ理由は、今年の夏の高校野球での、早稲田実業学校の活躍と優勝が、凄く印象的であったからである。
ご存知早稲田実業学校 の正式名称は「早稲田大学系属早稲田実業学校」、略称は「早実(そうじつ)」、であり、読んで字のごとく、早稲田大学系属校 3校の中の1校である(他に早稲田中・高等学校、 早稲田渋谷シンガポール)。1901(明治34)年に、早稲田大学の創立者である大隈重信の教育理念を実現し、その建学精神に基づいた中等教育をめざして大隈重信の周囲の者達により設立された。初代校長は大隈英麿。現在の理事長も早稲田大学総長の白井克彦(2006年08月現在)である。 早稲田実業野球部は、甲子園に計45回出場。(選抜18回・選手権27回)斉藤佑樹投手の大活躍で37年ぶりに初優勝を果たした。この早稲田実業学校優勝の話は、長くなるので、又次の機会に譲ることにするが、甲子園では、この早実の白熱したゲームを必至に応援するスタンドの応援団の応援歌!「紺碧の空」の大合唱が響き渡った。
「紺碧の空 仰ぐ日輪 光輝あまねき 伝統のもと すぐりし精鋭 闘志 は燃えて 理想の王座を占むる者 われ等 早稲田 早稲田 覇者 覇者 早稲田♪♪.」
「紺碧の空」は、1931(昭和6)年8月に制定された早稲田大学の第一応援歌である。
ここに→紺碧の空の原文がある。
作詞は住治男、作曲は古関裕而。当時、早慶戦で連勝していた慶應義塾の応援歌「若き血」に対抗するための応援歌として誕生したものだとか。慶應義塾の応援歌が誕生したシーズンに初めてラジオで早慶戦の実況放送が行われ、早稲田を神宮球場で連覇。慶應義塾の応援歌「若き血」はとってもいい曲だものな~。早稲田としては悔しかっただろう。しかし、古関裕而も紺碧の空が出世作となり、次々とヒット曲を飛ばし続けて音楽界の寵児と騒がれることになった。
早稲田と慶応との野球、早慶戦は日本国内の大学野球ファンの間では知らぬものはないほど有名だが、早稲田・慶応両校の初の対戦は1903(明治36)年11月21日、三田綱町球場にて行われた。早稲田が先輩格の慶應に「挑戦状」を送達した事によって行われた試合である。試合は11-9で慶應の勝利。翌1904(明治37)年、当時学生野球王者と謳われた第一高等学校野球部に早慶両校が勝利すると、早慶戦は学生野球の頂点を争う試合として衆目を集めた。翌1905(明治38)年に早稲田は初の海外遠征を強行、多くの野球技術・慣習を日本に持ち帰った。勝ち点制もその一つであり、その年の早慶戦から、先に2勝したものに優勝杯を授与することとなった。これが現在の大学野球リーグの多くに適用される勝ち点制の礎となった。 かくて早慶両校は球界の頂点を争う存在となったが、それは同時に応援合戦の過熱も招き、1906(明治39)年秋、第1戦に勝利した慶應の学生が大隈重信邸・早大正門で万歳を行えば、第2戦に勝利した早稲田の学生も福沢諭吉邸・慶大正門に大挙して万歳三唱を行うなど、両校応援団は一触即発となる。更なる状況悪化を危惧した両校は翌第3戦を中止、以後早慶戦は長い空白期間に入る。その後の紆余曲折を経て、 1925(大正14)年の秋、東京六大学リーグができ、早慶戦も再開された。これが東京六大学野球の始まりであるが、早慶両校の白熱した試合ぶりが全国に広まり、そのことから全国に野球が広まり、東京六大学リーグができ、日本の野球の人気が始まったと言っても過言ではないだろう。早慶戦は野球発展の礎を築いたということで敬意を表され、東京六大学リーグの最後の週に、単独で行われている。今にも残る早慶両校のライバル意識の原点は、この早慶戦にあるといえる。又、漕艇部が毎年春に出場する早慶レガッタは、世界三大レガッタに数えられている。
早慶戦 については以下を見ると詳しい。早慶戦 Wikipedia (ウィキペディア) 記事検索 - goo ↓
http://wpedia.search.goo.ne.jp/search/%C1%E1%B7%C4%C0%EF/detail.html?LINK=1&kind=epedia
早稲田には、校歌「都の西北」、応援歌「紺碧の空」のほか、学生歌・応援歌として「早稲田の栄光」、「早稲田健児」、「精悍若き」、「えんじの唄」、「ひかる青雲」、「永遠なるみどり」、「吼えろ早稲田の獅子」、「ビバ・ワセダ」、「Blue sky WASEDA」、「仰げよ荘厳」、「人生劇場」などが知られ、スポーツの応援などでは欠かせないものとなっている。また、ラグビー蹴球部には「荒ぶる」という第二部歌があり、大学選手権に優勝した時のみ歌うことのできる特別な歌となっている。これらの試合での応援合戦も見もの?である。兎に角、歌の好きな大学である。 以下では、そんな早稲田の応援歌をを紹介しているよ。
早稲田大学校歌・応援歌紹介→http://www.w-ouen.com/ouenka.htm
先の甲子園での優勝決定戦での早稲田実業学校の斉藤投手と、駒大 苫小牧の田中投手の2人の凄まじい投手戦であり、手に汗握る大熱戦!であった。結果として、早実の斉藤投手が勝ったが、それは、あくまで結果であって、田中投手も同様にすばらしい投手であり、これからは、大学へ進学するのかプロに入るのか?2人の去就が注目の的である。どちらも、プロに入って通用する逸材である。しかし、私流の見方からすれば、斉藤投手が早稲田に入り、田中投手が慶応に入ってくれたなら、来年からの東京六大学野球はものすごくフィーバーするだろう。そして、その4年後この2人が揃ってプロに入ったら、それこそ、今低迷しているプロ野球は、かっての人気を取り戻せるだろう。・・・でも、2人が、揃って大学に入り、六大学野球がフィーバーしたら、ギャルはプロ野球見なくなってしまうかもしれないね~。
昔は六大学の結果が新聞のスポーツ欄をほとんど占めていて、プロ野球の記事は隅の方にちょこっと載ってるだけだったようだから、又、そのような事になると心配している人もいるかもね。(^0^)。
(画像姜範錫著『明治14年の政変 大隈重信一派が挑んだもの』朝日選書)
参考:
早稲田大学ーWikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A9%E7%A8%B2%E7%94%B0%E5%A4%A7%E5%AD%A6
早稲田大学公式HP
http://www.waseda.jp/top/index-j.html
東京専門学校
http://www.tabiken.com/history/doc/M/M322C100.HTM
大学令
http://www.tabiken.com/history/doc/L/L040R100.HTM
明治十四年の政変 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%B2%BB14%E5%B9%B4%E3%81%AE%E6%94%BF%E5%A4%89
大隈重信 おおくましげのぶ
http://www.tabiken.com/history/doc/C/C195R100.HTM
明治14年の政変
http://www.tabiken.com/history/doc/S/S081L100.HTM
中野文庫 - 大学令
http://www.geocities.jp/nakanolib/rei/rt07-388.htm
中野文庫 - 帝国大学令
http://www.geocities.jp/nakanolib/rei/rm19-3.htm
大学教育と「官尊民卑」 - 戦前の私立大学の名称に関連して -
http://osaka.cool.ne.jp/kohoken/lib/khk122a2.htm
教育の原点を考える: 『明治14年の政変』
http://pro.cocolog-tcom.com/edu/2005/07/post_a6bb.html
明治14年の政変 | 史料にみる日本の近代
http://www.ndl.go.jp/modern/cha2/description03.html
早稲田実業学校 第88回全国高等学校野球選手権大会
http://park21.wakwak.com/~wasedajg/
早稲田大学校歌・応援歌紹介
http://www.w-ouen.com/ouenka.htm
慶應義塾応援歌「若き血」
http://www.keio.ac.jp/kiku/wakakichi.htm
早慶戦 Wikipedia (ウィキペディア) 記事検索 - goo
http://wpedia.search.goo.ne.jp/search/%C1%E1%B7%C4%C0%EF/detail.html?LINK=1&kind=epedia
東京六大学野球連盟ホームページ
http://www.big6.gr.jp/
早慶戦は人気がありましたね。合わせだの安藤投手の時代だったでしょうか、7試合やったことがあったような記憶があります。定かではありませんが。
田中投手が慶応に入って早稲田の斉藤投手と投げ合い、楽しみですが、今の慶応では入れないのではないでしょうか。幾ら野球で選手を採ると言っても平古場投手の時代とは違っていますから。平古場投手は浪商から慶応に入りましたがONEをオネと読むような学力だったそうですね。