今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

森有礼が日本で初めて、夫婦同権などを交わした契約結婚をした日

2016-02-06 | 歴史
1875(明治八)年の今日・2月6日は、外交官・森有礼(もり ありのり)が日本で初めて、夫婦同権などの契約書を交わす西洋式の結婚式を挙行した日である。

ハイカラ風俗のそこから下って来た山の高嶺――欧化(思想や風習などがの西欧風化)の絶頂――が「鹿鳴館」にあることは衆知のところだが、そこに有名な仮装舞踏会のあったのが明治二十年(1887年)四月(*1参照)で、それから二年経つと、明治二十二年(1889年)二月十一日を期して憲法(大日本帝国憲法)が発布された。
 その朝のことだった。雪が降っていたが――この雪はやがて晴れて、道は冷たく、数万の人出に、往来は夜になると至るところコチコチに踏みかためられたという――文部大臣の森有礼がまだ降りやまない雪の中を、参賀に出ようとすると、あっという間に刺客の手にかかって、やられてしまった。
 森は欧化論(欧化主義)の急進であったが、かねがねそれから来る言動が刺客を招くことになったので、とうに明治八年(1875年)の古きに、斬新無類の結婚式をやってのけて、世人の意表に出ている人。それは結婚式と云おうより結婚宣誓式ともいうべきもので、「紀元二千五百三十五年二月六日、即今東京府知事職ニ在ル大久保一翁ノ面前ニ於テ」という誓文の書出しで、別に「証人」として福沢諭吉を立て、当日は自宅の門前に「俗ニ西洋飾リノ門松ト詠フル如ク緑葉ヲ以テ柱ヲ飾リ」、つまりアーチをこしらえて、国旗を立て、提灯を列ね、「……今晩ノいるみねえしよんノ支度ト見エタリ」
 ここに引用している「」の中の文章は、明治八年二月七日の日日新聞の記事であるが、明治八年にして新聞紙上にイルミネーションと綴らせたのも桁外れならば、いわんやそれを「自宅」に点じたに至って、――ハイカラの張本人ここにありと云わなければならない。
 面白いのはこの日の「月下氷人」(*2参照)格の府知事大久保一翁で、この人はかねて大の刀剣通の、その蒐集する刀の蔵い場に頭を悩めたあげく、束にして四斗樽に刀身を何本も差して、そのぎっしり日本刀のささった樽が、又、橡(つるばみ=クヌギの古名。和名抄、橡の例文ここ参照)の下に家中一杯だったという人である。「ハイカラ」とは一応対蹠的(たいしょてき。二つの物事が正反対の関係にあるさま。)な、江戸藩の名士である。――その古武士然たる人が、スコッチの猟銃服いかめしく身をかためて、森の結婚宣誓式へ乗り込み、中央に座を構えた。
 その時の模様を新聞は云う、「……此ノ盛式ハ東京知事ノ面前ニテ行フト有ル故ニ、大久保公ハ何処ニ御座ルカト見レドモ我輩ハ其顔ヲ知ラネバ何分ニモ見当ラズ、唯怪シムベキハ此正座ニ髭ガ生エタ猟師ヲ見タルノミ。」いずれも礼服揃いの満座の中にこの髭翁だけが「短カキ胴〆ノ附タル服ヲ着シ」とあって「早ク申サバ日本の股引(ももひき)半天(はんてん)ノ拵(そろ)ヘユヱ、連座ノ西洋人ハ勿論、日本人モ扨々(さてさて)失礼ヲ知ラヌぢぢい哉ト横目ニテじろりと睨メタリ。」ところがそれが知事様だと隣席のものに教えられて「我輩ガ考ヘニハ此失敬老人ガヨモヤ大久保公デハ有ルマイ。」公はやはり今席にはいないのであろう。もし万一にもこの猟服の髭翁が公なりとすれば、公は公儀お目附大目附の役も勤めた人であるから、これには余程の深い所存あっての服装だろう、――と大いにヒヤかしてある。
・・・、上記は、木村荘八の随筆『 ハイカラ考』(青空文庫掲載*3参照)からの抜粋であり、()内の注釈は私が付したものである。

一般的に、森 有礼(正字体:森有禮)は福澤諭吉らとともに明治維新期の蒙的思想家にして、政治家として知られている。近代国家・日本を作り上げるため、日本語廃止案をはじめ急激な国家改造に驀進した、初の文部大臣である。そんな、森 有礼が、木村荘八の随筆『ハイカラ考』にもあるように、当時としては奇抜ともいえる妻との契約結婚をし、また、憲法(<ahref= https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%B8%9D%E5%9B%BD%E6%86%B2%E6%B3%95 >大日本帝国憲法)発布の日になぜ刺殺されなければならなかったのか・・・。以下、そんな、森有礼と、当時の日本の状況を見てみゆきたい。

日本は、幕末の安政5年(1858年)に江戸幕府が米・英・仏・露・蘭の5ヵ国それぞれと結んだ条約「安政五カ国条約」(安政の仮条約とも)など欧米列強と締結していた不平等条約条約改正の実現のために、憲法などの法典編纂と並行して、日本の文化をヨーロッパ風にすることで彼らが国際法の適用対象として見なす文明国の一員であることを認めさせようとした。
その代表的な存在が1883(明治16)年に完成した洋風建築の鹿鳴館であり、煉瓦造2階建てで1階に大食堂、談話室、書籍室など、2階が舞踏室で3室開け放つと100坪ほどの広間になった。そこにはバーやビリヤードも設備されていた。
当時の外務卿(後の外務大臣)井上馨自らが鹿鳴館の主人役を務め、華族・政府高官・外交団を集めて夜会などの行事を日夜開いていた。

上掲の画像は鹿鳴館での舞踏会のようすを描いた錦絵「貴顕舞踏の略図」(楊洲周延画)
このような欧化政策のもと鹿鳴館を設置した背景には、井上は度々ヨーロッパを視察して、現地では日本人が「見た目」によって半未開の人種として実は「珍獣扱い」されているという事実に気づいていた。井上と伊藤博文らは日本人がこうした扱いから免れるようになるためには、欧米と同じ文化水準である事を海外に示さない限りはまともな外交交渉の相手としても認められないという事実に気づいたからのようだ。
しかし、一方、欧化政策を批判する国粋主義者は「嬌奢(きょうしゃ=おごり高ぶり)を競い淫逸(いんいつ)にいたる退廃的行事」として非難の声を挙げていた。また当時にあっては、日本の政府高官やその夫人でも欧米への留学や在外公館での勤務・在住経験のある日本人は、ごく一部(井上馨・武子夫妻や鍋島直大榮子夫妻、大山捨松など)にとどまり、その大部分は西欧式舞踏会におけるマナーやエチケットなどを知るす べもなく、物の食べ方、服の着方、舞踏の仕方などは、西欧人の目からは様にならないものだった。本人たちは真剣勝負だったが、試行するも錯誤ばかりが目立ち。西欧諸国の外交官もうわべでは連夜の舞踏会を楽しみながら、その書面や日記などにはこうした日本人を「滑稽」などと記して嘲笑していたようだ。また、ダンスを踊れる日本人女性が少なかったため、ダンスの訓練を受けた芸妓が舞踏会の「員数」として動員されていたことがジョルジュ・ビゴーの風刺画に描かれ(以下の画参照)、さらに高等女学校の生徒も動員されていたという(近藤富枝『鹿鳴館貴婦人考』講談社)。いずれも画像出展は以下参考の*4より。


鏡に映っているのは猿顔の紳士淑女、いくらうわべを繕っても猿真似と言いたいのだろう。

右:鹿鳴館の舞踏会・コントルダンスの合間.。しゃがんだり背をもたれるポーズでキセルをふかす「淑女」(実は芸者)の醜悪さを描いている。ビゴーは「お里が知れる」と批判しているそうだ。風刺画にある「名摩行」は「なまいき」のこと。
(いずれも、清水勲『ビゴーが見た日本人』講談社学術文庫。風刺雑誌『トバエ』』に掲載されたもの)、
下の画は、 撞球(ビリヤード)をしているところを描いたもの。これも女性は芸者だろう。ソファーには、丸に十のマークが見られるが、寝そべっている行儀の悪い人は、初代文部大臣森有礼を描いているといわれているそうだが・・・。


井上の鹿鳴館外交への風当たりは次第に厳しいものとなり、さらに条約改正案の内容(外国人判事の任用など)が世間に知られると、大反対が起こった(*5参照)。面目を失した井上は1887(明治20)年9月に外務大臣を辞任。欧化政策としての鹿鳴館時代はこうして井上とともにその歴史に一応の幕を下ろすことになった。

さて、肝心の森 有礼(正字体:森有禮)であるが、森は、弘化4年(1847年)、薩摩国鹿児島城下春日小路町(現在の鹿児島県鹿児島市春日町)で薩摩藩士の五男として生まれ、安政7年(1860年)頃より薩摩藩が設立した藩校である造士館で漢学を学び、元治元年(1864年)には、薩英戦争後の藩の近代化政策の一環として島津久光
が西洋式軍学や技術を専門に学ぶ洋学校として設けた「開成所」(1863年に江戸幕府が洋学教育研究機関として設けた同名の開成所とは異なる)に入学し、英学講義を受講する。
慶応元年(1865年)、薩摩藩の命による五代友厚ら3名の使節団・薩摩藩遣英使節団使節団とともに15名の秘密留学生(薩摩藩第一次英国留学生)の一人としてイギリスに密出国(このとき沢井鉄馬と変名している*6参照)し、すでに、長州藩から清国経由でヨーロッパに派遣されていた伊藤俊輔(博文)らの長州五傑とロンドンで会う。


画像は、幕末の薩摩英国留学生、前列左から2人目が森有礼(尚古集成館蔵、週刊朝日百貨日本の歴史96より)
その後、ロシアを旅行し、さらに親日派のローレンス・オリファントの誘いでアメリカにも渡り、オリファントの信奉する新興宗教家トマス・レイク・ハリスの教団と生活をともにし、キリスト教に深い関心を示した。また、アメリカの教科書を集める。明治維新後に帰国した森有礼は、富国強兵のためにはまずは人材育成が急務であり、「国民一人一人が知的に向上せねばならない」と考えていた。そして欧米で見聞してきた「学会」なるものを日本で初めて創立しようと考えた。
そして、「帝都(帝国の首都=帝都東京)下の名家」を召集するために西村茂樹に相談し、同士への呼びかけを始め、当時、27歳であった福澤諭吉を会長に推すも固辞され、森自身が初代社長に就任し、最初の定員は森、西村、福澤他西周西村茂樹中村正直加藤弘之津田真道箕作麟祥杉亨二箕作麟祥の10名で啓蒙活動(*7)を目的とした学社明六社を結成した。
名称の由来は明治6年(1873年)結成からきている。この学社は、機関誌『明六雑誌』を発刊して、当時の青年たちに大きな影響を与えた。
この明治6年という時期は近代日本の最初の大きなターニング・ポイント(転換期)であり、この年は「西郷隆盛征韓論に端を発した明治初期の一大政変(「明治6年の政変」。征韓論政変ともいう)がおこった年でもあった。
この年、当時岩倉使節団が欧米を巡回したその留守の初期明治政府をつくった留守政府の首脳であった西郷隆盛・板垣退助江藤新平後藤象二郎副島種臣rの5人の参議が、征韓論を主張。
これらの人は征韓論では「外征派」ともよばれていたが、この征韓論に対して、50名をこえる岩倉使節団には、その後の政界を牛耳る岩倉具視木戸孝允大久保利通・伊藤博文らを含めた「洋行派」(征韓論では「内治派」ともよばれた)がおり、この「洋行派」との激突が始まったが、森有礼は、これら洋行派をアメリカにいて“繋ぎ”の役割を担った人物でもあった(*8参照)。
結局、この留守派が欧米視察から帰国した洋行派の岩倉具視ら国際関係を配慮した慎重論に敗れ、新政府は分裂し、西郷らは下野した。これにより、明治政界は真ッ二つに割れた。
それが明治6年の政変であり、それがそのまま明治10年(1877年)の西南戦争にまで進む。西郷が死に(同年9月24日)、翌明治11年(1878年)5月14日、その西郷を死に追いやった大久保も暗殺されて死んだ(紀尾井坂の変)。明治維新とはこの二人の死までをさしている。そして、西南戦争以後、不平士族の反対運動は国会開設(ここ参照)や憲法(大日本帝国憲法)制定を要求する自由民権運動(第二段階)に移行してゆくのである。
この流れの中で見ると、明六社首謀者が森有礼であったのは、のちに伊藤博文によって森が最初の外務大輔(文部大臣)に任命(1878)されたことを勘定に入れると、はなはだ皮肉なことでもあったという(*8参照)。
福沢諭吉がつねに明六社と一定の距離をおこうとしていたようだが、それは、明治6年の政変で西郷は鹿児島に帰って私学校をつくって青年たちの指導にあたり、ちょっとした独立国づくりをめざしたのに対して、おなじく下野して土佐に帰った板垣が、立志社をつくってこれを民撰議院設立の建白をへて自由民権運動にもっていった対比に似て、森有礼のやり方と福沢のやり方には、どこか決定的な相違というものがあり、それは、福沢と森の教育の方法論を巡っての論争にも見られる。
福沢の論旨は『学問のすすめ』にも書かれている。森有礼は教育は国家の興廃に関わる一大事として「教育の官立為業」を説き、福沢諭吉はそれに異議を唱えて, 「国民一人ひとりが独立し繁栄して、はじめて国家も独立し繁栄する」という考えを示し「教育の私立為業」の大切さを説いている(*9参照)。
「明六社」の目標は、日本の文明化と西欧化にあったが、とりわけ森有礼の西欧化への姿勢は際立っていた。森は、国語を日本語ではなく、簡易英語に変えよという提案すら行った(*10参照)が米の言語学者、米人の文部省顧問、伊藤博文等の反対を受けあきらめたともいわれるが、なかでも『明六雑誌』に掲載された「妻妾論」(*11:「日本史史料集」の近代編7:戸籍~文明開化1062「森有礼の妻妾論」参照)は、日本で初めて男女の平等と夫婦の対等を主張したものとして有名であり、この論説は明治の言論界に衝撃を与え、男女同権をめぐる論争を引き起こし、しかも、森はこの考えを実践に移した。
森は、洋学教育を受けた開拓使女学校(札幌農学校を経、現:の北海道大学)出身の19歳の聡明な女性で、広瀬阿常(常)と婚約を取り交わした。常は幕臣広瀬秀雄の娘であったと言われている。
世間を驚かせたのは、明治8年(1875年)2月6日、京橋区木挽町の新築の洋館での洋風の結婚式で、以下参考の*12によると、当日は200名を超す参会者の前で、大久保一翁を立会人とし、夫婦対等の婚姻契約書が読み上げられ、証人に福沢諭吉がなり、両人と証人の署名で式は終わり、その後、別室で立食式のパーティーが催されたという。その契約書は以下の3条からなっている(*13より)。
第一条 自分以後森有礼は広瀬阿常を其妻とし、広瀬阿常は森有礼を其夫となすこと
第二条 為約の双方存命して、此約定を廃棄せざる間は共に余念なく相敬し相愛して、夫婦の道を守ること
第三条 有礼阿常夫妻の共有し又共有すべき品に就ては相方合意の上ならでは、他人の貸借或は売買の役を為さざること
右に掲ぐる所の約定を為し、一方犯すに於ては、他の一方是を官に訴へて相当の公裁を願うふことを得べし/明治八年二月六日

まだを囲うことが、上流武士社会や富裕な町人層では普通に行われていた、いわゆる蓄妾制が続いていた時代に妻となるものとの契約結婚など革新的ではあったが、如何にも西洋かぶれ、西洋通を鼻にかけたような行為は、世間に賛否両論の話題をまいたが、余り好意的には受け入れらなかったようで、翌日、東京日日新聞が、「森有礼のハイカラ結婚式」という見出しで、このありさまを皮肉交じりに伝えたことは先に書いた通りである。      
そして、この森有礼と広瀬常の婚約結婚を知り唖然とした女性がいた。鹿児島の森有礼の私塾(当時森有礼は鹿児島で英語を教えていた)で兄事し、慕って上京していた、森をてっきり婚約者と信じ込んでいた古市静子(*14の教育活動に生きた女性たち参照)である。これを知り、後の女医第1号で、親友の萩野吟子が義憤を感じ、森を訪ねて「これが女性尊重論者のなさり方ですか」と何詰。そして静子の女子師範卒までの学費を承諾させたという(アサヒクロニクル週刊20世紀004号)。
森有礼が現一橋大学の前身である私塾・商法講習所を銀座尾張町(現在の松坂屋のあたり)に開設したのも、同じ年(明治8年、1875年)の9月であった。
そして、政局も安定した明治18年(1885年)、第1次伊藤内閣の下で初代文部大臣に就任し、東京高等師範学校東京教育大学を経た、現在の筑波大学)を「教育の総本山」と称して改革を行うなど、日本における教育政策に携わるなど、学制改革を実施した。また、「良妻賢母教育」こそ国是とすべきであると声明。翌年それに基づく「生徒教導方要項」を全国の女学校高等女学校に配っている。
明治19年(1886年)には、学位令を発令し、日本における学位として大博士と博士の二等を定めたほか、教育令に代わる一連の「学校令」の公布に関与し様々な学校制度の整備に奔走 。
この年、妻の常と双方合意し「婚姻契約」を解除して離婚しているが、常夫人は「開明的すぎる森有礼についていけず、性格が弱くて不倫に走った」というような話があるようだが、『秋霖譜―森有礼とその妻』森本 貞子著に、実際には、離婚の理由は、広瀬夫人の実家に養子に入って義兄弟となった広瀬重雄(旧姓:藪重雄)が、自由党激派に属し、政府要人暗殺を企てた静岡事件 ( Category:自由民権運動の事件参照)に関与して罪人になったためである」・・・と書かれているようだ。詳しいことは参考*15:「森有礼夫人・広瀬常の謎」を読まれるとよい。
森は、常子と離婚した翌年に岩倉具視の五女寛子と再婚している。また、古市静子は、森と常子の「契約結婚」解消を遠く聞き、本郷東片町に駒込幼稚園(現:洗足うさぎ幼稚園)を創設した(*16参照)。
明治21年(1888年)森は、、伊藤博文の後任黒田清隆内閣でも留任し、文部大臣として学制改革を実施し、明治六大教育家に数えられているが、そんな森の人生は、意外なところで結末を迎える。
明治22年(1889年)2月11日、大日本帝国憲法が発布(公布)された(施行:明治23年=1890年11月29日)。アジアで近代憲法が制定されたのは日本が初めてであり、まさに国中がお祭り騒ぎとなった日のことである。
森も初代文部大臣として天皇臨席のもと宮中で催される「大日本帝国憲法発布式典」に参加するため官邸を出た所で、国粋主義者西野文太郎に短刀で脇腹を刺され、応急手当を受けるも傷が深く、翌日午前5時に死去した。まだ43歳だった。
殺人犯西野の犯行は、1887(明治20)年、森が各地で学事巡視するが三重県では伊勢神宮を参拝,この時、参拝時に不敬な態度をとったいわゆる「不敬事件」が引き金になったと見られている。

森文相が特に重視した教育政策の一つに地方視学政策がある。森文相は地方の教育を自ら視察して、しばしば講演や訓示を行ない、地方の教育を激励するとともにその指導監督に努めた。森文相の時代から教育の国家管理が強化されたが、政府が単に法令を定めてこれを実施するにとどまらず、地方の教育を直接に視察監督することの必要を認めていたためである。この観点から、文部省に視学部を設けて視学官を置き、(視学制度の強化拡充を図った(*17の森文相と諸学校令の公布参照)。
森は明治17年(1884年)ヨーロッパから帰国し、同年5月に参事院議官、文部省御用掛兼勤となった時から文部大臣時代の5年足らずの間に、10 日以上に及ぶ長期学事巡視を6 回実施している。そして、巡視の途次各地で知事・郡区長・学務委員・戸長・校長・教員等を集めて演説を行っている。
1887(明治20)年第4回目の「北陸・近畿地方(第3 地方部)」視学の際、11月26日津に到着し、翌27日市街の各学校を巡察し、三重県会議事堂で演説。28日松阪を経て午後山田へ着し、高等小学校巡視後、伊勢神宮を参拝して所謂「伊勢神宮不敬事件」が起こった(*18参照)。
このとき、
森文部大臣は、一般拝所で外套を着けたまま、つかつかと御幌(みとばり:白い幕)をステツキでかかげて内に入ろうとしたので、尾寺禰宜が 「これから内は皇族のほか入られません」と制止したところ「さうか」といつて退出した。また亀田主典(さかん)に「内宮(皇大神宮,のこと)と外宮(豊受大神宮のこと )はどう違ふか」と尋ねられ「御建物は同じです」 といった。内宮へも参拝する予定になっていたので、拝みに内院に入ろうとして制止せられて、 むつとしたのと二見の会合(二見浦で県下の教育者の集会があり講演することになっていた)の時刻は迫るし、御建物が同じなら内宮は止さうといった調子でそのまま二見へ行って一場の講演をした・・・
との文部省の事実調査に対して、地元宇治山田市在住の 大物議員の証言があるそうだ(19 参照)。
この証言通りであれば確かに非常識なことだとは思うが、これは、“捏造された事件”で、西野の懐中に所持していた斬奸状にはこのことが暗殺の理由として記されており、西野は、この無礼は神を冒涜し、皇室を蔑視したもので、立国の基礎を破り、国家を亡滅させるものである。よって斬殺する・・・とあるようだが、この不敬事件は後で、伊勢神宮の神官たちによるでっち上げ事件だったことが判明した。
その様なことをした理由の一つが、森が西洋かぶれのキリスト教徒であることのほか、伊勢神宮の発行する暦(神宮暦参照)の問題がある。森は、あれは学問上、大学が発行すべきものだと主張していたが神官たちにしてみれば、暦の発行権が無くなると、その売上を皆で分配するわけにもいかなくなる。経済的な大打撃である。・・といった理由からだというのである(*20参照)が・・・、その真実はよくわからない。
米国から帰って公議所議事取調べ係りになった森は帰国の翌年(明治2年)に廃刀令を出して武士の魂である刀を禁止した。 小武を捨てて、国防という視点から武を据える理論であるが、大反対に会う。士族の怒りは甚だしく暗殺の危険さえあったという。
彼は留学中にロシアに渡っている。当時、日本はロシアの脅威も感じていた。そして、帝国主義の時代の中にあって、日本の存立と発展を願い、西欧に倣い、西欧と競争することを求め続けた。
近代国家・日本を作り上げるため、日本語廃止案をはじめ急激な国家改造に驀進した初の文部大臣の姿勢が単なる欧化主義、欧米追随と誤って理解され、当時伊勢神宮造営掛であった西野も当時流れていた噂などを信じ、森を許せないと考え犯行に及んだのだろう。
西野のとった行動は世論を二分し、世間では西野に対しての同情も多く集まり、上野にある彼の墓は参拝者が絶えなかったという。 
今日の教育制度は森有礼がつくったものであり森は、明治六大教育家に数えられているが、彼の教育論は富国強兵の国家のための教育であって、国民のための教育ではなかった。それが今日でも引き継がれているのでは・・・との、疑問を呈す人もいるのだが・・・。さ~どうなんだろうか?


参考:
*1:首相官邸で伊藤博文主催による仮面舞踏会が開催された日 -今日のことあれこれと
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/9cca45f07a3d69be1c90bec5094a70d5
*2:月下氷人―中国故事物語
http://homepage1.nifty.com/kjf/China-koji/P-105.htm
*3:木村荘八 ハイカラ考 - 青空文庫
http://www.aozora.gr.jp/cards/001312/files/49301_33996.html
*4:フランスの風刺画家、ジョルジュ・ビゴーが見た日本人【明治時代】
http://matome.naver.jp/odai/2137904355726810601
*5:NHK高校講座 | 日本史 | 第29回 第4章 近代国家の形成と国民文化の発展
http://www.nhk.or.jp/kokokoza/tv/nihonshi/archive/resume029.html
*6:『初代文相 森有礼』 « 鹿児島県立図書館(本館)
https://www.library.pref.kagoshima.jp/honkan/?p=526
*7:明治啓蒙思想
http://homepage3.nifty.com/tanemura/re3_index/7M/me_meiji_keimo.html
*8:592夜『明六社の人びと』戸沢行夫|松岡正剛の千夜千冊 
https://1000ya.isis.ne.jp/0592.html    
*9:「明六社」 啓蒙思想について(Adobe PDF)
https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/bitstream/10291/8430/1/shakaikyouikushujika_1_1.pdf#search='%E6%95%99%E8%82%B2%E3%81%AE%E7%A7%81%E7%AB%8B%E7%82%BA%E6%A5%AD'
*10:国語外国語化論 - 一橋大学附属図書館
http://www.lib.hit-u.ac.jp/service/tenji/eu-lang/kokugo.html
*11:日本史史料集
http://chushingura.biz/p_nihonsi/siryo/ndx_box/ns_ndx.htm
*12:平成24年度学部卒業式における式辞「明六の有礼」(一橋大学 山内進)
http://www.hit-u.ac.jp/guide/message/130322.html
*13:日本史人物 迷言・毒舌集成:125 共に夫婦の道を守ること
http://hanasakesake.seesaa.net/article/421925271.html
*14:日本キリスト教女性史
http://www5e.biglobe.ne.jp/~BCM27946/index.html
*15;森有礼夫人・広瀬常の謎 後編上
http://blog.goo.ne.jp/onaraonara/e/b13ae36f0d94ee47d98431d90300cc1f
*16:現存する日本最古の私立幼稚園
http://stmnr.exblog.jp/24725358
*17:学制百年史―文部科学省
http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/others/detail/1317609.htm
*18:森有礼の学事巡視―その行程をめぐって―鎌田 佳子
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/rb/618/618PDF/kamada.pdf#search='1887%E5%B9%B4+%E6%A3%AE%E6%9C%89%E7%A4%BC+%E4%B8%89%E9%87%8D%E7%9C%8C+%E4%BC%8A%E5%8B%A2%E7%A5%9E%E5%AE%AE%E5%8F%82%E6%8B%9D++%E4%B8%8D%E6%95%AC%E4%BA%8B%E4%BB%B6'
*19:森有礼文相不敬・暗殺事件を考える・(警察思潮/昭和9年8月5日発行を読む)
http://senzenyomu.blog82.fc2.com/blog-entry-4.html
*20:非常の人――森有礼の生涯 第九章 凶刃に倒れる - 吉村書院
http://yoshimurashoin.blog.fc2.com/blog-entry-251.html
憲法関連ページの日本国憲法と大日本帝国憲法条文比較(たむたむホームページ)
http://tamutamu2011.kuronowish.com/kennpoujyoubunnhikaku.htm
森有礼【もりありのり】-日本史の雑学事典
http://www.jlogos.com/d013/14625051.html
たむたむホームページ
http://tamutamu2011.kuronowish.com/IRIGUTI.htm
良妻賢母と女性教育について
http://www.ulrich.moehwald.jp/Uni-Pictures/Semi/Lin.pdf#search='%E8%89%AF%E5%A6%BB%E8%B3%A2%E6%AF%8D%E6%95%99%E8%82%B2'




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