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陸軍省が戦意昂揚の為、「撃ちてし止まむ」のポスター5万枚を配布した日

2008-02-23 | 歴史
1943(昭和18)年の今日(2月23日) 陸軍省が戦意昂揚の為、「撃ちてし止まむ」のポスター5万枚を配布。
1937年(昭和12年)7月7日に始まった日中戦争支那事変)によって、日本の満州事変以来の軍国主義的膨張を警戒する英米仏と、日中戦争の長期化は欧米の対中支援のせいとする日本の関係は急速に悪化、アメリカ合衆国が航空機用燃料・鉄鋼資源の対日輸出を制限するなど、日本の締め上げが図られた。それでも中国から撤退しない日本は、ヨーロッパにおいて第二次世界大戦を繰り広げるドイツ・イタリアと1940(昭和15)年に日独伊三国軍事同盟を締結し、仏領インドシナへ進駐し事態を打開しようとするが、アメリカの石油輸出全面禁止などの激しい反発をさらに招いただけだった。その後数度にわたる日米交渉も難航し、アメリカは1941年(昭和16年)11月26日、ハル・ノートを日本側に提出した。これを最後通牒と受けた日本は、12月1日の御前会議で日米交渉の打ち切りと日米開戦を決定、択捉島からハワイ真珠湾へ向けて出撃していた帝国海軍連合艦隊に12月8日の戦闘行動開始命令が伝えら、日本がアメリカに宣戦布告し、太平洋戦争が始まった。1942(昭和17)年中盤までは、日本軍が優位に駒を進めていたが、1942(昭和17)年6月5日 ミッドウェー海戦(~7日)で日本軍は敗北このとき、日本海軍は主力航空母艦4隻とその全艦載機を喪失するという状況に至り、以降は連合軍が優勢に転じ、8月7日米軍の、ソロモン諸島のガダルカナル島、ツラギ島、ガブツ島、タナンボゴ島上陸により連合軍の本格的反攻始まり(ガダルカナル島の戦い)。1943年2月1日から7日、日本軍、ガダルカナル島撤退(ケ号作戦)。3月26日 アッツ島沖海戦。4月18日、連合艦隊司令長官山本五十六大将ブーゲンビル島上空で戦死(海軍甲事件)。5月には、学徒戦時動員体制の発表(学徒出陣)に至る。
1937(昭和12)年の日中戦争を契機に日本国内では次第に戦時色が強まり、わが国は国民総動員体制へと突入した。大本営発表は戦争に勇ましく勝ったときの情報ばかり流し、ガダルカナル島撤退の時も、その悲惨な敗戦の状況は国民には一切知らされず、アッツ島の玉砕も、政府は、「戦史に残る絶妙の転進」という言葉でごまかした。大本営も、負け戦を「敵に多大なる被害を与えるも我が方損害軽微」ですませ、圧倒的に敗戦した時はこれを隠蔽して発表しなかった。そのような中で、幾ら情報不足の国民も大本営発表の嘘、誇張、隠蔽に気付き始め、これは危ないと感じ始めた。そんな空気の中で、国中を駆け巡ったのが「撃ちてし止まむ」のスローガンだった。
出展は古事記神武東征の中に出てくる歌謡、「みつみつし 久米の子が 頭椎 石椎もち 撃ちてし止まむ 」に起源をもつ( この歌のことは、以下参考に記載の頭に※印の付いたものを参照されると良く判る)が、これが大々的にPRされたのが、1943(昭和18)年第38回陸軍記念日である。陸軍省は、この日に備え、2月23日に、5万部のポスターを全国に配り、当日一斉に掲げるよう支持した。この日のために、2月23日東京・有楽町の日劇ビル壁面には、約100畳の大きさの「撃ちてし止まむ」の大写真ポスターを掲げ、この日、多くの市民の見守る中陸軍軍楽隊が「愛国行進曲」などを演奏。唱和する場面もあったという。大画面の写真を撮影したのは、金丸重峯。二人の兵士が敵陣に突入する瞬間をとらえていて、悲壮感漂う迫力満点の出来栄え(この時の画像が冒頭に貼付のもの)。又、陸軍兵士が銃剣をかざして星条旗を踏みにじり敵陣に突入する絵のポスターは、画家宮本三郎が描いた。そして、「撃ちてし止まむ」は資生堂歯磨やマツダランプなど民間の広告にも盛んに使われるようになる。しかし、内閣情報局の指示で戦意高揚のスローガンの方を大きくし、自社の名や商品名を小さくしなくてはならなかった。この「献納広告」にしか、許可が下りなかったのだ。(朝日クロニクル「週刊20世紀」)。
1938(昭和13)年には国家総動員法が成立し国民は一致団結して、難局に立ち向かうことを求められていたが、更にこれ以降、国内では臨戦態勢が一段と強化されることになった。それはとりもなおさず自由な商業活動と消費の抑制、縮小を意味しており、広告もまた本来の機能と活動の場を失って冬の時代を迎えたのである。「献納広告」と言うのは広告主が新聞などのスペースを買い上げ自社の商品広告ではなく時局にあったメッセージを掲載するという臨戦体制下ならではの広告形態である。かつての華やかな嗜好品・贅沢品などの広告が姿を消し、広告の大半を日用品などが占めるようになった。
以下参考に記載の「日本の戦時債権昭和18年物(1943年)」では、先に紹介した「撃ちてし止まむ」のポスターを見ることが出来るよ。
日本の戦時債権昭和18年物(1943年)
http://f59.aaa.livedoor.jp/~bokujin/S18.html
1942(昭和17)年には米軍機による初めての東京空襲もあり、翌1943(昭和18)年10月には第1回学徒出陣が行われ、そして、1943(昭和19)年には国民総武装決起へと戦局はますます厳しさを増していったのである。
その後、統制経済が進み自由な商業活動は抑制されると、広告は冬の時代を迎える。そのような環境の下では、広告メッセージもまた、時局を反映した内容へと変わらざるを得なかったのである。そんな広告事情は以下を参考にされると良い。広告の時代の変遷が見れて面白いよ。
昭和の広告展[Ⅰ] モダンと激動の四半世紀 | アド・ミュージアム東京
http://www.admt.jp/exhibition/program/2007_showa1.html
(画像は、1943年2月23日、東京・有楽町に地劇ビル壁面に掲示された「撃ちてし止まむ」の大写真。朝日クロニクル「週刊20世紀」より。)
参考:
太平洋戦争の年表 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E5%B9%B3%E6%B4%8B%E6%88%A6%E4%BA%89%E3%81%AE%E5%B9%B4%E8%A1%A8
1943年 / クリック 20世紀
http://www.c20.jp/20c/1943.html
学徒戦時動員体制確立要綱 | 国立国会図書館-National Diet Library
http://www.ndl.go.jp/horei_jp/kakugi/txt/txt00479.htm
※日本神話 - Wikiquote
http://ja.wikiquote.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%A5%9E%E8%A9%B1
※橿原神宮の新嘗祭・久米舞(来目舞) その8
http://www3.kcn.ne.jp/~mamama/nara/event/niiname-Kasihara-08.htm
※千年の悦楽 一夜の彷徨: 『古事記』:久米と久米歌考:
http://saturniens.air-nifty.com/sennen/2006/09/post_5783.html
※古事記中巻
http://dokushin.hp.infoseek.co.jp/koji-m1.htm
※日本書紀 巻第三・神武天皇・弟磯城の帰順
http://www1.bbiq.jp/shinsisyuppan/nihonsyoki28.html
昭和の広告展[Ⅰ] モダンと激動の四半世紀 | アド・ミュージアム東京
http://www.admt.jp/exhibition/program/2007_showa1.html
ヌプンケシ54号
http://www.city.kitami.lg.jp/650-03/54/nupunkesi54.htm
日本の戦時債権
http://f59.aaa.livedoor.jp/~bokujin/index.html

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