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記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

終戦直後に、経済安定本部と物価庁が設置 された日

2007-08-12 | 歴史
終戦直後の1946年の今日(8月12日)、政府は、経済安定本部と物価庁を設置した。
経済安定本部とは、2001(平成13)年1月5日まで存在した日本の中央省庁の一つ経済企画庁の前身である。経済企画庁は、総理府外局として設置され、長期経済計画の策定、各省庁間の経済政策の調整、内外の経済動向に関する調査・分析、国民所得の調査等を所掌していた。
2001(平成13)年1月6日、中央省庁再編の実施に伴い総理府本府、沖縄開発庁などと統合され内閣府が発足、経済企画庁の業務は内閣府政策統括官、内閣府国民生活局などに承継されている。(国民生活局のことは以下参考に記載の国民生活政策ホームページ参照)
1945(昭和20)年8月14日、日本政府は連合国にポツダム宣言受諾を回答。翌8月15日、昭和天皇の終戦詔書がラジオで放送される(玉音放送)。この日が日本人にとっては第二次世界大戦終戦の日となる。同日鈴木貫太郎内閣総辞職。8月17日 、東久邇宮稔彦王が終戦処理内閣を組閣、最初で最後の皇族内閣(東久邇宮内閣)を成立させ、自ら総理と陸軍大臣を兼ねる。連合国に対する降伏文書の調印、陸海軍の解体、復員の処理を行い、一億総懺悔を唱えた。しかし、治安維持法の強化や国体護持をめぐって連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) と対立し、10月5日、歴代内閣在任最短期間の54日で総辞職した。10月9日 、幣原喜重郎内閣成立。本人は当時引退済みで、首相に指名されたことを嫌がって引っ越しの準備をしていたそうだが、昭和天皇じきじきの説得などもあり政界に返り咲いたといわれる。GHQの占領政策に基づき憲法草案を作るが、保守的な幣原の草案はGHQに拒否される。1946(昭和21)年4月10日の総選挙自由党が第一党になると、鳩山一郎総裁が首相の指名を待つばかりであったが、就任を目前にして戦前の統帥権問題を発生させたこと等をGHQが問題視したため、公職追放(1946年)となる(軍国主義台頭に協力したとの理由 ─ 統帥権滝川事件を参照)。鳩山の依頼により5月吉田茂が総裁に就任し、自由党・進歩党の連立により内閣を組閣した。(第1次吉田内閣成立。 旧憲法下の天皇組閣大命による最後の内閣)。GHQは吉田内閣に、荒廃した日本経済の安定を担わせた。1946(昭和21)年5月19日の食糧メーデーでは、「国体は護持された。朕はタラフク食っているぞ、ナンジ人民飢えて死ね。ギョメイギョジ」のプラカードを持った松島松太郎が不敬罪で起訴されるなどという事件のあったこの年は、都市には失業者があふれ、物価は高騰し、食糧は不足していた。1946(昭和21)年8月12日、GHQは経済を安定させるための機関として内閣の所属部局として経済安定本部を設置させた。 経済安定本部の長は総裁とし、内閣総理大臣(吉田首相)があたり、また、総裁のもとに総務長官を置き国務大臣を充てるものとした。また、吉田はこの経済安定本部参与に白洲次郎を任命した。
皆さんはこの白洲次郎を知っていますか。日本で最初にジーンズをはいたといわれる抜群のファッションセンスを備えた異色の男、白洲は、当時、日本で「一番カッコいい男」と評されていた人物であるが、彼のカッコ良さは単に、ファッションセンスの良さだけによるものではない。
1902(明治35)年、現・兵庫県芦屋市に白洲家の御曹司として生まれ。旧制第一神戸中学校(現、兵庫県立神戸高校)を卒業後、英国ケンブリッジ大学に留学。帰国後、日本食糧工業(後の日本水産)の取締役を務め、欧米通の商社マンとして活躍し、近衛文麿、吉田茂などの知遇を得ていた。その白洲が終戦後政治の場に登場するのは、吉田茂に乞われ、その側近として、終戦連絡事務局(終連)に参与に就任してからであった。終連とは、戦争終結に伴いGHQとの折衝を担当する機関としてGHQ要求文書(第3号別紙甲)に基づき、1945(昭和20)年8月26日に設置されたもので、間接統治を行ったGHQがその占領政策を実施するための指示を行う際に、日本政府側の窓口となった。
この終連は、先に述べた経済安定本部と並ぶ終戦直後期の最も重要な日本政府機関である。
白洲は、英国ケンブリッジ大学留学時代は走る宝石と謳われた名車ブガッティベントレーで欧州大陸を駆け巡り、英国紳士道を潤沢に吸い込んでいた。このため、アメリカ文化をイギリス移民の末裔、成金文明と見下ろす節があったという。日本人がアメリカ・コンプレックスに陥っていた時代、占領軍を相手にやりあう終連こそ白洲に格好の舞台なった。白洲は、日本の国情を無視して政治介入するGHQと、それを従順に受け入れる政府に反発。日本の尊厳を守った「自立」に自らを捧げる決意を固めた。
そして、ここから白洲のGHQを向こうに回しての戦いの火蓋が切られたのである。GHQに対して、当時の日本政府および日本人がとった従順過ぎる姿勢とは一線を画し、イギリス仕込みの流暢な英語とマナー、そして本人が元々持っていた押しの強さと原理原則(プリンシプル)を重視する性格から、主張すべきところは頑強に主張し、GHQ某要人をして「従順ならざる唯一の日本人」と言わせしめた。
終戦直後の9月29日、新聞の一面に、天皇陛下とマッカーサー司令官の二人が並んだ記念写真が掲載された。正装の天皇に対し、マッカーサーはノーネクタイの略装だった。
この写真は日本国民に衝撃を与えた。政府は直ちに新聞を発禁にしたが、GHQは発禁を解除したため、国民のだれもが敗戦を痛感した。そして、支配者が誰であるかも思い知らされたのである。そのような占領下で、白洲は昭和天皇からマッカーサーに対するクリスマスプレゼントを届けた時に、プレゼントがぞんざいに扱われたために憤激して「仮にも天皇陛下からの贈り物をその辺に置いてくれとは何事か!」と怒鳴りつけ、持ち帰ろうとしてマッカーサーを慌てさせ、マッカーサーは白洲に申し訳ないと謝ったという。
最初の大仕事は、新憲法制定あった。1946(昭和21)年8月経済安定本部次長となってGHQとの折衝の要となった白洲は、ワンマン首相吉田に讒言出来る唯一の側近でもあった。
GHQは経済安定のため、統制経済を要求したが、吉田は積極的ではなかった。しかし、1947(昭和22)年1月戦後のインフレの中、それに見合った賃金の要求が高まり、官公共闘は2月1日に史上空前のゼネストを宣言、吉田内閣打倒をめざした。政府は社会党右派のだきこみを図り、GHQもスト中止を勧告したが組合側は拒否、突入必至の情勢となった。しかし、大詰めの1月31日、マッカーサー元帥の命令でストは中止された。 しかし、GHQは、吉田内閣が真剣に統制経済をやらないことを知り、政権交代のための解散総選挙を促した。そして、4月に総選挙を実施の結果、社会党が第一党になり、吉田率いる自由党は第二党に転落。吉田内閣は退陣。白洲はこれを機に終連次長を退任。5月、総理庁の設置に伴い、経済安定本部は内閣所属部局から総理庁の機関に移行するが、経済安定本部も辞め再び野に下った。経済安定本部は通常、「安本(あんぽん)」と略称で呼ばれ、経済安定本部総務長官は「安本長官(あんぽんちょうかん)」と呼ばれた。
白洲は、マッカーサーの直々の指名で、1948(昭和23)年商工省に設立された貿易庁の初代長官に就任する。政府の管理貿易下、貿易の許認可をめぐる贈収賄事件が跡を絶たず、GHQ諜報部局と連携して不正を取り締まることに白洲起用の目的があったらしい。しかし、世間では逆にファイブパーセンター(5%のコミッションを要求する口利きや)などと陰口を叩かれた。(アサヒクロニクル「週刊20世紀」)次に手掛けた難題が商工省を改組し、通商産業省の設立であった。少資源国日本が生き残る道として、経済復興には産業政策を輸出主導型へ転換させる狙いであった、反対する商工省官僚・さらに対外交渉を主管する外務省出身の吉田をも説得。その政治力は、「白洲三百万力」といわれた。
1950(昭和25)年11月 電気事業再編成令・公益事業令公布に、基づく 電力事業再編に取り組んでいた白洲は、日本発送電株式会社の分割・解体に際しては、財界の多数意見を排し、翌昭和26年5月自らも(東北電力会長に就任。戦後処理が終わった後はあっさりと政界から身を引き 実業界へ復帰した。実業界へ復帰後は、1959(昭和34)年に退任するまで、精力的に動き福島県奥只見ダムなどの建設を推進した。東北電力退任後は、荒川水力発電会長、大沢商会会長、大洋漁業(現マルハ)、日本テレビ、ウォーバーグ証券の役員や顧問を歴任した。
80歳まで1968年型ポルシェ911Sを乗り回し、ゴルフに興じていたが、1985(昭和60)年11月に正子夫人(エッセイストの白洲正子)と伊賀・京都を旅行後、体調を崩し入院。同年11月28日死去した。正子夫人と子息に残した遺言書には「葬式無用 戒名不用」と記してあったそうだ。
彼の明言に「われわれは戦争に負けたのであって、奴隷になったのではない」 ・・・がある。彼の数々ある明言(名言集参照)の中でも、この言葉に、彼の気概を一番感じとれる。
敗戦後の占領下で、GHQと激しく対峙しながら、日本の早期独立と経済復興に、“歴史の黒子” として多大な功績を挙げた白洲の紳士の哲学“プリンシプル”を尊ぶイギリス仕込みのダンディズムは終生変わらなかった。彼のことは、昨2006(平成18)年4月にNHK番組「その時歴史が動いた」でも取り上げられた。 以下参照。
その時歴史が動いた -第248回・マッカーサーを叱った男 ~白洲次郎・戦後復興への挑戦~ ↓
http://www.nhk.or.jp/sonotoki/2006_04.html#01
日本人が、歴史上最も自信を喪失し卑屈になっていた時期、絶対的支配者に対して、日本人の気概を示した日本男児白州次郎。20世紀の日本にはこんなにも格好いい男がいたのだが・・・。今の時代このような男は、日本のどこを捜せばいるのだろうか???
強いものの前ではなにも言えず、いないところでは、好きなことを得意になって言っている馬鹿げた政治家はテレビなどで厭というほど見ているのだが・・・。今は自民党内で選挙でぼろ負けの首相の前で平気で首相退陣を迫っている人たちが映し出されていたが、これは、死に馬の足を引っ張るというもので、ちょっと、違うのじゃ~無いかな・・。
(画像は白洲次郎。Wikipediaより)
経済企画庁-Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%8C%E6%B8%88%E4%BC%81%E7%94%BB%E5%BA%81
国民生活政策ホームページ(内閣府国民生活局ホームページ)
http://www5.cao.go.jp/seikatsu/
[ザ・20世紀]
http://www001.upp.so-net.ne.jp/fukushi/year/index.html
白洲次郎 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E6%B4%B2%E6%AC%A1%E9%83%8E
その時歴史が動いた -第248回・マッカーサーを叱った男 ~白洲次郎・戦後復興への挑戦~
http://www.nhk.or.jp/sonotoki/2006_04.html#01
旧白洲邸 武相荘 Buaiso
http://www.buaiso.com/index.html

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