1968年の日本グランプリ決勝レースは5月3日、全周6キロメートルの富士スピードウェイで行われました。
レースの前評判は「TNT対決」、すなわち3リッターのトヨタ7を擁するTOYOTA、ニッサンR381・R380を大量7台エントリーしたニッサン(NISSAN)、そしてローラT70とポルシェカレラをエントリーしたプライベート参加のタキ(TAKI)・レーシングの三つ巴の戦いという評判でした。
結果から先に言うとシヴォレー5.5リッターエンジンを積んだニッサンR381(ドライバーは北野元選手)がその馬力に物を言わせてレースの四分の三ほどを首位で走って優勝し、また3位から6位までをニッサン勢が占めるという圧勝でした。
タキ・レーシングは2位に2リッターのポルシェ・カレラ10が、同じく7位にポルシェ・カレラ6が入り、トヨタ勢は大坪選手の8位が最高でした。
当時の雑誌記事を読むと、トヨタのクルマはニッサンと比べまだまだマシンとしての熟成が進んでいなかったと書いてあります。トヨタとニッサンが本格的な対決をするのは翌1969年の日本グランプリのことになります。
写真のカーナンバー2のトヨタ7は、福澤幸雄選手が運転して予選6位、決勝は一時2位まで順位を上げましたが59週目にマシントラブルでリタイア、総合14位に終わったマシンです(EBBRO製、1/43スケール)。
福澤幸雄選手は福澤諭吉のひ孫。
レーサーのかたわら、アパレルメーカーの取締役(トヨタチームの制服のデザインを担当していました)やモデルとしても活躍していた当時のトレンドリーダーのような存在で、まあ今でいう“イケメン”でした。某人気女性歌手の恋人でもあったのです。
残念ながら福澤選手は翌年の2月、テスト中に事故を起こし弱冠25歳の若さでこの世を去ってしまいます。
レースの前評判は「TNT対決」、すなわち3リッターのトヨタ7を擁するTOYOTA、ニッサンR381・R380を大量7台エントリーしたニッサン(NISSAN)、そしてローラT70とポルシェカレラをエントリーしたプライベート参加のタキ(TAKI)・レーシングの三つ巴の戦いという評判でした。
結果から先に言うとシヴォレー5.5リッターエンジンを積んだニッサンR381(ドライバーは北野元選手)がその馬力に物を言わせてレースの四分の三ほどを首位で走って優勝し、また3位から6位までをニッサン勢が占めるという圧勝でした。
タキ・レーシングは2位に2リッターのポルシェ・カレラ10が、同じく7位にポルシェ・カレラ6が入り、トヨタ勢は大坪選手の8位が最高でした。
当時の雑誌記事を読むと、トヨタのクルマはニッサンと比べまだまだマシンとしての熟成が進んでいなかったと書いてあります。トヨタとニッサンが本格的な対決をするのは翌1969年の日本グランプリのことになります。
写真のカーナンバー2のトヨタ7は、福澤幸雄選手が運転して予選6位、決勝は一時2位まで順位を上げましたが59週目にマシントラブルでリタイア、総合14位に終わったマシンです(EBBRO製、1/43スケール)。
福澤幸雄選手は福澤諭吉のひ孫。
レーサーのかたわら、アパレルメーカーの取締役(トヨタチームの制服のデザインを担当していました)やモデルとしても活躍していた当時のトレンドリーダーのような存在で、まあ今でいう“イケメン”でした。某人気女性歌手の恋人でもあったのです。
残念ながら福澤選手は翌年の2月、テスト中に事故を起こし弱冠25歳の若さでこの世を去ってしまいます。