3.和邇坐赤坂彦神社(わににいますあかさかひこじんじゃ)
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東大寺山古墳のあちこちに「和邇に坐ます赤坂彦神社」への案内標識が出ていた。
どうも気になって 案内のとおりに 炎天下の道を歩いたら和邇の集落に入ってしまった。
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この集落の奥に神社があると書いてある。しかし集落の中は迷路だった。
一軒の家のチャイムを押して教えていただいた。
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その神社は集落のはずれにあり、かなり大きな神社だった。
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拝殿も立派だ。
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拝殿から遠くに本殿が見えるが近づけない。
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神社の由緒が気など どこ名もないので 主祭神 を探していたら、とんでもないお方の名前が書いてあったので
びっくり仰天した。なんと「アタカタス」と書いてあるではないか。出雲王家の方なのだ。
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この神社の隣の敷地には子供広場があり、「富の森」と書いてありまたまたびっくり仰天だ。
登美家の名前は桜井市や天理市のあちこちに残されていて、登美家が色彩を行った「登美の祭場の山」は
もともと登美山と呼ばれていたが 現在は鳥見山(とみやま)とよばれていて 登美家の名残の残るそのひとつだ。
桜井市の宗像神社など「登美に坐ます宗像神社」と石碑に大きく書いてある。(宗像家ももちろん出雲王家の分家)
その他「とび」と言う地名が桜井市のあちこちに残る。
その富の森もその名残かもしれない。
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主祭神の天の児屋根とは春日大社の主祭神で鎌足や不比等などの藤原家の祭神とされる。
鎌足などどこの輩かわからないので どうせ後の世に作り上げたものだろう。
阿田賀田須は出雲王家大和分家の登美家第八代当主でその分家が和邇家の始まりと言われる。
つまりこの和邇の地の豪族和邇家の始まりが阿田賀田須なのである。
一方徐福(秦国からの渡来人で記紀ではスサノオと書かれた)の二度目の和国上陸後 后に迎えたのが
宇佐王家の宗像三姉妹の末娘市杵島姫である。
市杵島姫が生まれたホホデミ(穂穂出見)が九州物部家を起こし 物部王家は二度の東征の結果大和大王となるのである。
この姫の父君もまた 吾田片隅(あたかたす)とおっしゃり、この方は出雲王朝第六代主王の臣津野(おみつぬ)
の皇子で 九州宇佐に移住して 宗像家の始祖となられたのだ。
また最後のホムタワケ大王は宇佐八幡に祭られていて、この方はソツ彦とオキナガ姫のあいだに生まれたとされているが
実際はホムタワケ皇子は七歳で早世されたため オキナガ姫が親交のあった上毛野国国造家の竹葉瀬の君が
七歳なので急遽秘密裏に呼び寄せて 養子として育てホムタ大王として即位させられた。
オキナガ姫に跡継ぎがいなくなれば せっかく三韓征伐で毎年入ってくる莫大な税金が朝鮮から
入ってこなくなるからである。
竹葉瀬の君は豊玉姫の長男 豊来入彦(記紀では豊鍬入り彦とかウガヤ葺きあえずと書かれた)の子孫で
つまりは宇佐豊玉姫の子孫である。
豊玉姫は宇佐豊連合軍の東征で イニエ王亡き後君臨した皇后で 魏書に書かれた二番目のヒミコである。
豊玉姫は宇佐王家の姫なので死後宇佐八幡に祭られていたが、ホムタワケ大王の素性を知って一番喜んだのが
宇佐八幡と宇佐王家だという。
そこであわててオキナガ姫とホムタワケを祀る本殿を増築し、豊玉姫は二の御殿に移されたという。
※現在は二の御殿は 宗像三姉妹が祀られている。
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という事でもう一度 主祭神の表示を見てみると 春日大社の天の児屋根、宇佐八幡のホムタワケ
(八幡大神といわれている)と市杵島姫、そしてこの神社のアタカタスは和邇家の
始祖の阿田賀田須と思えるのである。
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4.石上神社(いそのかみじんじゃ)へ続く
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東大寺山古墳のあちこちに「和邇に坐ます赤坂彦神社」への案内標識が出ていた。
どうも気になって 案内のとおりに 炎天下の道を歩いたら和邇の集落に入ってしまった。
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この集落の奥に神社があると書いてある。しかし集落の中は迷路だった。
一軒の家のチャイムを押して教えていただいた。
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その神社は集落のはずれにあり、かなり大きな神社だった。
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拝殿も立派だ。
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拝殿から遠くに本殿が見えるが近づけない。
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神社の由緒が気など どこ名もないので 主祭神 を探していたら、とんでもないお方の名前が書いてあったので
びっくり仰天した。なんと「アタカタス」と書いてあるではないか。出雲王家の方なのだ。
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この神社の隣の敷地には子供広場があり、「富の森」と書いてありまたまたびっくり仰天だ。
登美家の名前は桜井市や天理市のあちこちに残されていて、登美家が色彩を行った「登美の祭場の山」は
もともと登美山と呼ばれていたが 現在は鳥見山(とみやま)とよばれていて 登美家の名残の残るそのひとつだ。
桜井市の宗像神社など「登美に坐ます宗像神社」と石碑に大きく書いてある。(宗像家ももちろん出雲王家の分家)
その他「とび」と言う地名が桜井市のあちこちに残る。
その富の森もその名残かもしれない。
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主祭神の天の児屋根とは春日大社の主祭神で鎌足や不比等などの藤原家の祭神とされる。
鎌足などどこの輩かわからないので どうせ後の世に作り上げたものだろう。
阿田賀田須は出雲王家大和分家の登美家第八代当主でその分家が和邇家の始まりと言われる。
つまりこの和邇の地の豪族和邇家の始まりが阿田賀田須なのである。
一方徐福(秦国からの渡来人で記紀ではスサノオと書かれた)の二度目の和国上陸後 后に迎えたのが
宇佐王家の宗像三姉妹の末娘市杵島姫である。
市杵島姫が生まれたホホデミ(穂穂出見)が九州物部家を起こし 物部王家は二度の東征の結果大和大王となるのである。
この姫の父君もまた 吾田片隅(あたかたす)とおっしゃり、この方は出雲王朝第六代主王の臣津野(おみつぬ)
の皇子で 九州宇佐に移住して 宗像家の始祖となられたのだ。
また最後のホムタワケ大王は宇佐八幡に祭られていて、この方はソツ彦とオキナガ姫のあいだに生まれたとされているが
実際はホムタワケ皇子は七歳で早世されたため オキナガ姫が親交のあった上毛野国国造家の竹葉瀬の君が
七歳なので急遽秘密裏に呼び寄せて 養子として育てホムタ大王として即位させられた。
オキナガ姫に跡継ぎがいなくなれば せっかく三韓征伐で毎年入ってくる莫大な税金が朝鮮から
入ってこなくなるからである。
竹葉瀬の君は豊玉姫の長男 豊来入彦(記紀では豊鍬入り彦とかウガヤ葺きあえずと書かれた)の子孫で
つまりは宇佐豊玉姫の子孫である。
豊玉姫は宇佐豊連合軍の東征で イニエ王亡き後君臨した皇后で 魏書に書かれた二番目のヒミコである。
豊玉姫は宇佐王家の姫なので死後宇佐八幡に祭られていたが、ホムタワケ大王の素性を知って一番喜んだのが
宇佐八幡と宇佐王家だという。
そこであわててオキナガ姫とホムタワケを祀る本殿を増築し、豊玉姫は二の御殿に移されたという。
※現在は二の御殿は 宗像三姉妹が祀られている。
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という事でもう一度 主祭神の表示を見てみると 春日大社の天の児屋根、宇佐八幡のホムタワケ
(八幡大神といわれている)と市杵島姫、そしてこの神社のアタカタスは和邇家の
始祖の阿田賀田須と思えるのである。
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4.石上神社(いそのかみじんじゃ)へ続く
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