怒りのブログ

憤りを言葉にせずになんとしようか。

「ダメ教師」の見分け方(ちくま新書)戸田忠雄

2005-08-23 23:43:11 | 教育書
おおよその主張は学校改革の中心を教師改革におき、教員を外部評価(藤田英典の言葉をかりれば、当事者評価)によって意識改革していこうというものであると思う。
当事者評価を学校運営に生かそうというねらいは決して的外れではないと思う。
しかし、戸田の学校(教師)イメージを極端なモデルを多様して説明しているように思えるため、抵抗を覚える。
しかも、この本のタイトルは内容から剥離していると思う。はっきりいってヘンだ。


いくつか批判点を述べたい。
一つ目。
戸田は言う。「小中学校の教師は井の中の蛙のようなもので、授業研究を唯一の口実に向上することをせず、型にはまった授業しかできないものが多い」(大意)と。
戸田が言うように、授業研究はなれ合いか?といえば、全くの誤解で、ましてや現場におもむいて教師の指導・助言を行っている佐藤学の言葉を引用し、これ(授業研究)が教師の独善を生むとしている。
対して、自分の行った教員向けの研修例は予備校の授業参観だけであったりするのだからお笑いである。
別に予備校の授業にけちをつけるつもりはなく、洗練された知識注入の形を学ぶには多いに利点はあるだろう。
しかし、これでは、教科書も含め外部評価にさらされているかどうかで質を問おうというような論調には甚だ疑問を感じる。
例えば教科書において、特に公教育では、最大公約数的にしぼり込んでいけばイデオロギーの縛りはほどけるかもしれない、しかし、ポピュリズムの台頭や「つくる会」の念の入った根回しなど、民主的に成熟していない市民社会において、決して単純にことは運ばないはずであるし、全国展開しようにもちょっと穴が多い施策だと思う。
また、戸田自身が述べているが、教育業界は採用即一人前である。
授業研究がもつOJTは非常に効果が高いし、そのことが教員の連携強化にも繋がったり、学校独自のカリキュラムに繋がっている例を考えると、一刀両断に切って捨てて良いのかと思う。戸田の良識を問いたい。

二つ目。
校長の権限強化についてだが、これをどのようにサポートするかで、その先に見える教育的な成果は異なってくるだろう。
本書では具体的に「学校公開」に的をしぼって説明がされている。これは教師の現実を白日にさらす機会であって、戸田のいう、「営業力」の強化にはなくてはならなかった施策であり、客観性の確保であろう。
今や「学校公開」などは日常化している時代であるので、情報公開の功利は地域協力への第一歩であるし有効であるのは自明である。
戸田の文章から受ける所感から、あるいは苅屋などの主張を参考にすれば、保護者の要望は「子どもへ学力」をつけてほしい。つまりは「学力」によって「階層間を飛び越えさせたい(あるいは高い層を維持したい)」ということであるから、自分達の地域で受けられる教育の質の向上は、「教科指導」を中心に語られることになる。
もちろん、教育の質の向上は「学力」だけでなく、「よい育み」も望まれているのだが、それも一重に自分の子どもの可能性を、現社会で生き抜くために必要な社会性を付加させる中で、向上させるための口実とも捉えられるのではないだろうか。
話をもどすが、ここではそういう風に要望をとらえて、学校を経営する「校長」という立場は、その独立性と権限をその責任のもとに保障されてしかるべきではあろうと考えている。これは校長が学校を経営するためのリーダーシップを確保するという意味では一理ある。
一方、ここで、戸田が管理職に昇進する障害も組合に原因を求めている。戸田のいう現実にあった学校世界ではこれも正当に成り立つ理屈に聞こえる。
しかし、私には、その障害を取り除いた上でも、全教員が昇進を前提に教育活動をしても実りは想像できないし、これについては学校教育のシステムの大きな課題とふまえる方が現実的のような気がしてならない。

三つ目。
学校側(特に現場教師)の営業力を疑うのは一つ筋があるが、学級崩壊などについてまで適応するのは疑問だ。情報の非対称性を持ち込んだまではよいが、学級崩壊という問題が過去にはあり得なかったのであることを考えれば、教師の指導力の低下とみれば、教師世界のOJTがなっていない、教師同士のコンセンサスさえ疑われるということになるか、子どもや保護者やその社会的環境が変化してきたと考えるのが自然であって、「子ども人質論」まで出して、教員による情報の隠ぺいや情報収集を怠ったなどを理由にあげるのは、昔のことでもあまりにも一面に偏っていないだろうか。当時の教育を受けた者にとっては一部の否定で全否定をされるような感触だ。困惑するしかない。

四つ目。
「教員は年度単位で単独行動するようなものだ」というような記述があったと思う。教師は単独ではなく、(これからも)学年や学校単位で行動するようにしなくてはならないだろうし、OJT部分だけでなく、中期的な見通しを(管理職からも)意識していかなければいけないと考える方が自然だと思う。

最後に。
教師のサポートについての問題点は棚上げされたままのようである。指導力強化に関わるもの、メンタル面のサポート、その他の保障はどうしても必要だと思う。教師を年俸制の野球選手に例える部分があるが、我々教員は使い捨てでは困るシステムの中で働いている。野球選手なら2軍もあれば、その下のアマチュアなどの層で支えられているではないか。教師は採用即一人前なのだから、この点は考慮されなければならないだろう。
尊敬する子安先生のブログにこんな一文があった。
>教師の仕事は、去年うまく行っていたからと言って、今年も同じことをしていてうまくいく保障があるわけではない。
>失敗するやり方に法則性はあっても、永遠にうまくいく法則なんてない。
>そんなに簡単に人のことはわからない。
>わかったと思っている人は、人間の考察力がないだけだ。

競争の原理の導入は教育業界の風通しをよくしそうだが、新たな問題をはらんでいることを忘れてはならないし、その対策も今考えられる分くらいはとっておかないと駄目だと思う。
教員を塾や予備校のような商用ベースにのせても教育は豊かにはならない。