http://www.yomiuri.co.jp/kyoiku/renai/20050402us41.htm
見捨てぬ指導/共感の声(フィンランドの教育)
今や教育界の注目の星。フィンランド。
この記事で!と思った点について記述する。
>◆2割の子が「補習」手厚さに驚き
>フィンランドの教育を取材中、最も印象に残ったのは、授業の流れから遅れそうになった子供を手厚い補習授業で支えていく「特別補助教育」の制度だ。
>子供たちの約2割が義務教育の9年間で、1度はこの制度のお世話になるという。
この補習制度がどのような時間と人員で行なわれているシステムなのだろうか。
(検索を面倒がっているのがバレバレだが、だれか教えて!)
>感想を尋ねると、すかさず「恥ずかしいことではない」という答えが返ってきた。
>恥ずかしいどころか、保護者や子供は「積極的に利用すべき権利だ」ととらえているようにも思えた。
よく理解され、うまく運用されている証拠でもある。
実際のは日本でも当然の権利として主張されるべきことだなと思う。
>私自身、算数で割り算を学ぶ時、学校を休んだため、しばらくは割り算が苦手だった。
>そんなアクシデントも含めると、勉強の遅れは、誰もが体験する可能性がある。
>「遅れても見捨てない」。フィンランドに学ぶべきだと思った。
実際には全教科に渡って担任一人の力でフォローする事はできないのが日本の教育システムの現状ではある。
宿題もそうだが、確実にやることを徹底し、指導・評価に生かしていければ最高に効果があがるだろう。
私もそうだが、例えば宿題という名の家庭学習の徹底は、大きくは二つの問題がある。
一つは量の問題。
適切な量というよりは、担任が丸付けや評価処理ができる程度が限界である。のべつまくなく宿題を課す事は不可能である。
よく転出入児童から、別の学校の先生は宿題の量がこうだったという情報を聞くが、自分よりも多くの宿題を出している人の話をきくと、どうやって処理をしているのか首をかしげる。
(あげくに、処理をいいかげんにしているか、よほど暇な学校なのだろうかとも考え、うらやましく思ってしまう)
また、学校で行なう学習がそんなに不足しがちなものとしてとらえているのかと疑ってしまう。
逆に少ないと、そんなことで力がつくのか?ちゃんとやっているのか?と疑ってしまう。
教師をやっていてもそう思ってしまうのだから、親も気が気ではないと思う。
今一つは家庭での処理の問題。
音読、調べものなどの宿題は特に顕著になるが、家で面倒を見てもらえているかどうかは、当然、課題の提出量と相関関係にある。
宿題は補習の目的の他、一定の家庭学習の定着を目指している。
宿題をやらなくても遅れない子はでるが、将来的にみて、そういった子の中から、ぜんぜん学習習慣がない子どもが生まれ、伸びが頭打ちになるのである。
宿題の話になってしまったが、補習を行なう際には、その必要性や運用に理解がないと難しい点もあると思う。
個人的には、デジタル配信のようなコピー授業による補習も考えられるが、個別指導チックなものを期待されているのだろうし、いろいろな対応が可能になるためには、一定のシステムが共通理解されないと効果的にはならないと思う。
私は長期休業を利用して補習を行なっているが、様々な拘束のもとで、のべつ幕なくやることはできないジレンマを抱えているのが実情である。
見捨てぬ指導/共感の声(フィンランドの教育)
今や教育界の注目の星。フィンランド。
この記事で!と思った点について記述する。
>◆2割の子が「補習」手厚さに驚き
>フィンランドの教育を取材中、最も印象に残ったのは、授業の流れから遅れそうになった子供を手厚い補習授業で支えていく「特別補助教育」の制度だ。
>子供たちの約2割が義務教育の9年間で、1度はこの制度のお世話になるという。
この補習制度がどのような時間と人員で行なわれているシステムなのだろうか。
(検索を面倒がっているのがバレバレだが、だれか教えて!)
>感想を尋ねると、すかさず「恥ずかしいことではない」という答えが返ってきた。
>恥ずかしいどころか、保護者や子供は「積極的に利用すべき権利だ」ととらえているようにも思えた。
よく理解され、うまく運用されている証拠でもある。
実際のは日本でも当然の権利として主張されるべきことだなと思う。
>私自身、算数で割り算を学ぶ時、学校を休んだため、しばらくは割り算が苦手だった。
>そんなアクシデントも含めると、勉強の遅れは、誰もが体験する可能性がある。
>「遅れても見捨てない」。フィンランドに学ぶべきだと思った。
実際には全教科に渡って担任一人の力でフォローする事はできないのが日本の教育システムの現状ではある。
宿題もそうだが、確実にやることを徹底し、指導・評価に生かしていければ最高に効果があがるだろう。
私もそうだが、例えば宿題という名の家庭学習の徹底は、大きくは二つの問題がある。
一つは量の問題。
適切な量というよりは、担任が丸付けや評価処理ができる程度が限界である。のべつまくなく宿題を課す事は不可能である。
よく転出入児童から、別の学校の先生は宿題の量がこうだったという情報を聞くが、自分よりも多くの宿題を出している人の話をきくと、どうやって処理をしているのか首をかしげる。
(あげくに、処理をいいかげんにしているか、よほど暇な学校なのだろうかとも考え、うらやましく思ってしまう)
また、学校で行なう学習がそんなに不足しがちなものとしてとらえているのかと疑ってしまう。
逆に少ないと、そんなことで力がつくのか?ちゃんとやっているのか?と疑ってしまう。
教師をやっていてもそう思ってしまうのだから、親も気が気ではないと思う。
今一つは家庭での処理の問題。
音読、調べものなどの宿題は特に顕著になるが、家で面倒を見てもらえているかどうかは、当然、課題の提出量と相関関係にある。
宿題は補習の目的の他、一定の家庭学習の定着を目指している。
宿題をやらなくても遅れない子はでるが、将来的にみて、そういった子の中から、ぜんぜん学習習慣がない子どもが生まれ、伸びが頭打ちになるのである。
宿題の話になってしまったが、補習を行なう際には、その必要性や運用に理解がないと難しい点もあると思う。
個人的には、デジタル配信のようなコピー授業による補習も考えられるが、個別指導チックなものを期待されているのだろうし、いろいろな対応が可能になるためには、一定のシステムが共通理解されないと効果的にはならないと思う。
私は長期休業を利用して補習を行なっているが、様々な拘束のもとで、のべつ幕なくやることはできないジレンマを抱えているのが実情である。