「涼宮ハルヒの憂鬱」の最終話を見ました。
例によって朝からですが、やつはどうせリアルタイムで見たんだろうなあ……。
最終話までみると、シリーズ全体のバランスを考えるなら、
この話が最終話になるべきだということには納得しました。
「サムデイインザレイン」とかで終わってたら、
尻すぼみな印象を受けていたでしょうからね。
で、これを最終話にするにしても、
全体を薄く引き延ばすのではなくて、
時系列を無視して、間に小エピソードをはさむことにより、
未来の出来事すらも伏線に変えてしまった構成力の高さには脱帽。
最終話で、キョンがマウスを振りまわす姿を見て、
「こないだの長門かよ!」とは思いましたが、
本当はこっちの出来事が先で、
長門のほうがキョンのまねをしてたんだということにはすぐには気づきませんでした。
長門がキョンに従う姿は何度も見せられてきましたが、
まさかマウス操作までそうだったなんて……。
長門、おそろしい子!
最終話向けに残された「白雪姫」のメッセージは直球でした(笑)。
ハルヒに対して「元の世界もこんなに素晴らしいんだぞ」と伝えるための方法として、
キョンは白雪姫や眠り姫における王子様になったわけですが、
あのやり方は確かに万の言葉を重ねるよりもわかりやすいです。
そもそも「涼宮ハルヒの憂鬱」という作品は、
「この世界はなんてつまんないんだろう。
そして、自分はなんてつまんない存在なんだろう」
という思春期特有の憂鬱(「雫」の長瀬ちゃんもそういうやつだったなあ)を、
「俺はお前を素敵なやつだと思ってるし、
お前のいる世界を素敵だと思っている」
という主観で打ち負かすお話なんですが、
この作品の素晴らしいところは、それを言葉で語らずに、
抽象化して伝えたことにあります。
ハルヒとキョンとが心の奥底で結びついていることは明らかですが、
それを「好きだ」と言葉にしてしまうと途端に陳腐になってしまいます。
あのふたりのつながりは、そんな一言では表現できないし、
現実に生きている我々の関係も、
たとえば「友達」とかいった一言で片付けられはしない。
「涼宮ハルヒの憂鬱」は、そういうことを私たちに伝えてくれたと思います。
で、終わってみるとやっぱりみくるちゃんは影薄かったんですが、
アテウマ萌えの私としてはそれはそれでよしと思ってます(笑)。
例によって朝からですが、やつはどうせリアルタイムで見たんだろうなあ……。
最終話までみると、シリーズ全体のバランスを考えるなら、
この話が最終話になるべきだということには納得しました。
「サムデイインザレイン」とかで終わってたら、
尻すぼみな印象を受けていたでしょうからね。
で、これを最終話にするにしても、
全体を薄く引き延ばすのではなくて、
時系列を無視して、間に小エピソードをはさむことにより、
未来の出来事すらも伏線に変えてしまった構成力の高さには脱帽。
最終話で、キョンがマウスを振りまわす姿を見て、
「こないだの長門かよ!」とは思いましたが、
本当はこっちの出来事が先で、
長門のほうがキョンのまねをしてたんだということにはすぐには気づきませんでした。
長門がキョンに従う姿は何度も見せられてきましたが、
まさかマウス操作までそうだったなんて……。
長門、おそろしい子!
最終話向けに残された「白雪姫」のメッセージは直球でした(笑)。
ハルヒに対して「元の世界もこんなに素晴らしいんだぞ」と伝えるための方法として、
キョンは白雪姫や眠り姫における王子様になったわけですが、
あのやり方は確かに万の言葉を重ねるよりもわかりやすいです。
そもそも「涼宮ハルヒの憂鬱」という作品は、
「この世界はなんてつまんないんだろう。
そして、自分はなんてつまんない存在なんだろう」
という思春期特有の憂鬱(「雫」の長瀬ちゃんもそういうやつだったなあ)を、
「俺はお前を素敵なやつだと思ってるし、
お前のいる世界を素敵だと思っている」
という主観で打ち負かすお話なんですが、
この作品の素晴らしいところは、それを言葉で語らずに、
抽象化して伝えたことにあります。
ハルヒとキョンとが心の奥底で結びついていることは明らかですが、
それを「好きだ」と言葉にしてしまうと途端に陳腐になってしまいます。
あのふたりのつながりは、そんな一言では表現できないし、
現実に生きている我々の関係も、
たとえば「友達」とかいった一言で片付けられはしない。
「涼宮ハルヒの憂鬱」は、そういうことを私たちに伝えてくれたと思います。
で、終わってみるとやっぱりみくるちゃんは影薄かったんですが、
アテウマ萌えの私としてはそれはそれでよしと思ってます(笑)。