自 遊 想

ジャンルを特定しないで、その日その日に思ったことを徒然なるままに記しています。

谷崎潤一郎 『文章読本』

2014年09月19日 | Weblog

 日本語のいわば作法についての本がだいぶん前から流行している事などから考えさせられた事がある。言葉が考えを正確に伝えるのか否か、という問題である。この問題は古くて新しい問題なので、少し前の名文を引証して、改めてちょっとだけ考えてみる。
 谷崎潤一郎に『文章読本』という名随筆がある。僕は谷崎の小説は読まず嫌いなのだが、この『文章読本』は冷静に谷崎の考えを表していると思う。昭和50年発行の文庫版から二つ引く。
 「然らば、或る一つの場合には、一つの言葉が他の言葉よりも適切であると云うことも、何に依って定めるかと申しますのに、これがむずかしいのであります。第一にそれは、自分の頭の中にある思想に、最も正確に当て嵌まったものでなければなりません。しかしながら、最初に思想があって然る後に言葉が見出だされると云う順序であれば好都合でありますけれども、実際はそうと限りません。その反対に、まず言葉があって、然る後にその言葉に当て嵌まるように思想を纏める、言葉の力で思想が引き出される、ということもあるのであります。」
 言葉が考えを正確に伝えるのか否かについては、谷崎も迷っているようだが、谷崎の場合は「言葉の力で思想が引き出される」という側面を強調したいように読み取れる。しかし、次のようにも言う。
 「・・・返す返すも言語は万能なものでないこと、その働きは不自由であり、時には有害なものであることを、忘れてはならないのであります。」
 その通りだと思う。言葉というものは不自由なものだ。しかし、コミュニケーションの手段はどれも不自由なもので、言葉に限った問題ではない。不自由を相対的に自由にするものが理路というものなのだろうが、これがまた難物で、結局、正確で且つすうと伝わる文章なんてものは皆無とまでは言えないが極めて少ないのだろう。

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