自 遊 想

ジャンルを特定しないで、その日その日に思ったことを徒然なるままに記しています。

柿の葉ずし (再掲)

2014年09月15日 | Weblog

 京都や奈良は海の幸に恵まれないから、古代から最寄の海から魚が運ばれた。若狭から京都に向かう道を鯖街道という。街道とまでは言われないが鯖の通った道が他にもある。熊野灘で獲れた鯖が険しい山道を二日がかりで吉野に運ばれた。その運搬の途中、防腐のために、まぶされた塩が道中に程よく鯖に染み込み、奥深い味が生まれた。吉野では、この鯖を薄く一口大の切り身にして、これまた二口大の握り飯の上にのせて柿の葉で包み、木箱に隙間無く入れ、石で重しをして、一昼夜寝かせた。こうして柿の葉ずしができた。柿の葉も防腐の役を果たすのだろう。
 僕は田舎育ちのせいか、パンなどより白米食が好きだ。それも、その白さが際立つ飯がいい。柿の葉ずしは、柿の青い葉を開けると薄い鯖の身と白い飯が現われる。その青と白の対比が何とも楚楚とした風情を醸す。こういう飯を食することに贅沢な幸せを感じる。遠き昔からの知恵も戴いているような気がする。
 各地に笹の葉で巻いた笹ずしがあることはよく知られている。ところが、福岡には、このしろと紅生姜をすし飯とともに柿の葉で包んだ柿の葉ずしがある。さて、福岡の柿の葉ずしと吉野の柿の葉ずしと、どちらが旨いのだろう。どちらも旨いと思う僕は我ながら欲深い動物だと思う。福岡の柿の葉ずしを食してみたいものだ。

森 (と林)

2014年09月14日 | Weblog

 森と林はどう違うのか。森の方が林より木が一本多い、と言えば冗談のようだが、字面だけからしても森の方が林より鬱蒼としている。木という漢字がもともと象形文字で、その木を50本も100本も書く訳にはいかないから、三つ集めて一文字とし、三つの木は殆ど無数の木の集合を表していると考えられる。
 森の字を含む熟語に「森厳」があって、「森厳の気満つ」などと使われる。この表現は奥深い大自然を前にして人々が抱いた畏敬の念を想像させる。「森羅万象」と言えば、一般に宇宙の万物を差すが、辞書によれば「森羅」とは本来無数の木が茂ることを言う。ともあれ、天地万物の象徴として森のイメージが用いられたこと自体、自然・世界に対する人間の感じ取り方を本来表していると思われる。
 古代には世界中至る所に人跡未踏の森があり、そこには神々が住まいし、木霊、木魂が棲んでいた。神秘な畏敬すべき場であった。オランウータンは「森の人」を意味し、人間は彼らを敬った。
 古代に戻ることは出来ない。戻れなくても、しかし、森を守り、森を増やすことは出来る。環境破壊から持続可能な世界を目差すには木に頼ることが必須である。木を植え、木を守る人々を大切に思わなければならない。僕の視界からどんどん林が消えていくのを見るとき、つくずくそう思う。

陽の光させば

2014年09月13日 | Weblog

 「陽の光させば、泥水だって美しく輝く。」(ゲーテ『箴言と省察』より)

 近頃は、うわべの美しさを競う浅薄な世の中だ。例えばブランド商品にうつつを抜かす輩の多いこと。いや、昔だって、同じようなものだったらしい。
 泥水と聞けば、眉をひそめる。撥ね上がって、衣服を汚しはしないかと気遣う。「砂を撒いて、泥水を覆え」との声もここかしこから聞こえてくる。とかく泥水は嫌われものだ。
しかし、その泥水だって、陽の光がさせば美しく輝く。
 我ら齢を重ねようと、うらぶれようと、陽の光を浴びて美しく輝こうではないか!
 ゲーテはこのように言いたかったのだと思う。

 されど、心が曇天のままだったら、陽の光が届かないであろう。されば、心のカーテンを開くことが先決だ。
 ところが、この先決事項の解決が至難の業であることは言うまでもない。

秋は夕暮

2014年09月12日 | Weblog

 秋らしい涼しい朝を迎えました。これで異常気象でなければ言うことないのですが。

 春は曙、秋は夕暮れ、と『枕草子』はいう。なぜ秋は夕暮れなのだろう。

 歌では秋の夕暮れの名歌として新古今集の「三夕の歌」と呼ばれる三首が有名だ。
   さびしさはその色としもなかりけりまき立つ山の秋の夕暮         寂蓮
   心なき身にもあはれはしられけり鴫(しぎ)立つ沢の秋の夕暮      西行
   み渡せば花ももみじもなかりけり浦の苫屋(とまや)の秋の夕ぐれ   定家

 詩人たちは秋の夕暮れのどこに美を感じて、歌を詠んだのだろう。春の桜、秋の紅葉ならば、その美しさは分る。ところが、定家は「花ももみじもなかりけり」と否定している。釣瓶落としに日が暮れる秋の夕暮れを嘆賞した裏に何があったのだろう。
 『枕草子』はいう。
 「秋は夕暮。夕日のさして山のはいとちかうなりたるに、からすのねどころへ行くとて、みつよつ、ふたつみつなどとびいそぐさえあはれなり。まいて雁などのつらねたるが、いとちひさくみゆるはいとをかし。日入りはてて、風の音むしのねなど、はたいふべきにあらず」
 
 結局、秋の夕暮れの美はもののあわれに通じるので、好まれて詠まれたのであろう。
 
 俳句でも芭蕉の二句はよく知られている。
   かれ朶(えだ)に鳥のとまりけり秋の夕暮
   此道(このみち)や行人(ゆくひと)なしに秋の暮

地球のCO2 過去最高の濃度

2014年09月11日 | Weblog

(昨日の朝刊より)
 世界気象機関(WMO)は9日、地球温暖化の原因となる二酸化炭素(CO2)の2013年の地球の平均濃度(年平均)が、1984年の統計開始以来、最高値の396ppm を記録したと発表した。前年からの増加幅は2. 9ppm で、過去最高となった。
 発表によると、産業革命前の1750年との比較で、2013年の大気中のCO2 の量は推計で約1. 4倍。化石燃料の使用増加などが原因だ。他の主要な温室効果ガスであるメタンは約2. 5倍、亜酸化窒素も約1. 2倍に達しているという。
 また、大気中のCO2 の急増で海水の酸性化が進み、生態系への悪影響が懸念されている。
 人間の活動で出たCO2 の4分の1は海に吸収されるとされ、海水の酸性化が進む。サンゴや藻類、プランクトンなどを初めとした生物に様々な悪影響を及ぼすと考えられる。

秋刀魚を焼く

2014年09月10日 | Weblog

 炭火の熾った七輪の上の網に秋刀魚をのせると、ジュージューと音をたてながら、まず表面が焼ける。が、表面だけが早く焼けるようでは焦げついてしまうので、中までうまく火が通るようにしなければあらない。そこは炭火のよいところで、火を加減すれば充分にうまくいく。
 あの煙の匂いは、魚の皮や皮下脂肪が焼けて炭化する時のもの。秋刀魚には30%近いタンパク質と7~8%もの脂肪があるから、これが炭火で焙られると脂肪が溶け出し、これが炭火に落ちて燻られる。その煙の匂いには魚の生臭みの成分や脂肪とタンパク質が炭化した際の化合物などがあって、それらが特有の匂いを発する。
 「焼く」という調理法は、ごく一部の例外を除いて、地球上のほとんどの民族が最初に行った手法である。長い食の歴史を経て世界各国には「焼きの食文化」が盛衰してきた。
 その中で、食生活に独自の焼きの手法を取り入れ、バラエティに富ませ発展させたのが日本人であると、食の専門家・小泉武夫氏は語る。もちろん外国には、肉を串に刺して焼いたり、鉄板の上で肉を焼く料理、魚の燻製など、焼き料理は多数ある。しかし日本人ほど材料の持ち味を活かして焼く手法を確立した民族は珍しいらしい。塩焼き、照り焼き、付け焼き、串焼き、蒸し焼き、包み焼き、ほうろく焼き、等々。街には炉ばた焼き屋、焼き鳥屋、串焼き屋、たこ焼き屋、お好み焼き屋、焼き芋屋、等々。
 日本で焼く料理がこれほど独自に発展した理由は幾つかある。まず、魚介類や肉、野菜など、焼かれて美味い素材が豊富であること。焼いたものへの味付けとして醤油、味醂、日本酒などの特有の調味料があること。さらに備長炭に代表される炭や七輪、金網など焼く用具を調理に合わせてしつらえたこと。このような条件がそろっているのだから、焼いた料理を食べてまずいはずがなく、日本人の好む料理法となった。
 焼かれて美味い魚は多くの場合、日本の近海のもので、脂肪ののった魚である。その代表が秋刀魚。炭火で焼いてアツアツの内に食べるのが一番美味い。
 ところが残念ながら、いつの頃からか七輪が姿を消した。大抵の家庭ではガスで焼く。炭火とガス火では味が微妙に違う。脂の落ち方が違うのだろう。なお残念なことに、炭火を熾す、火を熾すという習慣が、特に都市部でなくなったことだ。

秋の風

2014年09月09日 | Weblog

 秋というと当然、菊の花や紅葉が連想されるが、秋の風もまたいい。秋の奥行きを深めているのは風だと思う。初秋の爽やかな風から次第に冷ややかな風に移る、その移り行きが秋を深める。
 風に色があると留学生に話したことがある。

  石山の石より白き秋の風(芭蕉)

風についてこんな句を詠めるのは日本人の特質ではないだろうか。色があるからではないが、与謝野晶子に

  おばしまにおもひはてなき身をもたせ小萩をわたる秋の風見る

という一首がある。風が見えるという感覚をもてばこそ、秋の彩りをより深く味わえるのだと思う。
 風が見えるというのは勿論皮膚感覚ではない。かと言って、視覚でもない。思うに、心象風景だ。だから、「白き秋の風」、「小萩をわたる秋の風見る」などという表現が生まれる。
 こんなことを徒然に思うのは、今朝の起きがけの涼しさに、無機質のパソコンに向かいながらも、秋の心象を抱いているからだろう。

深刻な内分泌撹乱 (再掲)

2014年09月08日 | Weblog

 グリーン・ケミストリー(緑の化学:毒性緩和に焦点を当てた科学分野)の専門家によると、内分泌撹乱は潜在的に「癌より深刻な健康問題」である。理由は少なくとも4つある。
 ①動物あるいは人間は、生殖器官、神経系、免疫系が毒に犯されても、外観は健康に見えるので、問題を容易には特定できない。
 ②多くの場合、汚染からその影響が現れるまでの時間差が大きく、手遅れになるまでに、影響を予測し、予防することが困難である。
 ③化学的組成を調べるだけでは、トリプチルズ(船舶塗料の一種)など環境ホルモンを含む化学物質の作用は予測できないので、化学物質ごとに検査して、内分泌撹乱物質を特定するのが困難である。
 ④現行の排出規制の多くは、高濃度汚染の場合の発癌、その他の健康障害に基づいて定められているが、低濃度汚染の場合でも、内分泌撹乱は発生するので、内分泌撹乱物質が規制の網の目をすり抜けている。

 米国でも日本でも、反論のため、業界資金による研究が大規模に実施されたが、『サイエンス』誌掲載の論文によれば、「内分泌撹乱物質は通常の安全基準以下の水準でも生物学的影響を及ぼす」ことを、専門家集団が結論づけた。影響とは、特には人間の生殖機能および発育への悪影響である。
 自然の摂理に刃を向けてきたことは、意図的であったと言わざるを得ない。財界と政界との癒着の構造は生物の多くを滅ぼすかもしれない。その場合、特に被害を受けるのは発展途上の国や最貧国の人々である。

秋へ ♪

2014年09月07日 | Weblog


  秋へ ♪
絹雲流れ
白き風
草原では犬が翔ぶ

今夏の豪雨大災害は異例か? 来年も同様では?
東北の復興はままならず、東電福島第一原発大事故の後始末は?
大問題を積み残したまま日本は何処へ?

民藝ということ

2014年09月06日 | Weblog

 近頃の(に限らないのであろうが)政治家もしくは政治屋が「民意を大切に」という言葉を使うとき、本人が民意を傾聴してこなかったからこそ、使うのだと思う。民意を知っていれば、殊更に「民意を大切に」と言うのは自己顕示欲の発露に他ならず、知らないのであれば、自己隠蔽の誤魔化しに他ならない。彼らに庶民の民意なぞが分かろうはずがないと思う。
 ところで、民藝は比較的はっきりした民意を表現している。民藝については以前に触れたと思うが、おさらいをしておく。「民衆の生活に必要な工芸品」を略して「民藝」という言葉を創ったのは、柳宗悦である。彼と彼の先人と有志については快いが長い話がある。いつかまた書くことにする。で、民藝品を民藝たらしめている特徴は次の6点にある。
 1、無銘品で只の工人の作であること。
 2、素朴で簡素で過剰な装飾がなく丈夫に作られた実用品であること。
 3、量産品で安価であること。
 4、雅趣にこったり、奇を衒ったりしない、自然のあたりまえの姿であること。
 5、地方性、民族性があること。
 6、手仕事であること。

 或る椀なり皿なり花入れなり猪口なりが、これだけの特徴を備えていれば、それらは民藝品と認められ、そこには民意が自ずと表れていると思う。が、現代という時代には民藝品は大抵片隅に追いやられている。雅趣を求め、地方性が情報化のせいでだんだんと無くなりつつある。これでは民意も品薄になるというものだ。

自由なものの考え方

2014年09月05日 | Weblog

 「本当に自由なものの考え方とは、他を認めることだ。」(ゲーテ『箴言と省察』より)

 人ひとりの考えなど、しれたもので、そこから生まれるかもしれない行動の規範は極めて狭い。井の中の蛙が自由であるはずがないではないか。
 自縄自縛という言葉があるが、その縄は「自分自身」であり、その縄の拘束力は比類ないほど強いばかりではなく、厄介なことに見つけにくい。
 自分の殻を脱いで他を認める時、初めて僕(ら)はその縄から解き放たれ、自由なものの考え方をすることができる。
 概略、このような意味であろう。しかし、言うは易しく行うは難しで、僕なんぞは自縄自縛の状態にある場合が多い。縄をほどき殻を脱ぐには、他の言を傾聴することが大事だと思う。たとえ、その言がつまらなく、愛想のよいものであっても。但し、その言が立て板に水を流すような言ならば、あるいは権威を傘にきた(つもり)の言ならば、僕は逃げることを良しとする。
 とかく、自由な考え方というものには達し難いものだ。そしてまた、もの言えば唇寒し秋の風ということも時々はわきまえておかなければならない。

弓矢を捨て・・・(再掲)

2014年09月04日 | Weblog

 新石器時代(縄文時代)が始まってから2千年ほどして、人類は農耕をはじめている。米や麦を育てる農耕と、牛や羊を飼う牧畜がはじまる。とりわけ農耕が大いに役に立った。
 何故2百50万年近くも続いた狩猟の時代を終わらせるほどの影響力を農耕が持ち得たのか。一番の理由は、土地の面積あたりの食糧獲得量が狩猟の百倍も多かったからだ。大雑把な試算によると、一家族が1年間に必要とする獲物を狩るのに1000ha(およそ3km四方)の野山が必要であるのに対して、田畑を作って農耕にいそしめば、10ha(およそ300m四方)で足りた。食糧獲得という点で、狩猟より農耕の方が圧倒的に優れていた。だから、人類の多くは弓矢を捨て、鍬を手にするようになった。
 
 以上のようなことを昔、教わったことがある。弓矢という飛び道具を一旦捨てた人類は、その後、より強力な飛び道具を発明し、殺戮を繰り返してきた。
 どうだろう。飛び道具を世界一斉に捨てることは出来ないものか。自己顕示欲を減らせば、飛び道具も減るはずだ。減らす努力に英知を傾けるべきだ。台風や地震などに飛び道具が役立たないということも分かっているはずだ。

昔、堺に老舗菓子店があった。

2014年09月03日 | Weblog

  君死にたまふことなかれ      与謝野晶子 (旅順の攻囲軍にある弟宗七を嘆きて)

ああ、弟よ、君を泣く、
君死にたまふことなかれ。
末に生まれし君なれば
親のなさけは勝りしも、
親は刃をにぎらせて
人を殺せしと教へしや、
人を殺して死ねよとて
廿四までを育てしや。

堺の街のあきびとの
老舗を誇るあるじにて、
親の名を継ぐ君なれば、
君死にたまふことなかれ。
 (以下略)

(以下略)の手前四行は、明治11年(1878)、堺の菓子商人の三女として生まれた与謝野晶子の述懐であり、弟はその老舗菓子店を継いでいたことを表す。この詩は明治37年9月の『明星』に発表された。当時、晶子は『明星』でめざましい活躍をしていたが、この年、日露戦争が勃発し、弟の寿三郎も戦争に駆り出された。晶子は弟の安否を想い、詩を発表した。国の為には死をも辞さないという時世で、この詩を掲げた晶子の勇気には測り知れないものがある。実際「乱臣賊子」と非難された。
 しかし、晶子の勇気のような気概が要らない次代を望むばかりである。

地球に優しいグリーンコンシューマー10原則

2014年09月02日 | Weblog

 イギリスに端を発する活動でグリーンコンシューマー10原則というものがある。文字通りに「緑の消費者」とでも訳すのであろうか。地球環境に優しい買い物をしようではないかとアピールしている。次がその10原則。
 1.必要なものを必要な量だけ買う。
 2.使い捨て商品ではなく、長く使えるものを選ぶ。
 3.包装はないものを最優先し、次に最小限のもの、容器は再使用できるものを選ぶ。
 4.作るとき、使うとき、捨てるとき、資源とエネルギー消費の少ないものを選ぶ。
 5.化学物質による環境汚染と健康への影響の少ないものを選ぶ。
 6.自然と生物多様性を損なわないものを選ぶ。
 7.近くで生産・製造されたものを選ぶ。
 8.作る人に公正な分配が保証されるものを選ぶ。
 9.リサイクルされたもの、リサイクルシステムのあるものを選ぶ。
 10.環境問題に熱心に取り組み、環境情報を公開しているメーカーや店を選ぶ。

 10は近頃、テレビのコマーシャルなどで企業や大型小売店が宣伝しているが、その数はまだ少ない。5や6や8に基づいて買い物をする情報・知識の普及度が低い。こういった問題点があるものの、多くの人が普段の買い物で10原則に配慮すれば、地球環境保全に貢献できる。
 一つ例を挙げる。かつて安上がりの立食パーティに参加したとき、取り皿がアルミ製だった。アルミ製品は2や4に反する。ところが、別の立食パーティでの取り皿はジャガイモのデンプン製だった。これなら捨てても害にならない。なんなら食べることも出来る。
 日本での最大の問題は7だと思う。地産地消。これが実行できていない。例えば奈良県はスイカや果実の名産地なんだが、地元のスーパーマーケットで奈良県産のスイカを入手できない。熊本産とか鳥取産とか遠方からのスイカを買わざるを得ない。何故だろう。奈良県産は大阪などで高く消費されるからではないか。地産地消を目ざすべきだ。
 とにかく10原則を目安にして買い物をすれば、地球に優しい消費者になれる。

 詳しくはコメントをご覧ください。

ヒトは遊ぶなり。

2014年09月01日 | Weblog

 ホモ・ルーデンス。遊ぶヒトの意。遊びのなかに一定のルールがあるものの、時間的・空間的に分離された場があり、そこに非日常的で利害にとらわれない自由があるとホイジンガ-が説いた(1938年)。
 ホモ・サピエンスやホモ・ファベル(道具を作るヒト)などという、文化・文明偏重の性格付けに対して、文化・文明も遊びから生まれたと想定し、近代精神を把握し直そうとした。
 思うに、ホモ・ルーデンスという性格付けは的を射ている。
 何故なら、僕の日々の営みの殆どが遊びだからである。本を読むのも、囲碁をうつのも、食事をするのも、パソコンのキーを打つのも、睡眠以外は殆ど遊びだと思っている。ときどき若い人に何かを教えるのも遊びだと思っている節がある。食事をするのも、何を食べるかという選択遊びであり、日々日替わりで利害にとらわれている訳ではない。(ただ、食事の用意をしてくれる方も選択遊びだと思って欲しいと思うのは身勝手というものだろう。)
 思うに、「遊ぶ」ほうが「仕事をする」より優雅ではないか。スポーツも元々は利害に関係のない遊びであった。物作りも元々は商品としてではなく、自分好みの遊びごとであった。
 思うに多くの現代人は汲々としている。汲々とすることに慣れているのではないか。これでは文化の生じる余地は少ない。これではいけないと思う。
 今世紀は温暖化ガスとゴミを出さない「遊び」が求められているのだと思う。勿論、知に長けた戦争遊びは利害の追求であり、あってはならない。