自 遊 想

ジャンルを特定しないで、その日その日に思ったことを徒然なるままに記しています。

世阿弥 「秘すれば花」

2014年09月21日 | Weblog

 世阿弥『風姿花伝』のキー・ワード。
 この「秘すれば花」の意味が分かり難いという人が居るかも知れないが、僕は僕なりに理解できる。
 よく用いられる「初心忘るべからず」は、初めての時の心がけを忘れるな、という意味ではなく、初心者の未熟さを日々忘れるな、という意味だ。何でもいつでも学び続けなければならず、同じ類の事であっても何か新しい事を学ぶ時は自分が未熟者だと自覚して謙虚に始めなければならない。ましてや惰性や慢心を自戒することが肝要である。このような姿勢で努力を欠かさない者だけが「秘すれば花」の持ち主になれる。
 為手(役者、俳優)が自分の演技の面白さ、珍しさを表に出せば、見手(観客)は直ぐにそれと気がつき、面白さ、珍しさは消える。だから、見手が気がつかないでいてこそ、為手の演技は効果的である。意外に面白いとだけ感じ、実は意図的表現だとさとられないのが、為手の魅力なのだ。そこで「秘すれば花」と言われる訳だ。
 僕なんぞは効果を狙って事に当たる場合がある。僕の狙いは相手に筒抜け。隠れようも無い。
 ところが、「初心忘るべからず」を知らず知らずの間に心得ている人は「秘すれば花」を地で行っている訳で、絵を描くとか野球をするとかで夢中になって事に当たっている若人たちの真摯な行いに自ずと表れる。若人の姿勢を保たなければ、心も老いる。
 が、保つことが難しい。

 日本最初の演劇論『風姿花伝』に何度となく現われる「花」の意味は、以上のような意味で尽きない。
 (第七 別紙口伝)イズレノ花カ散ラデ残ルベキ。散ルユエニヨリテ、咲クコロアラバ珍シキナリ
 花は散るから美しい、これは素直に分かる。
 その花を「いのち」に置き換えると、「いのち」が美しいのは、生の内に死を含んでいるからだ、と世阿弥は言いたかったのだ。この思想を世阿弥だけが情理の上で明確にする事により、能舞台に絢爛たる花を咲かせることができたのだ。
 世阿弥の思想は奥が深い。僕ら人間の存在に二重の状態を認めた。人間の内面に死と生とを、相互補完的なものとして認めた。生は死を含み、死は生によって意味を得る。生は死によって証しを得、死もまた生によって証しを得る。「いのち」が美しいのは、それがはかないものだからであり、いずれ死が訪れるのが必定だからである。生年と享年とは同い年なのだ。この事を世阿弥は、「秘すれば花」で説いた。
 相互補完的と言ったが、現実には生と死のせめぎあいであり、人間存在は修羅場なのだと思う。修羅場に咲き散る「花」。世阿弥の洞察は凄いものだと思う。


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