後藤和弘のブログ

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中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「日本の破滅へ導いた日独伊三国同盟」

2024年04月22日 | 日記・エッセイ・コラム
日本は1945年8月15日に米英連合軍に無条件降伏をしました。日本は全土が米英連合軍に占領されます。日本の歴史開闢以来の出来事です。
この破滅を招いたものの一つは日独伊三国同盟でした。
今日は日本の破滅へ導いた日独伊三国同盟が結ばれた 歴史を簡略に書いてみたいと思います。
日独伊三国同盟は、1940年(昭和15年)9月27日にベルリンの総統官邸で調印された日本、ドイツ、イタリアの軍事同盟です。
 日独伊三国間条約の始まりは1936年(昭和11年)の日独防共協定でした。
続いて1937年(昭和12年)には日独伊防共協定が出来ました。三国の協力関係が具体的に明記され、アジアにおける日本の指導的地位及びヨーロッパにおける独伊の指導的地位の相互確認をしたのです。これで調印国いずれか1か国が他国から攻撃を受けた場合に相互に援助するとの取り決めがなされたのです。
 このため、日本はイギリスやオランダとの関係が悪化し、アメリカ合衆国の対日感情も悪化することになったのです。
このように 日独伊三国同盟は日本にとって危険な同盟になったのです。
何故こうなったのでしょうか?
その原因は独ソ戦でドイツが圧倒的に強く、モスクワ近郊まで占領したからです。日本は勝ち馬に乗ったのです。
独ソ戦は、第二次世界大戦中の1941年から1945年にかけて、ナチス・ドイツを中心とする枢軸国とソビエト連邦との間で戦われた戦争です。
 1941年6月22日に突如戦争状態となった。
戦独ソ戦の犠牲者(戦死、戦病死)は、ソ連兵が1,470万人、ドイツ兵が390万人でした。
民間人の死者を入れるとソ連は2,000 - 3,000万人が死亡し、ドイツは約600 - 1,000万人でした。
ソ連の軍人・民間人の死傷者の総計は第二次世界大戦における全ての交戦国の中で最も多いばかりか、人類史上全ての戦争・紛争の中で最大の死者数を計上した のです。
この間、 日独伊三国同盟の推進者はドイツ駐在大使の大島 浩 でした。、大島はドイツとソ連とで戦争が起きることを察知し、ベルリンに来ていた松岡洋右に対して、日ソ不可侵条約締結を行なわないよう進言します。しかし結果的に松岡は大島のアドバイスを無視して、日ソ中立条約を締結したのです。 大島はドイツのナチスの政策に心酔して、ドイツ駐在中は「姿勢から立ち居振る舞いに至るまでドイツ人以上にドイツ人的」との評価を受けていたのです。彼も日本の運命を悲劇的にした一人でした。

添付の写真は松岡洋右と会うヒットラーとその他は独ソ戦の様子です。

今日は日本の破滅へ導いた日独伊三国同盟のことを書きました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人) 

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