後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「日本の原風景、水稲栽培の農村の130年前の風景」

2020年08月05日 | 写真
日本の原風景は水稲栽培をして農村の風景です。
2000年前の登呂遺跡の稲作の水田が復元されています。その風景が現在の水田風景と同じなのです。日本に水稲栽培が広がるようになったのは2300年前の弥生時代になってからです。

1番目の写真は静岡県の登呂という場所にある遺跡を復元した風景です。正確に言えば1900年前の稲田の風景です。写真の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/登呂遺跡 です。
写真の左奥に写っている高床式の建物は村の祭殿です。写真の奥に3軒の農家の屋根が写っています。農家は縄文時代と同じ竪穴住居です。向こうの白い鉄筋のアパートや邪魔な電柱は存在していませんでした。こんな農村風景が2000年以上連綿と続いたのです。それは正しく日本の原風景です。

今日はこの農村風景の130年前の写真をお送りします。
エドワード・モースが撮った写真です。カラーは後から彩色したものです。出典は小学館の「百年前の日本」(1983年初版発行)という写真集です。

2番目の写真は1900年撮影です。踏車で田植えの準備として水を上げている光景です。親子三代が何やら話し合っている微笑ましい光景です。私も疎開先の田舎でこの踏車で水を汲み上げたことがあります。子供でしたが 踏車の上に登って足で踏車の羽根を回すのが面白く何度も登ったものです。

3番目の写真は2人の女性が稲の苗を苗代から取って小さな束にしている光景です。1890年撮影されたものです。この小さな束にした苗を田圃に持って行き田植えをします。

4番目の写真は村人が協力して田植えをしている光景です。揃いの笠が懐かしい風景を作っています。1880年撮影です。

5番目の写真は成長した稲の間に入って子供達が稲の害虫「髄虫」の卵を捕っている光景です。稲の害虫捕りと田の草取りを何度もしないといけないのです。私も暑い真夏の水田に入って草取りをしました。ヒルが足に食いつき辛い作業でした。

6番目の写真は刈り取った稲から千歯こきで脱穀している場面です。1900年の撮影です。若い夫婦が協力して作業している微笑ましい写真です。1945年に疎開した農家ではもう千歯こきは使っていませんでした。歯のついたドラムを足で回転させる脱穀機を使っていました。

7番目の写真は唐臼で籾殻を取り除いて玄米を作っている場面です。1870年の撮影です。この作業の後で玄米を計量して4斗(40升)ずつ俵に詰めて出荷します。玄米は精米所で白米します。
以上のような作業の順序は現在でも同じです。しかし田植え機や稲刈り機が普及し辛い作業の一部は楽になりました。

そして日本の農村の現在も稲田が広がっています。その風景は2000年以上変わらない日本の原風景なのです。日本には何度も天災がありました。権力者の興亡が何度もありました。しかし稲作農業は天災や権力者の興亡に何の関係も無く悠々と続いているのです。深く感動します。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

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