後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「ベネズエラで会った亡命者ボルサイテスさんの思い出」

2024年06月08日 | 日記・エッセイ・コラム

憂国の亡命者、ボルサイテス博士に会ったのは1976年、ベネズエラの首都カラカスでした。ソ連領リトアニアからの亡命者でした。何時もの笑顔が時々、フッと消えて、深い悲しさを漂わせた表情を見せる男性でした。

カラカスにある鉄鋼分野の国立研究所の研究部長です。「日本ーベネズエラ鉄鋼技術共同会議」を主宰してくれたのです。

ポーランドの北にあるリトアニアは第二次大戦の前までは完全な独立国でした。第二次大戦中にソ連が武力占領し、併合します。ボルサイテス博士は30年前の家族離散の悲しい出来事を昨日のことのように話すのです。ソ連はいつかは崩壊する。そうしたら祖国に帰り政治家になる、と言ったのです。

ベネズエラの奥地の鉄鉱山の見学へも同行してくれました。リトアニアからの亡命者の眼前には祖国の白樺林とはあまりにも違う熱帯の林が豊かに広がっています。暑く乾いた風が熱帯樹林を騒がせていました。往復の車の中で、祖国の白樺林の新緑や紅葉の美しさをしきりに説明してくれます。  

「ソ連はいつかは崩壊する!」、彼が断言した通り、1989年ベルリンの壁が崩壊しました。そしてリトアニアも独立します。 すぐに、ボルサイテス博士が祖国へ帰って国会議員になったという。そんな噂が流れて来たのはベルリンの壁崩壊から数年後のことでした。

彼の為に、リトアニアに栄光あれと念じつつ、遥かに遠方のバルチック3国を身近に感じるようになったのです。時々ベネズエラでの日々を思い出している今日この頃です。

 
今日はリトアニアの風景写真をお送りいたします。写真の出典は、https://www.istockphoto.com/jp/search/2/image?phrase=%E3%83%AA%E3%83%88%E3%82%A2%E3%83%8B%E3%82%A2 です。
 
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
===バルチック3国のソ連への強制編入とドイツによる占領===
以下は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%88%E3%82%A2%E3%83%8B%E3%82%A2%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2 からの抜粋です。
 
・・・ドイツ軍のポーランド侵入によって第二次世界大戦が始まると、1940年夏、世界がドイツのパリ侵攻に注目しているあいだに、ソ連はバルト三国を占領し、強制的にソ連に編入した。
ソ連はポーランド侵攻後、リトアニアに赤軍基地の設置を要請した。さらに1940年6月にはソ連共産党のモロトフが、リトアニアがラトヴィアやエストニアと反ソ連的軍事同盟を結んだと非難した。こうした避難後のソ連はリトアニア、ラトヴィア、エストニアの3国を軍事占領したのです。そしてリトアニア各地で40以上の大量虐殺事件が起きたのです。
 
・・・その後に ドイツによる占領と虐殺が起きたのです。
1941年6月22日、独ソ戦がはじまるとドイツがリトアニアを占領した。ソ連軍は撤退にあたって、プルヴィエニシュケス収容所ではリトアニア人の囚人230人を殺害し、ライネイの森では76人が殺害されるなどして、合計約700人のリトアニア人が殺害された。ドイツ占領によって、反ソ連蜂起が全土で広がった。リトアニア行動主義戦線(LAF) などがリトアニア臨時政府を宣言したが、ドイツはこれを認めなかった。このリトアニア臨時政府は1941年8月7日解体された。・・・以下省略します。

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