老頭児おじさん奮闘記

老頭児(ロートル)になっても、何事にも興味を持って行動をしているおじさんの奮闘記。

山陰山陽の旅(第4日目)

2014年09月12日 | 旅行
平成26年9月6日(土)、山陰山陽の旅4日目。
津和野に向かいました。

明治維新前には津和野藩亀井氏の城下町であり、山間の小さな盆地に広がる町並みは、「小京都」の代表格として知られているほか、津和野駅はSLやまぐち号の終着駅でもあり、山口市・萩とセットで訪れる観光客が多い。

また、在日米軍基地のある岩国市からも車で訪れることが出来るため、基地職員や米軍兵士などといった外国人観光客も比較的多く見られる。

幕末期以降の廃仏毀釈と、長崎から配流されてきたキリシタンへ、改宗の強要が実施された歴史(浦上四番崩れを参照)があるほか、文豪森鴎外の出生地としてもしられている。

2005年9月25日、隣接していた日原町と合併(新設合併)し、新たに津和野町となった。町役場は合併前の日原町役場に置かれることとなった。

毎年7月末に行われる祇園祭の中で、街中を練り歩く鷺舞は津和野の代名詞であり、国の重要無形民俗文化財に指定されている。

バスからの景観。


津和野駅とSLですよ。


津和野の教会、中は珍しい畳敷きです。


堀の鯉です。
流れがゆるく、観光客が餌を与えるからメタボの鯉です。


国の重要無形民俗文化財に指定されている鷺舞の銅像です。


津和野の後は国道9号線を出雲大社へ向かいました。

出雲大社は、式名称は「いづもおおやしろ」であるが、一般には主に「いづもたいしゃ」と読まれる[1]。二拝四拍手一拝の作法で拝礼する[2]。明治維新に伴う近代社格制度下において唯一「大社」を名乗る神社であった。創建以来、天照大神の子の天穂日命を祖とする出雲国造家が祭祀を担ってきた。現在の宮司は84代国造千家尊祐で、國學院大學を卒業後太宰府天満宮を経て出雲大社禰宜→権宮司と昇格すると、2002年(平成14年)宮司に就任し翌年神社本庁より神職身分特級を拝受している。また、宮司の正服の紋様は神社本庁の定める黒綾文輪なし裏同色平絹ではなく黒綾にご神紋である二重亀甲剣花角の文様を練り込んだものであり他に類を見ない。現在も、皇室の者といえども本殿内までは入れないしきたりを守り続けている。約60年に一度行われている本殿の建て替えに際して、神体が仮殿に遷御された後に、本殿の内部及び大屋根が公開されることがある。

生憎、出雲は雨でした。
雨の中の参拝をなりました。


大注連縄です。
以前は下から硬貨を投げて注連縄に挿していましたが、今は下にネットが張られ硬貨を挿せなくなっていましたよ。


今夜の宿は、大山ロイヤルホテルです。
島根県から鳥取県に向かいます。

山陰山陽の旅(第3日目)

2014年09月12日 | 旅行
平成26年9月5日(金)、山陰山陽の旅3日目です。

先ず訪れたのは秋吉台です。

秋吉台(あきよしだい)は山口県美祢市中・東部に広がる日本最大のカルスト台地である。北東方向に約16km、北西方向に約6kmの広がりを有し、台地上の総面積54km²、石灰岩の分布(沖積面下の潜在部を含む)総面積93km2、台地面の標高180〜420mだそうです。





次に向かったのは、瑠璃光寺です。
 瑠璃光寺(るりこうじ)は、山口県山口市香山町にある曹洞宗の寺院。山号は保寧山、本尊は薬師如来。国宝の五重塔を中心として、境内は香山公園と呼ばれ、桜や梅の名所にもなっている。大内氏全盛期の大内文化を伝える寺院であり、「西の京・山口」を代表する観光名所となっている。香山墓所は「毛利家墓所」のうちの一つとして国の史跡に指定されています。
 室町時代、大内氏25代の大内義弘が現在の場所に香積寺を建立したが、義弘は応永6年(1399年)に応永の乱を起こし足利義満に敗れて戦死する。義弘の弟である26代大内盛見が兄を弔うためここに五重塔の建設を開始したが、盛見自身も九州の少弐氏・大友氏との戦いで永享3年(1431年)に戦死する。五重塔はその後嘉吉2年(1442年)頃に完成したそうです。

瑠璃光寺の五重塔です。


瑠璃光寺の後は、城下町「萩」に向かいました。
 萩城下町の町筋は、碁盤目状に区画されており、中・下級の武家屋敷が軒を連ねています。現在でも町筋はそのまま残されており、当時の景色を楽しむことができます。また、菊屋横町は、白いなまこ壁の美しいこの横町は「日本の道百選」の一つに選ばれています。

豪商・菊屋家の御成門です。


日本の道百選に選ばれた菊屋横町です。



高杉晋作の銅像です。


松下村塾です。
松下村塾(しょうかそんじゅく)は、江戸時代末期(幕末)に長州藩士の吉田松陰が講義した私塾である。長州萩城下の松本村(現在の山口県萩市)に、松陰の叔父である玉木文之進が1842年(天保13年)に設立し、松陰も学んでいます。



萩温泉の宿「雁嶋別荘」からの景色です。


川の向こうは日本海ですよ。

山陰山陽の旅(第2日目)

2014年09月10日 | 旅行
平成26年9月4日、山陰山陽の旅2日目。
安芸の宮島、厳島神社参詣です。

嚴島神社は海を敷地とした大胆で独創的な配置構成、平安時代の寝殿造りの粋を極めた建築美で知られる日本屈指の名社です。廻廊で結ばれた朱塗りの社殿は、潮が満ちてくるとあたかも海に浮かんでいるよう。背後の弥山の緑や瀬戸の海の青とのコントラストはまるで竜宮城を思わせる美しさです。

宮島口からJRのフェリーで宮島へ渡りました。


海からシンボルの大鳥居が見えてきました。

本社火焼前(ひたさき)より88間の海面にそびえる朱塗りの大鳥居は、奈良の大仏とほぼ同じ高さの16m、重量は約60t。主柱は樹齢500~600年のクスノキの自然木で作られており、8代目にあたる現在の鳥居を建立するにあたっては、巨木探しに20年近い歳月を要したといいます。また根元は海底に埋められているわけではなく、松材の杭を打って地盤を強化し、箱型の島木の中に石を詰めて加重するなど、先人の知恵と工夫によって鳥居の重みだけで立っています。



鏡池です。


白鷺です。


鳥居が見えるシャッタースポットです。


宮島の案内図です。


干潮のため歩いて厳島神社正面から撮影出来ました。


下関の赤間神社を参拝しました。

源平壇ノ浦の合戦において、二位の尼に抱かれて入水された幼帝安徳天皇を祀った神社。関門海峡を臨み、白壁に朱塗の水天門があります。境内には、平家一門の墓、小泉八雲の怪談で有名な耳なし芳一の芳一堂や、貴重な資料を展示した宝物殿などもあります。



耳なし芳一堂です。


下関案内図です。


関門橋です。

関門橋は、橋塔間712m、橋台間の吊橋の全長1,068m、幅6車線の東洋有数の規模の吊橋です。
また、海面から橋げたまでの高さは満潮時で61mあり、関門海峡を通過する大型船舶が余裕をもって航行できるようになっています。

向こう側は九州の門司ですよ。
意外と近いですね。



昭和33年完成した関門トンネルは2階建てで、延長3,461メートル、海底部780メートル、幅は自動車道が7.5メートル、人道が4メートルです。人道の方は昭和47年から人の通行料が無料となり、現在多くの人に利用されています。

関門トンネル内の山口県と福岡県境です。
本州と九州を一跨ぎですね。


今宵の宿は、長門湯本温泉 山村別館です。

山陰山陽の旅(第1日目)

2014年09月10日 | 旅行
平成26年9月3日~9日、6泊7日で山陰山陽の旅に行ってきました。
第1日目、東京から新幹線で岡山へ、岡山から観光バスで倉敷へ行きました。

風にそよぐ柳並木や、白壁となまこ壁が美しいコントラストを見せて倉敷川に影をおとし、伝統的な日本建築の美しさをよく残しているこの一帯は、江戸時代には米の積出地として栄えたところで、町並みから往時をしのぶことができる。世界的名画を集めた大原美術館をはじめ、民藝館、考古館など、文化的施設も多数ある。

倉敷では倉敷川で舟に乗り運河めぐりをしました。
柳が川面に映り情緒たっぷりな景観を見せていました。






路地は「ひやさい」と地元の人々に呼ばれ住民の暮らしを色濃く映し出しています。


今宵の宿は、グランドプリンスホテル広島です。


清里便り99:ハチの巣退治と飯盛山

2014年09月01日 | 清里便り
平成26年8月29日・30日で元会社の先輩と清里小屋へ1泊してきました。
早速、先日痛く痒いおもいをさせてくれた憎きアシナガ蜂退治をしました。

ハチの巣はそのまま健在でしたよ。


ネットを被り、思い切りキンチョールを噴射しました。


見事、ハチの巣を取り除きました。


飯盛山へ再度登りました。
前回は霧で視界が悪かったのですが、今回はそれよりは視界が開けていました。
登山口は「しし岩」からです。

マツムシソウとミツバチです。


山頂直下にはトリカブトも咲いていました。
トリカブトを見るのは初めてでしたが、意外ときれいな花ですね。


アザミに蝶です。


飯盛山です。


下山途中の平沢山の頂上からきれいな絨毯をを敷きつめたような景色が見えました。


早速現場へ急行です。
赤、黄、紫、白と花畑です。


赤はサルビア


黄色はマリーゴールド


紫はラベンダーでした。


思いがけないきれいな花畑を見られて感激です。
その夜は、先輩と2人ローソクの火で遅くまで酒を酌み交わしました。