「古都逍遥 京都・奈良編」「花の詩」「日常のこと」や花や風景写真

 京都・奈良を中心に古刹・名刹や「花の詩」等の紹介。花や風景写真、オリジナルの詩、カラオケ歌唱など掲載しています。

「向原寺」(こうげんじ)

2011年04月02日 18時43分05秒 | 古都逍遥「奈良篇」
 崇峻5年(592)12月8日、敏達天皇の皇后だった豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ)が豊浦(とゆら)宮で即位された。我が国最初の女帝・推古天皇である。即位の日、甘樫の丘の麓では正装した群臣たちが勢ぞろいし、儀式がしめやかに盛大に行われたという。その即位の儀式が行われた宮跡に建っているのが、現在の「向原寺」である。

 縁起をみると、『日本書紀によると、わが国に初めて仏像や経論が伝えられたのは、鉄明天皇の13年(552)で、その仏像は蘇我稲目が戴き己がオハリタの向原の家を寺として祀ったとあり、このムクハラの寺が向原寺の起りあり、わが国仏法の根元、寺院最初の霊場であると記されている。
 当寺の最初の建物は、尾與等に焼かれたが、推古天皇はこの地に宮を移し、聖徳太子を摂政として政治を任せた。17条憲法が制定(604)され、法隆寺、四天王寺等が建てられ、飛鳥時代と呼ばれる文化が栄えた。推古天皇の後、都は飛鳥の岡本に移され、この宮の跡に寺が建てられ「豊浦寺」と称した。金堂、講堂、塔婆など完備した一大伽藍が飛鳥川のほとり、甘樫丘の麓に並べた。

 都が平城、平安と遷都されるにつれて、飛鳥の諸大寺と共に衰退の一途を迫り、伝わる昔の面影をまったく失っている。しかしながら当寺の由緒は国史に厳存し、出土の古瓦によって、飛鳥時代の創建が実証せられるばかりでなく、去る昭和34年の発掘調査によって多くの遺構遺物が発見され、壮大な伽藍配置など明らかになり、往時の盛観が偲ばれるに至った。』

 お寺の人に案内してもらい、発掘された遺構を見せてもらうとよい。飛鳥時代の遺構をそのままの姿で見ることができる。その脇には、須弥山石の仲間とも思える「文様石」がひっそりと置かれており、飛鳥時代に想いをはせることができる穴場である。
 当寺から南に20mほど入った民家の間に、「推古天皇豊浦宮跡」の碑と礎石があるが、残念ながら「豊浦宮」のものではなく、どうやら後の「豊浦寺」の塔の跡だという。

 『あすか川 ゆきたむ丘の 秋萩は 今日ふる雨に ちりかすぎなむ」(万葉集)
 訪れる人も少なく、いつも静かである。

 所在地:奈良県高市郡明日香村豊浦630。
 交通:近鉄橿原神宮前駅より奈良交通バス岡寺行き豊浦下車。
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「川原寺跡」(かわらでらあと)

2011年04月02日 18時30分49秒 | 古都逍遥「奈良篇」
 古代日本の政治文化の中心であった飛鳥(奈良県明日香村)に所在した「川原寺」は別名「弘福寺」(ぐふくじ)と称し、飛鳥寺(法興寺)、薬師寺、大官大寺(大安寺)と並ぶ飛鳥の四大寺に数えらた大寺院であったが、建久2年(1191)炎上、いったん鎌倉時代に再興されるが、室町時代末期に雷火で再び焼失し、以降衰退した。

 7世紀半ばの天智天皇の時代に建立された伝えられているが、さまざまな説があり「謎の大寺」とも言われている。
 『日本書紀』の白雉4年(653)条には「僧旻(みん)の死去にともない、追善のため多くの仏像を川原寺に安置した」との記事があるものの、「川原寺でなく山田寺であったかもしれない」とも付記されていて、創建の時期は謎のままだが、『書紀』の記述から見て、天武天皇2年(673)以前の創建であることは確かであろうと推測されている。

 天武朝以降、国が経済的な支えをする官寺が定められ、このころから仏教は、官寺を中心に国家の宗教として栄えるようになった。川原寺はこのような官寺の代表として、四大寺(大官・薬師・飛鳥・川原)の一つに数えられた。
 平城京遷都とともに他の三大寺(飛鳥寺、薬師寺、大官大寺)はその本拠を平城京へ移したが、川原寺は移転せず、飛鳥の地にとどまった。平安時代最末期の建久2年(1191)の焼失後その姿を消し、発掘された瓦や土で作った仏像、堂塔の礎石以外には往時をしのばせるものはない。

 現在、寺跡は南大門、中門、廻廊などの旧位置がわかるように整備され、川原寺の法灯を継ぐ中金堂跡付近に建つ弘福寺(ぐふくじ)に重要文化財の木造持国天・多聞天立像(平安時代前期)が安置されいてる。
 昭和32年から34年に実施された発掘調査で、川原寺の伽藍配置は一塔二金堂式の特異なものであったことが判明し、「川原寺式伽藍配置」と称されている。川原寺では中門左右から出た廻廊が伽藍中心部を方形に区切り、廻廊の北辺中央に中金堂が位置する。廻廊で囲まれた区画内には中金堂の東に五重塔、西に西金堂が建つ。

 西金堂は現存する唐招提寺金堂と同様に正面を吹き放ちとした建築で、中金堂は正面三間、側面二間の母屋の四方に吹き放ちの庇をめぐらした開放的な建物であったことがわかっている。中金堂の礎石は他に類例のない瑪瑙石(めのう)使用(寺院神社大辞典より)されているのが興味深い。また、川原寺から出土する創建時の瓦は「複弁蓮花文瓦」と呼ばれ、8枚の花びらのそれぞれを二つに分けた様式をとっており、これが以後の瓦文様の主流になって行ったという。
 現在分かっている門は、南門・東門・中門からなり、南門と中門は単層(一階屋根)で規模も同じ程度。東門は、17.7m×15mの基壇に三間三間の重層(2階屋根)で威風堂々たるものであったという。西門はいまだ発見されていない。

 所在地:奈良県高市郡明日香村川原1109
 交通:近鉄橿原神宮前駅からバスで川原下車
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