大和三門跡に数えられる古刹で、もと藤原不比等の邸宅を、不比等の没後、娘の光明子(光明皇后)がこれを相続して皇后宮とした。天平17年(745)5月、皇后宮を宮寺としたのが法華寺の始まりと言われている。正しくは法華滅罪寺(ほっけめつざいのてら)と称し、七堂伽藍を備えて隆盛を極めたという。
発掘調査によると、奈良時代の法華寺の境内は平城宮東宮の東に接し、北は一条条間路、南は二条条間路、東は東二坊大路、西は東一坊坊間路を境として、南北三町、東西二町に及んでいたようだ。
創建当初の金堂や講堂は、現・法華寺南門のさらに南に位置し、金堂の南に中門、その南には東西両塔があったことがわかっている。さらに、境内南西部には天平宝字3年(759)から翌年にかけて建立された阿弥陀浄土院があった。阿弥陀浄土院は、丈六の阿弥陀三尊像を本尊とし、『続日本紀』によれば、天平宝字5年(761)、光明皇太后の一周忌がここで営まれている。
当寺は平安京遷都以後は次第に衰微し、平安時代末期にはかなり荒廃していたようで、治承4年(1180)の平重衡の兵火では東大寺、興福寺が炎上し、法華寺も被害を受けたという。鎌倉時代に入り、東大寺大仏の再興を果たした僧・俊乗坊重源(しゅんじょうぼう ちょうげん)は、建仁3年(1203)法華寺の堂宇や仏像を再興し、その半世紀後、鎌倉時代中期の真言律宗の僧・叡尊(えいそん)によって本格的な復興がなされた。
その後、明応8年(1499)と永正3年(1506)の兵火や慶長元年(1596)の地震で東塔以外の建物を失い、現在の本堂、鐘楼、南門は慶長6年(1601)頃、豊臣秀吉の側室淀殿が片桐且元を奉行に任じ復興させたものである。なお、数々の被災をまぬがれていた東塔は宝永4年(1707)の地震で倒壊した。
本堂(重要文化財)は本瓦葺き寄棟造。堂内厨子に天竺(インド)の仏師・問答師が光明皇后の姿を模してつくった伝えられている本尊十一面観音像(国宝)が安置されているが、実際は平安時代初期の作と見られている。彩色や金箔を施していない素木像で、髪、眉、ひげなどに群青、唇に朱、白目に白色を塗り、瞳、肩に垂れる髪、冠や腕釧などに銅板を用いるほかは、木肌の美しさを生かした素地仕上げとなっている。両手首から先や天衣の遊離部分など、ごく一部を別材とするほか、頭・体の主要部から、蓮華座の中心部分、その下の心棒まで一木造で平安時代彫刻を代表する作品の一つとされている。目鼻立ちがくっきりとした顔つきやふくよかな体つきは天平美人を彷彿とさせる。
鐘楼(重要文化財)は鬼瓦に慶長7年(1602)の刻銘があり、形式や細部からみてその頃の再興と考えられている。二層建てとし上層に鐘を吊る「袴腰付き鐘楼」で、上層に縁や高欄を設けない珍しい形式だという。
横笛堂は滝口入道との悲恋の物語で有名な横笛が出家後に住んだといわれている。護摩の灰を粘土に混ぜて形を作り、文様彩色を施した愛らしい犬形のお守りでも知られている。
国の名勝に指定されている庭園は江戸時代初期につくられたとされ、奥書院の南の池を中心に展開する主庭園がある。御所の庭を客殿と共に移築したと伝えられる庭園で、世にこれを「仙洞うつし」といっている。
この庭園は総面積五百坪に及ぶ広大な庭でへの字形に渡された土橋を境に、西方は広い池となっている。昔はその西堤に物見台があったという。
正面には枯滝を表わす立石があり、ここから流れ下る谷川の様子を一面に敷きつめた玉石で象徴している。ここを中心として水をたたえた長い池が連なっている。対岸の小高い丘は椿・樫・山茶花が高生垣の背景となっている。その前方には低い潅木がところどころにうずくまっている。水際の粗い石組にも古い池の面影をとどめている。
池の手前は白砂が敷きつめられ、すがすがしい思いがする。書院の縁の中央から庭に続く飛石の配置にも工夫がこらされていて、向うに進むにつれて石の高さや大きさが次第に逓減していくように配されている。庭園の細部の石組にもこうした特徴が認められることは、御所の作庭と相通ずるところがある。
なおこの主庭の築地塀で仕切られた平庭がある。ここは客殿の中庭になっていて縁に優雅な勾欄がとりつけられ、ささやかながらもよくまとまった庭である。(パンフレットから)
100本の椿をはじめ、めずらしい法華寺蓮・にんじん木等約750種の花木・草花があり、1年を通し四季おりおりの花々が鑑賞出来るようになっている。
所在地:奈良県奈良市法華寺町882。
交通:JR大和路線奈良駅・近鉄奈良駅から奈良交通バス(西大寺駅・航空自衛隊行き)「法華寺」下車すぐ。
発掘調査によると、奈良時代の法華寺の境内は平城宮東宮の東に接し、北は一条条間路、南は二条条間路、東は東二坊大路、西は東一坊坊間路を境として、南北三町、東西二町に及んでいたようだ。
創建当初の金堂や講堂は、現・法華寺南門のさらに南に位置し、金堂の南に中門、その南には東西両塔があったことがわかっている。さらに、境内南西部には天平宝字3年(759)から翌年にかけて建立された阿弥陀浄土院があった。阿弥陀浄土院は、丈六の阿弥陀三尊像を本尊とし、『続日本紀』によれば、天平宝字5年(761)、光明皇太后の一周忌がここで営まれている。
当寺は平安京遷都以後は次第に衰微し、平安時代末期にはかなり荒廃していたようで、治承4年(1180)の平重衡の兵火では東大寺、興福寺が炎上し、法華寺も被害を受けたという。鎌倉時代に入り、東大寺大仏の再興を果たした僧・俊乗坊重源(しゅんじょうぼう ちょうげん)は、建仁3年(1203)法華寺の堂宇や仏像を再興し、その半世紀後、鎌倉時代中期の真言律宗の僧・叡尊(えいそん)によって本格的な復興がなされた。
その後、明応8年(1499)と永正3年(1506)の兵火や慶長元年(1596)の地震で東塔以外の建物を失い、現在の本堂、鐘楼、南門は慶長6年(1601)頃、豊臣秀吉の側室淀殿が片桐且元を奉行に任じ復興させたものである。なお、数々の被災をまぬがれていた東塔は宝永4年(1707)の地震で倒壊した。
本堂(重要文化財)は本瓦葺き寄棟造。堂内厨子に天竺(インド)の仏師・問答師が光明皇后の姿を模してつくった伝えられている本尊十一面観音像(国宝)が安置されているが、実際は平安時代初期の作と見られている。彩色や金箔を施していない素木像で、髪、眉、ひげなどに群青、唇に朱、白目に白色を塗り、瞳、肩に垂れる髪、冠や腕釧などに銅板を用いるほかは、木肌の美しさを生かした素地仕上げとなっている。両手首から先や天衣の遊離部分など、ごく一部を別材とするほか、頭・体の主要部から、蓮華座の中心部分、その下の心棒まで一木造で平安時代彫刻を代表する作品の一つとされている。目鼻立ちがくっきりとした顔つきやふくよかな体つきは天平美人を彷彿とさせる。
鐘楼(重要文化財)は鬼瓦に慶長7年(1602)の刻銘があり、形式や細部からみてその頃の再興と考えられている。二層建てとし上層に鐘を吊る「袴腰付き鐘楼」で、上層に縁や高欄を設けない珍しい形式だという。
横笛堂は滝口入道との悲恋の物語で有名な横笛が出家後に住んだといわれている。護摩の灰を粘土に混ぜて形を作り、文様彩色を施した愛らしい犬形のお守りでも知られている。
国の名勝に指定されている庭園は江戸時代初期につくられたとされ、奥書院の南の池を中心に展開する主庭園がある。御所の庭を客殿と共に移築したと伝えられる庭園で、世にこれを「仙洞うつし」といっている。
この庭園は総面積五百坪に及ぶ広大な庭でへの字形に渡された土橋を境に、西方は広い池となっている。昔はその西堤に物見台があったという。
正面には枯滝を表わす立石があり、ここから流れ下る谷川の様子を一面に敷きつめた玉石で象徴している。ここを中心として水をたたえた長い池が連なっている。対岸の小高い丘は椿・樫・山茶花が高生垣の背景となっている。その前方には低い潅木がところどころにうずくまっている。水際の粗い石組にも古い池の面影をとどめている。
池の手前は白砂が敷きつめられ、すがすがしい思いがする。書院の縁の中央から庭に続く飛石の配置にも工夫がこらされていて、向うに進むにつれて石の高さや大きさが次第に逓減していくように配されている。庭園の細部の石組にもこうした特徴が認められることは、御所の作庭と相通ずるところがある。
なおこの主庭の築地塀で仕切られた平庭がある。ここは客殿の中庭になっていて縁に優雅な勾欄がとりつけられ、ささやかながらもよくまとまった庭である。(パンフレットから)
100本の椿をはじめ、めずらしい法華寺蓮・にんじん木等約750種の花木・草花があり、1年を通し四季おりおりの花々が鑑賞出来るようになっている。
所在地:奈良県奈良市法華寺町882。
交通:JR大和路線奈良駅・近鉄奈良駅から奈良交通バス(西大寺駅・航空自衛隊行き)「法華寺」下車すぐ。