「古都逍遥 京都・奈良編」「花の詩」「日常のこと」や花や風景写真

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「木屋町」(きやまち) 

2006年06月17日 07時22分52秒 | 古都逍遥「京都篇」
 浅瀬をくだるせせらぎも清々しく、四季折々の自然と歴史をとどめながら今も昔も変わらずに流れる高瀬川、その流れに寄り添って桂小五郎と菊松が逢瀬を楽しんだ木屋町通りが、南北に細長く続いている。
 木屋町通りは最初は樵木町(こりきまち)と呼ばれていた。その名が示すように材木や薪などが高瀬川を使って運び、周辺には木、薪炭などを扱う商家が多く建ち並び軒を連ねていたいたことから、東岸の道が「木屋町通り」と呼ばれるようになった。江戸初期・慶長16年(1611)に、京の豪商・角倉了以により人工の河・高瀬川が開削され、二条から五条まで運河を造り、京都の経済水運として活躍し木屋町は賑わいをみせた。
 四条河原町や祇園の繁華街に近いにもかかわらず街の喧噪からはほど遠く、木屋町通りを挟んで西に高瀬川、東に鴨川を控えて落ち着いた佇まいをみせている。この通は日本最初の路面電車(チンチン電車)が走った通りで、平安遷都1100年記念事業の内国勧業博覧会の会場へのアクセスとして、琵琶湖疎水による発電電力を使って走らせた。

 三条大橋の西詰めには幕府の制札場があり、そこに長州藩の罪状が記された。高札は何度も川に投げ捨てられ、新選組がその監視を命じられている。
 木屋町通りを三条に上ると、池田屋事変の際に土方隊が乗り込んだ旅館「四国屋」があった場所に出るが、現在は金茶寮という料亭になっており、木屋町通りに面した入り口には「吉村寅太郎寓居跡」・「武市瑞山寓居跡」の碑もある。
 さらに北へ木屋町通り御池上る、二条間に出ると、鴨川に添って木屋町通りを流れる高瀬川の船だまりとして港の役割をした「一之舟入」跡がある。付近には、明治維新に活躍した桂小五郎の像や長州藩邸跡、桂小五郎・幾松寓居跡(木屋町御池上ルの東側、現在は料理旅館「幾松」になっている)、大村益次郎遭難碑、佐久間象山遭難碑などがある。
 佐久間象山は、幕府の雇士として上洛し、開国を唱える一方で公武合体を説いた。攘夷派の標的となり暗殺された翌朝、象山の首は三条河原に晒された。また、大村益次郎が襲われたのは明治2年9月、木屋町の宿で鍋を囲んで仲間と歓談していたところを刺客に襲われた。刺客は、長州人大楽源太郎の客分である神代直人らであった。大村は傷を負い、高瀬川から一之舟入から舟に乗せられ、大阪まで運ばれた。傭い外国人である蘭人ボードウィンの治療を受けるが甲斐もなく死去した。

 新選組を一躍有名にした池田屋事変の舞台となった池田屋跡は、三条河原町の東側、河原町通の北側にあり、現在はパチンコ屋になっている。
池田屋石碑の寄贈者は佐々木フサで、池田屋は維新後、佐々木氏に買い取られて旅館として営業されていた。
 三条河原町の一つ手前(南)の通り(通称「龍馬通り」)の北側に酢屋(海援隊屯所跡)ある。幕末当時の酢屋は土佐藩出入りの材木商。龍馬が近江屋に移るまで酢屋の二階に潜伏していて、海援隊の屯所となっていた。
 現在、二階はギャラリーになっており、毎年、龍馬が亡くなった33歳より若い人を対象に、「龍馬への手紙」を募集し、毎年11月15日の龍馬の命日に龍馬の遺品と共にを一般公開している。

 高瀬川沿い、旧立誠小学校の前に立つ土佐藩邸跡の碑がある。当時はこの一帯が土佐藩邸であったそうで、蛸薬師通りには「土佐稲荷」もある。
 慶応3年(1867)11月、坂本龍馬が暗殺された近江屋は、四条通りと三条通りの中程にあり、今では旅行会社になっており、前に設置された石碑のみが歴史を伝えている。
 木屋町通り蛸薬師下った東側には、勤王の志士の本間精一郎が土佐藩士武市半平太の謀計により岡田以蔵により暗殺された遭難之地として石碑が立っている。

 所在地:京都市右京区木屋町。
 交通:JR京都駅から市バス17、295系統で河原町五条・四条河原町下車。
 阪急電鉄河原町駅下車東へ、京阪電鉄四条駅下車西へ徒歩5。

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