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縄文遺跡 青森三内丸山遺跡は日本人を開眼させた<2894>

2015-11-09 12:02:37 | 歴史

♫昨日NHKスペシャルで、この縄文文化について山内丸山遺跡を放送していました。4シリーズだったようです。この中で、イギリスでもアメリカの学者も縄文文化の凄さを、絶賛していました。この狩猟民族は、今まで考えられていた狩猟民族とは違い、日本人の固有の考え方「和」を尊重していたからです。その時代が1万年もの間、支配者もなく、争いの形跡もなくというものは、かつてどの世界にもなかったからです。

さらに古代の土を調べてみると、遺跡あとには、栗林があり、それらは、確実にクリの木を植えていったことから、出来たものだと言う事です。しかも火の見やぐらのような太いクリの木の建物は直径2メートルにも及ぶクリの大木で樹齢が凄いことになります。

今日本ではこのような太いクリの木を見つけることは、困難で、ロシアにはクリの巨木があるということでした。あんな凄い木を皆で伐採して、作っていたわけですね。

そして、土偶です。見たこともないような土偶は、実ははやしひろし氏は、宇宙人を形づくっていると、しています。確かに宇宙服のように見えますね。

番組で紹介されていましたが。何千年も前の堆積の地下土から、栗やならの木の花粉が見つかったと顕微鏡でみせてくれました。あんなに小さな花粉が、土の中で、壊れずにそのままの状態を保っているというのは、凄いことですよね。

普通なら消えてなくなってしまいそうに思えるのですが。植物のDNAの凄さでしょうね。

まさに宇宙的な話だと思いました。

縄文文化の素晴らしさを、もう一度日本人の心に呼び戻してくれた、山内丸山遺跡です。

ぜひ訪れてみたいですね。

 

弥生文化の前にこのような素晴らしい国として縄文文化の時代があったことは、日本人の宝です。そして、そのDNAを色濃くもっているアイヌと沖縄は日本人の祖先といっても過言ではないでしょう。

田布施Sは、このDNAを持たない人です。

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http://www.forest-akita.jp/data/kiso-bunka/kisobunka01/kiso-01.html より転載しました

http://www.forest-l
北の縄文文化、三内丸山遺跡、ストーンサークル、縄文芸術、東北弥生文化、秋田城・多賀城
アザマロの乱、巣伏の戦い、田村麻呂対アテルイ、鳥海山大物忌神、元慶の乱、天慶の乱、清原・安倍氏

北の縄文文化

 かつて日本の開始は、大陸から進んだ文化を持った人々が渡来してきて、水田稲作を始めた

弥生

時代からと教えられた。「日本書紀」に記されたエミシは、五穀も家もなく、肉を食して深山の木

の下

に眠っていると記されている。ましてそれより遥か以前の縄文文化は、先住民族の遅れた人

々の異文化であり、考古学の世界でも軽視されていた。


 ところが最近は、弥生文化に端を発する現代文明に疑問を感じる人々が増え、弥生時代以前

に1万年も続き、森と共生してきた縄文文化に関心が寄せられるようになった。特に三内丸山

遺跡の発見は、「未開の野蛮人」といった偏見を覆し、堰を切ったように縄文時代への関

心が深まった今や「縄文人は我々の祖先」というのが定説になっている。

縄文人の祖先

 最新の研究結果によると、縄文人の祖先は、東南アジアから中国を北上し北海道経由で本州に

入った「北方系」の集団と、東南アジアから日本列島を北上した「南方系」の集団がいた可能性があ

るという。富山市の小竹貝塚で出土した多くの人骨DNA鑑定によると、北方系と南方系の人たちが一緒に

暮らしていたことが判明している。


 我々の祖先は、既に縄文時代から、北方系と南方系が混住していたことが分かる。こうしたDNA

鑑定による日本人のルーツ探しに興味がないわけではないが、むしろ東北の基層文化は、ブナ帯の自然と

風土が決定的な要因になっているように思う。

1万年も続いた縄文文化

 氷河期の日本列島の植生は、北海道は森林ツンドラ、本州は針葉樹が主体で荒涼な環境が支配

していた。

 やがて気候の温暖化によって、今から約1万3000年前になると、列島の多くがブナ、ミズナラ

などの落葉広葉樹林とシイ、カシなどの照葉樹林で覆われ、今日の植生ができあがった。縄文時代は、

この頃から約2300年前に稲作農耕が渡来するまで1万年も続いた。

▲ブナ ▲ミズナラ


縄文文化は東高西低

 日本の歴史は、西高東低だが、縄文時代に限れば、東高西低だった。

その最大の理由は、東日本の落葉広葉樹林と西日本の照葉樹林という植

生の違いである。広葉樹林には、ブナやクリ、ナラ、トチ、ク

ルミなどの実が豊富で、これらの堅果類が人間だけでなく、野生鳥獣にとっ

ても貴重な食糧となっていた。

 さらに、山菜やキノコ、イワナやヤマメ、サクラマス、サケなどのサケ科魚類

の宝庫でもあった。従って、狩猟漁労採集を生業とする縄文時代には、ブナ

帯地域の人口が照葉樹林地域を大きく上回っていたことが分かる。

「縄文ブーム」を巻き起こした「三内丸山遺跡」

 1796年、菅江真澄は、「すみかの山」の紀行文の中で、現在の三内丸山

の遺跡から出土した土器や土偶などの遺物があったことを記している。

 「三内村の古い堰の崩れたところから、縄形、布形の縄文土器、あるいは、

かめの壊れたような形をしたものを発掘したといってあるのを見た・・・また、人

の頭、仮面などの形をした出土品もあり、ミカベノヨロイに似たものもあった」

 平成6年の夏、全国的に有名な三内丸山遺跡が発見された。それは5500

から4000年前まで、1500年間500人が定住した全国最大の遺跡だと発表

され、世間を驚かせた。この三内丸山遺跡の発見は、野蛮だという縄文時代

のイメージを一変させ、「縄文ブーム」が巻き起こった。

① 大型掘立柱建物

 直径1m、高さ14.7mに及ぶクリの巨木を使った6本柱は、近付けば近付く

ほどその巨大さに驚かされる。この木を人力で運ぶには、屈強な男が100人

も要するという。集落の大きさが容易に想像できる。見張り台や祭り、大型の

建物説などがあるという。

② 日本最大の大型竪穴住居

 復元された大型竪穴住居跡は、長さが約32m、幅約9.8m、床面積250m

2で、日本最大。集会場や共同作業場などに使われたのではないか。この中に

300人も入るという。大きいだけでなく、木の表面を焼いて腐れや虫食いを防

する処理が施されている。ちなみに大型竪穴住居とは、長さが10m以上の竪

住居で、この遺跡では11軒見つかっている。

③ 縄文都市

 縄文時代の道は、けもの道程度と思われがちだが、道路跡の幅は5m~14

mと広く、しかも平らに地面を削り、地盤が軟弱なところには硬い土がまかれて

いた。集落内の施設配置は、規則性が見られる。掘立柱建物群には道路が接

続し、道路の両側には大人の墓が並んでいる。

 竪穴住居は、大人の墓とは離れた場所にあり、ゴミ捨て場などの盛土遺構で

区画された範囲に作られている。つまり、大規模な土木工事によって縄文都市

が形成されていたのである。

④ 再生を願う子供の墓

 子どもの墓だけは、なぜか住居の近くに集中している。幼くして死んだ子ども

は、再び戻ってくることを祈りながら、神に返したと考えられている。その幼い

亡骸は、土器を母の胎内に見立てて、その中に納めた。思えば、つい最近まで

、7歳までに死んだ子供は別の人間に生まれ変わることができると信じられて

いた。だから、そんな子供は墓ではなく、土間や台所などに埋める風習があっ

た。

⑤ 食料を保管した高床式建物

 ネズミなどの害を防ぎ、風通しを良くするために高床式にした食料保管庫と

考えられている。驚かされるのは、木と木をつなぐ接合部(右の写真)。鋭利

な石器で接合部を切り抜き、穴と凸部を組み合わせる高度な技術が、今から

4,500年も前に既に確立されていたのである。

⑥ 食料の栽培と縄文里山

 自然の恵みに加えて、クリをはじめ、ヒョウタン、エゴマ、ゴボウ、マメなどの

栽培も取り入れ、1500年という長期にわたって安定した定住生活が続いた

。また、ヤマブドウ、木イチゴ、サルナシ、ニワトコなどで、果実酒さえ作って楽

しんでいたという。

 花粉のDNA分析などから明らかになったことは、ブナ林を中心とする落葉

広葉樹が広がる自然環境に、資源の維持・管理を目的とした積極的な関与

が行われ、クリ林やクルミ林、漆などの有用な樹種で構成され「縄文里

」と呼びうる人為的な生態系を成立させ、生業を維持していたことである。

▲ウルシの液を塗る様子 ▲5500年前の網カゴ「縄文ポシェット」


⑦ 高水準の木工、編み物、装飾品

 食料の獲得と消費に係る道具だけでなく、生活用具や祭祀儀礼用具、装

飾品など縄文文化を代表する道具類が極限まで発達していたことが分かる

。木地物のルーツとも言える木製容器には、仕上げの最後に漆が塗られて

いた。

 有名な「縄文ポシェット」は、針葉樹(ヒノキ科)の樹皮を「網代編み」で編ん

だ小型の袋で、中には割れたクルミの実が一つ入っていた。現在、我々が

使っているカゴ類のほとんどが縄文時代の早い段階で用いられていたので

ある。

 また、耳飾りや髪飾り、胸飾り、腕飾り、腰飾りなど、今日見られる装身具

の大半は、既に縄文人が身に着けていた。しかも漆塗りの美しい装身具も

たくさん発見されている。縄文前期には、高度な漆工技術が既に完成してい

たという。

▲北海道産黒曜石 ▲新潟県糸魚川産ヒスイ製大珠(たいしゅ)


⑧ 遠隔地との交流

 北海道産の黒曜石、新潟県糸魚川産のヒスイ、岩手産の琥珀、秋田産の

アスファルトなど、活発な交易がおこなわれていた。・・・全てにおいてビッグ

な遺跡である。

土器を必要とした理由

 何故、縄文人は土器を必要としたのだろうか・・・魚や獣肉は煮るよりも焼い

て食べる方が美味しいと思うが、土器で煮てから食べる必要があった食べ物

には、どんな物があったのだろうか。

 広葉樹の森には、ドングリやトチの実、クルミ、クリなどの堅果類が豊富な実

をつける。その堅果類の多くは、ワラビやフキ、ゼンマイなどの山菜と同じく、ア

クが強くてそのままでは食べられない。石皿やスリ石などの製粉具と加熱処理

してアクを抜き、食べやすいように軟らかくするために土器が必要になった。

 また、縄文人は、多くの貝塚を残している。貝類は、煮ると蓋を開き、良い出

汁が出る。恐らく、貝類や海藻類も土器で煮て食べたに違いない。こうした煮る

ことによって食用にすることができる動植物が多く、それが土器を発達させたと

言われている。

アニミズムと土偶

 火山の噴火や地震、雷、洪水、疫病など人智を超えた自然現象を恐れ敬い

自然を崇拝していた。その儀礼祭祀用具の一つが土偶である。

 中期の北東北から北海道南部には、十字状や三角形状の板状土偶が、晩

期には亀ヶ岡遺跡のシンボルでもある遮光器土偶が発見される。また土偶は

主に女性を形象したり、男性のシンボルをかたどった石棒もある。中期になる

と、男根がよりリアルになり、中には2mを超える大型もつくられるようになる。

縄文カレンダー

 内陸部の縄文カレンダーによると、春は山菜採りと貝類の採取、夏はマス

類を中心とした川漁、秋は木の実・きのこ採取とサケ漁、冬は野生鳥獣の旬

の季節で雪を利用した狩猟という四季の生業パターンからなっている。これ

は、ブナ帯に生きるマタギの生業カレンダーとほぼ同じであることが分かる。

▲大湯環状列石(鹿角市)

 東北は、関東・中部地方や北海道南部などと縄文文化の先進地であった。

その証として北海道・北東北縄文遺跡群は、2009年、ユネスコ世界遺

産暫定リストに記載された。その秋田県代表が鹿角市の大湯環状列石と

北秋田市の伊勢堂岱遺跡のストーンサークルである。

▲伊勢堂岱遺跡のストーンサークル(北秋田市)

 ストーンサークルは、高台を大規模な土木工事で土地造成し、数千にも

及ぶ大石を設計に基づいて環状に配列した。これを「日時計」とする説もあ

るが、いくつかの集団の共同墓地と考えられる。縄文人は、太陽の動きと

その周期を理解し、日没の光景に人間の死を見ていたのであろう。また石

と墓地から連想すれば、今日の先祖崇拝、石神信仰のルーツは、既に縄

文時代にあったことになる。

▲亀ヶ岡石器時代遺跡(青森県つがる市)


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