安保関連法案は「違憲」・・・ 3人の憲法学者が国会で(15/06/04)
◆このビデオの中で、長谷部氏の後ろにいる人。議員ではありませんよね。なぜここにすわっているのでしょうか?後ろの列の右端の人。慶応大の憲法学者ですって。
彼の祖父について、下に記事を載せておきます。
この長谷部氏がなぜ、自民党からの推薦にも関わらず、このように違憲だといったのか。
さゆふらっとでは、興味深い話がありました。
「違憲であるなら、憲法を改定すべし」という話になるのではないか。ということです。
確かにそうですね。それなら、衆参議員を不正選挙で、3分の2の議席を取ってしまえば、憲法を変えることができるからです。国民が喜ぶのはまだまだ、早いのですね。敵はしぶといです。憲法を何がなんでも変えたい。それが、カルト自民党です。PCの中でも、憲法は進駐軍に押し付けられたと書いている人が見受けられます。内容をよく調べればわかるはずです。多分アベバカチンは戦前の憲法に戻そうとしていると思いますし、成績もあまりよくなかったらしい彼は中身すら知らないのではないでしょうか?。アベバカチンと同じような人種が多いらしいですね。
さて、ルイネットから、一部を転載しました。黄色のしるしの文については、私は異論を唱えたいです。歴史的に中国はシルクロードを通って貿易により莫大な金銀を手に入れていたのです。それを奪うようにアヘンを中国へ流したのがヨーロッパ王族たちです。そして、日本の皇族はその後の戦争で、手に入れたのです。敗戦ではなく、勝戦でした。天皇家にとっては、大儲けの戦争でした。
このフィリピンの隠し金塊については、カレンヒューダス女史の言うところの、そしてコブラも言っている人類を助けるための金塊のことだと思われます。残念ですが、ベンフルフォードの人類を助けるアメリカ国債と、インドネシアにある金塊の山については、まだ確証をえていないようですね。カレンヒューダス女史とベンは当初、互いに相手のものは、嘘だと言い合っていて、私も困惑しましたが、どうやらここにきて、ヒューダス女史の方が間違いなさそうです。フルフォードもこのように、当初からの情報に誤りが出てくるようになりましたが、それはフルフォードを懐柔しようとする勢力があるからでしょうね。
高橋五郎の本を読んでいませんので、ここに書かれていることのみで、私の意見を書きました。文の前後がないので、取り方が色々考えられます。あしからず。
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ルイネットhttp://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&t=6&k=2&m=304755より転載しました。
290260で触れられているが、フィリピンに埋蔵されている金塊は4千トンどころではないようだ。
追記======= 戦後フィリピンの山の中にいた、小野田寛郎(ひろお)少尉が、戦後30年経ってから帰国を果たしたことは、まだ記憶に新しいですが。彼が日本に帰国してから、実家に帰るまでの間、東京に1か月も足止めされていたことは、知りませんでした。なぜ横井正一氏の時と違うのか。不思議に思っていました。横井正一氏は軍の地位は低かったのです。 ウィキペディアより一部転載しました。 生い立ち[編集]大正11年、和歌山県海草郡亀川村(現・海南市)にて父・種次郎(県議会議員)、母・タマエ(教師)の間に小野田家の四男として生まれる。 旧制海南中学校時代は剣道選手として活躍。中学校卒業後は民間の貿易会社(田島洋行)に就職し、中華民国の漢口支店勤務となり中国語を習得。 なお、長兄・敏郎は東京帝国大学医学部・陸軍軍医学校卒の軍医将校(終戦時最終階級陸軍軍医中佐)、次兄・格郎は陸軍経理学校卒の経理将校(最終階級陸軍主計大尉)で、弟・滋郎はのちに陸軍士官学校に入校し航空部隊関係の兵科将校(最終階級陸軍少尉)となっている。これら兄弟は相当のエリートかつ高学歴の現役陸軍将校であったが、寛郎だけは軍人の道を歩まずまた旧制高等学校への進学もしておらず、兄弟の中では経歴・学歴面では浮いた存在である。 軍歴[編集]上海の商事会社で働いていた昭和17年(1942年)12月、満20歳のため徴兵検査(徴募)を受け本籍のある和歌山歩兵第61連隊(当時61i本隊は戦地に動員中のため、その留守部隊)に現役兵たる陸軍二等兵として入営。同時に61i留守部隊をもとに編成された歩兵第218連隊に転属、218iにて在営中に甲種幹部候補生(予備役将校を養成)を志願しこれに合格、昭和19年(1944年)1月に久留米第一陸軍予備士官学校へ入校する。卒業後、中国語や英語が堪能だった事から選抜され同年9月に陸軍中野学校二俣分校入校、主に遊撃戦の教育を受け、退校命令を受領(中野学校は軍歴を残さないため卒業ではなく退校を使用)。11月に事実上の卒業後、見習士官(陸軍曹長)を経て予備陸軍少尉に任官。 同年12月、フィリピン防衛戦を担当する第14方面軍情報部付となり、残置諜者および遊撃指揮の任務を与えられフィリピンに派遣。当地では14HA隷下の第8師団参謀部付(配属)となっており、その8D長横山静雄陸軍中将から「玉砕は一切まかりならぬ。3年でも、5年でも頑張れ。必ず迎えに行く。それまで兵隊が1人でも残っている間は、ヤシの実を齧ってでもその兵隊を使って頑張ってくれ。いいか、重ねて言うが、玉砕は絶対に許さん。わかったな」の訓示を受けている[1]。派遣にあたり、高級司令部が持っている情報は全て教えられ、日本が占領された後も連合国軍と戦い続けるとの計画であった。なお派遣前、母親からは「敵の捕虜となる恐れがあるときには、この短刀で立派な最後を遂げてください」と言われ短刀を渡された(この短刀は帰国後に実家に帰った際に母親に返している)[2]。 帰国後[編集]帰国の際に「天皇陛下万歳」を叫んだ事や現地軍との銃撃戦によって多数の軍人や住民が死傷した出来事が明らかになった事(フィリピン政府当局の判断により、小野田への訴追は行われなかった)、また本当に敗戦を知らなかったのか、という疑問が高まるに連れて、マスコミからは「軍人精神の権化」「軍国主義の亡霊」といった批判もあった。 小野田に対し、日本国政府は見舞金として100万円を贈呈するが、小野田は拒否する。拒否するも見舞金を渡されたので、小野田は見舞金と方々から寄せられた義援金の全てを、靖国神社に寄付している。昭和天皇との会見も断り(万が一、天皇が謝罪するようなことを避けるため)、小野田は戦闘で亡くなった島田と小塚の墓を参っている。 ~~~~~~~~~~~~~ ◆ 「天皇陛下万歳」を言ったのは、覚えています。マインドコントロールは本当におそろしいです。彼がなぜ東京に足止めされていたのかは、明らかにされていませんが、一部では、フィリピンの金塊の場所を知っているため、あるいはその地を守っていた為ではないか、と言う話もあります。彼の経歴だけを見ると、大したことはないように思えますが。家族の経歴と、自身の陸軍中野学校卒業とくれば、当時は相当な人物であったと思いますね。 晩年は田ボ神氏を応援していたようです。これは利用されたと思います。
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