https://www.uv.es/vguillem/Tamashii_no_Housoku.pdf (日本語訳全文)
「魂の法則」 ヴィセント・ギリェム著~人間関係と愛の法則
(双子の魂)

(作者あとがきをご覧ください)
https://blog.goo.ne.jp/y-hne/e/d644c9fe4a68408429a35f4b1e30b3ea
♬著者ヴィセント・ギリェム氏は、広めることを希望していますので、抜粋して投稿しています。氏および翻訳者のご厚意に感謝いたします。
https://www.uv.es/vguillem/Tamashii_no_Housoku.pdf (日本語訳全文)
「魂の法則」 ヴィセント・ギリェム著~人間関係と愛の法則
(双子の魂)
(作者あとがきをご覧ください)
https://blog.goo.ne.jp/y-hne/e/d644c9fe4a68408429a35f4b1e30b3ea
♬著者ヴィセント・ギリェム氏は、広めることを希望していますので、抜粋して投稿しています。氏および翻訳者のご厚意に感謝いたします。
https://www.uv.es/vguillem/Tamashii_no_Housoku.pdf (日本語訳全文)
「魂の法則」 ヴィセント・ギリェム著~
悲しみ・絶望・苦々しさ・自暴自棄・諦め
P160~P175
(P160~P175)
悲しみ・絶望・苦々しさ・自暴自棄・諦め
悲しみは、士気の喪失と低下という情緒的な状態だ。 悲しみは、攻撃性と同じ原因や状況で生じがちだが、感受性がもっと 強い人の場合にそうなるのであり、我欲に由来していることが攻撃欲ほど明白ではないので、捉えるのが難しい。
実際、無力感や罪悪感や、場合によっては憤りと自棄も、本当は攻撃 性と悲しみの入り混じったものだ。 悲しみは、自分が求める成果が見られなかったり、結果が期待したも のと違ったりして、憔悴したりがっかりした際に表れる。 悲しみには色々な形態があり、それぞれに特色がある。 苦々しさは恒常的な悲しみで、長期に及ぶ。日常生活の妨げとはなら ないが、とても深く内面に根を張っているので超えるのが難しく、悲し みによってその人が少しずつ死んでいくような印象を与える。努力する 動機づけや生き甲斐がないというのが特徴である、絶望と諦めという悲しみの形態にも深く関連しているが、後者は通常、認めたくないような 状況から生まれる。
自暴自棄は、鋭く強烈な悲しみの極端なもので、日常的ないかなる仕 事も行えなくなり、精神不安定になって自分の命や他者の命を奪うなど、 致命的な行為に及ぶことがある。
*悲しみが我欲の感情だと思われているのは、予想外でした。
ところがそうなのだ。人が時々悲しくなるのはとても普通のことだ。 だが、諦めて投げ出してしまって、悲しみがその人の日常的な状態にな ってしまうと、それは停滞した状態なのだ。悲しみは、霊的成長の努力 を怠る口実となるのだ。
*悲しい時に、誰かに何か悪いことをするとでも言うのでしょうか。
悲しみは自分に有害であるし、間接的には他者をも害する。悲しみの せいで、自分の務めが果たせなくなる場合があるからだ。悲しみや落胆 に沈んでいる人と一緒に暮らすのは、とても疲弊することなので、大変 強い意志力を持たない限り、うつ状態の人と暮らす者たちにも容易にそ の状態がうつってしまう。
悲しみが蓄積されると、攻撃欲と同じように、多数の病気を引き起こ す。悲しみで病気になり死んでしまい、今生で取り組んでいた試練や使 命を途中で止めてしまう人は大勢いる。そうした人たちは、同時に、他 の魂たちを助けるという約束も投げ出しているのだ。たとえば、悲しみ に蝕まれて死んでしまう父親や母親は、子どもたちを見捨てているのだ。
*悲しみはどう超えたらいいでしょう。
攻撃性と悲しみを生み出す要因は大変似通っているので、攻撃性を乗 り越えるために処方したレシピを、ほぼその一点一点、悲しみを克服す ることにも適用できる。 それゆえ、悲しみを乗り越えるための基本となるのは、理解である。 自分自身への理解、他者への理解、我々の人生の状況への理解。 我々が直面する逆境の多くは、愛の学習と我欲の克服という工程の一 部を成しており、その多くは生まれる前に我々自身で選んだものだと理 解するのだ。
そしてその他のものは、他者への不寛容・頑固さ・無理解 などで、我々自身が招いたものなのだ。 時には、自分が間違っているのを認めたくなかったり、自分自身の利 己的な態度を認めたくないために、悲しくなる場合があるのだと理解す ること。
誰かに傷つけられて悲しくなるのであれば、それは、その魂の成長が 足りないためで、愛の知識をまだほとんど持たないためなのだと理解す るのだ。 自分らしさを抑圧したり、意志を黙殺して悲しくなるのであれば、自 分を在るがままに表現するよう努めて、悲しみを超えるのだ。
*あなたのレシピは、諦めを勧めているようですが。
とんでもない。理解と諦めは全く異なるものだ。諦める者は、匙を投 げ、理解を放棄し、自分の意志を否定する人だ。もうどうでもいい、と 生きる希望を失い、落ち込むのだ。 もう言ったことだが、諦めも、悲しみに関連する我欲の一形態なのだ。 それは苦しみを避けるために頑張らない、というやり方なのだ。しかし、 この方法では、別の理由でだが、もっと苦しむことになる。 理解は、生きる希望と悦びを失わずに、努力し続けて前進する鍵とな るのだ。以前は分からなかったことにも、意味を見出すことを可能とす るからだ。
*諦めと理解の違いがはっきりする例を挙げていただけますか。
例を挙げれば、死に対する姿勢だ。 君たちの世界の大半の人は、死に対して諦めの態度をとるが、それは 死の意味を理解しようとしないからだ。君たちは生きている間は、死と 向き合うことを避け、懸念を直視しようとしない。 この話題について真面目に話をしたがる人に出くわすと、冗舌家か頭 のおかしい人に思えるのだ。本当は君たちは怖いので、この話題を避け て、日々の雑事に没頭しているのだ。理解しようとはせず、ただ避けて いるのだ。 そうするうちに、愛する者が突然死んで、驚愕するのだ。この状況は、 悲しみ・苦々しさ・憤怒・無力感をもたらす。そして、このどうしよう もない事実を変えることが不可能なので、最後に諦めてしまうのだ。諦 める者は、仕方がないので受容せざるを得ないものの、理解できていな いので、不機嫌に暮らし無益に苦しむのだ。 死は単なる移行期で、実際に死ぬのは体だけで愛する者は生き続け、 遅かれ早かれまた一緒になれる、と理解できる者は、もう生きる希望を 失うことがない。そればかりか、再会の時が来たら大いに楽しめるよう に、物質界で何もやり残さないようにと、もっと頑張って生きようとす る。 進化した世界では、人が死んでもそれが肉体からの離脱のプロセスだ と皆が理解しているので、誰も、悲しんだり、絶望的になったり、苦々しく思ったりしない。
その反対に、仲間が魂の真の故郷である霊界に戻 るので、喜んであげるのだ。
淫乱と色欲
セックスへの依存は、虚栄心の顕れでも自尊心の顕れでもある。 だが、人がセックスを常習するようになる原因は、それぞれの場合で 異なる。そのため、見栄っ張りな者に特有の淫乱と、自尊心の強い者と 尊大な者の特徴である色欲という、二つの表現形態に区別してみよう。 淫乱とは、セックスの悦びへ過度に傾倒することだ。虚栄心の強い者 のセックスへの依存は、他者から認められたいという欲求と関係してい る。
つまり、セックスを通して人から認められたり、称賛されたりちや ほやされることを期待しているのだ。彼らは、自分自身を満たす手段と して性的快楽に溺れるが、他者の欲求を配慮することがほとんどない。 しばしばセックスを利用して人を独占し、意のままにしたり優位に立と うとする。 感覚が飽和しあきあきしてしまうと、性欲をメンタルに駆り立てる手 段として新しい刺激を探す。
それは、パートナーを頻繁に変えることで あったり、サディズムとマゾヒズムなどの堕落した性様式に訴えたり、 他の人たちをその意に反して乱交に巻き込んだりといったものだ。
一方、自尊心が強い人のセックスの常習は、愛せる人がいないことを 認められないとか、特定の人への愛情を抑圧したり認めようとしないな どの、愛情の空虚感や欲求に起因している。 つまり、自尊心の強い者が本当に必要としているのは、愛され愛すこ となのだが、自分の愛情欲を認識せずに抑圧してしまうことが、安全弁 のように、セックスへと逃避させてしまうのだ。
要は、愛の欠如をセッ クスで補っているのだ。そのために過度の性欲があるが、虚無感は、性 的なものではなく感情的なものなので、性関係では満たすことができず に満足できない。 そこで、益々セックスを求めるようになる。そうすることで、この空 虚感を癒そうとするのだが、上手く行かずに、前述のような堕落した様 式に至る場合もある。
*色欲はどう克服するのですか。
色欲に関しては、セックスによって満たそうとしている内面の虚無感 は愛情の欠如によるもので、愛情だけがそれを満たすことができると認 めることが、それを克服する唯一の方法だ。
*淫乱はどう克服しますか。
それが虚栄心の反映したものだと認識して、それでは絶対に幸せにな れないことに気づくのだ。 残念だが淫乱のケースの大半は、若さや肉体美や性力などの衰えが顕 れ、性的魅力を失ったり、体が精神的な性欲に応じられなくなった時に、 自然に消滅するのだ。肉体の衰えにより、自分の取り巻き連中は消え、 それまでの人生の主要な刺激剤も失われる。 こうして人は、便宜上の虚しい関係を築きながら、無意味な人生を送 ってしまったという、厳しい現実に直面するのだ。肉体的な魅力だけで 寄って来る人たちに囲まれていたが、魅力が失われるや、その人たちは 魔法のように消え失せるのだ。
その人の我欲にも関わらず、本当に愛し てくれた何人かが残ってくれるかもしれないが、彼らに注意を払ったこ となどほとんどなかった筈だ。 虚栄心を満足させるために使用した外見美という武器が失われてしま うと、真相にずっと近い新たな局面と対峙しなければならない。そこで は、人を惹き付けるためには、自分の内面から何か美しいものを引き出 さねばならないのだ。こうして、便宜上の関係と気持ちの通う関係との 違いを評価できるようになり、後者を尊重することを学ぶだろう。
*でしたら、美しく魅力的な人たちだけが淫乱なのですか。
そうではないが、その多くが淫乱の深みに陥り易い。 魅力がないその他の見栄っ張りな人たちは、そうしたいと思っても、 欲しいものを手に入れる餌としては、肉体的な魅力を利用できないから だ。そういう場合は、虚栄心が羨望を呼び起こし、自分が持たない美貌 を獲得したいという叶え難い欲望にかられ、体重を落としたり、整形手 術を何度も受けようとする考えに取りつかれ、自分をより魅力的に見せ ようとする。 肉体的に魅力的なのに、完全な肉体を持とうとする執念に捉われてし まう人は多く、それは「ナルシシズム」または「肉体信仰」と呼ばれる 虚栄心の具現形態の一つである。
*ナルシシズムまたは「肉体信仰」がどういうものなのか、もう少し広 く説明いただけますか。
それは、今言ったように、虚栄心の表現形態の一つであり、自己の肉 体美が望み得る最大の価値を持つものとして傑出するものだ。 自分の体で満足できずに「完全な肉体」を求めることは、脅迫観念へ と変わる。これは精神的な病気であり、食べることを止めたり、あらゆる種類の痩身サプリ・強壮剤・興奮剤などを摂ったり、自分の命を危険 にさらすことさえいとわず、様々な人工物をインプラントするといった、 常軌を逸脱した行動を取る。
ナルシシズムに感化されてしまった人は、絶対に自分の体で納得しな い。時間とエネルギー、意志とお金の全てを、肉体の改善へと費やして しまう。肉体自体が自分自身だと思い込んでいるのだが、実際には、物 質界で動くために使用する衣服に過ぎない。 いつかは理想的な肉体を手にして幸せになれるのだ、という偽りの幻 想を抱いている。そして幻想を利用して儲けている、エステ産業や化粧 業界や消費主義によって、その信念が益々強まっていく。だが、その幻 想は我欲が仕掛けた罠に過ぎず、それでは幸福にはなれない。幸福は、 愛を育むことでしか獲得できないのだ。
そのため、不満はどんどん膨張 する。 そして、体内時計が老年へと向かって情け容赦なく進んで行くにつれ て、あんなにも一生懸命になって得られた成果が、老化という自然現象 に台なしにされていくように思える。人生はこうして過ぎていき、かつ ては美しかった肉体を完全に去る時が来て、非情にも自然の腐敗プロセ スが宣告される。 魂は霊界に戻ると、今や墓の中で朽ちた自分自身ではなかった肉体を 美しくしようと無駄に時間と努力を費やしたことに気づき、魂という永 続する本当の自分を改善することにはほとんど努力しなかったことに気 づく。 しかし、手遅れなことなどない。魂の命は存続するので、再び生まれ 変わって、着ている肉体を自分だと思い込んで無駄にしてしまった人生 でやらなかった事を、もう一度やり直せるのだ。
*こういう見方をすると、肉体美は魂の進歩にとっては障害だと言って もいいですね。
私の話から、美しさはそれ自体がネガティブな特性なのだと思わない で欲しい。その反対に、魂が進化していくにつれて内面の美に呼応して、 魂が宿る肉体はより完全により美しくなるのだ。そして実際に、君たち よりも霊的に進化している物質界では、そうなっているのだ。 しかし、進化の乏しい魂たちが支配する後進的な世界では、確かに諸 刃の剣となる。虚栄の段階から抜け出せない進化の乏しい魂にとっては、 肉体的な魅力は虚栄心の奔放を許す武器となり、そのために使用される。 気紛れ・下品・不躾・横柄に振舞っても、自分の肉体美が欲しいものを与えてくれると知っているのだ。それは、称賛してくれる者やちやほや してくれる人たちだ。
目も眩む体の美しさで欲しいものが手に入るのな ら、なぜ善い人になる努力をする必要があろうか? …こうしていつしか老年になり、自分の唯一の魅力を失い、独り取り 残されて、自分のモラルの貧しさに失望する。美しく魅力的な外見を維 持することばかりにかまけていて、内面を改善しようと努めたことが一 度もなかったからだ。
*ナルシシズムはどう克服しますか。
自分は肉体ではないので、肉体にそれほど煩わされるべきではないと 認識するのだ。人が幸せになるためには、自分自身を、つまり自分の内 面を耕さねばならないのだ。 肉体美という罠に陥った多くの魂がそのことを知っている。そのため、 自分の体ばかりを眺めて人生をそれ以上浪費したくないので、直ぐ後の 転生ではありがたみの少ない肉体を選ぶのである。我欲を克服して人間 として改善したいので、美しい肉体を持つことが誘惑の原因となるので あれば、現状では持たない方を選ぶのだ。
*それでは自尊心の強い者は「肉体信仰」に陥らない、つまり、自分の 体に不満を覚えたり、魅力的で美しくなりたい、と熱烈に願いはしない のですか。
もちろん願いはするが、見栄っ張りな者とは違う要因でそうするのだ。 気位の高い者は、称賛の的となるよりも、愛されることを求めている のだが、もっと美しくなればもっと愛してもらえる、と間違って信じ込 んでしまうのだ。 自尊心の強い者がハンサムな場合は、周りの人たちは自分を好きでそ ばにいるのではなく肉体やその他の魅力に惹かれているからで、飽きた りもっと素敵な人に出会えば簡単に捨てられてしまう、と知ってしまう と失望する。
*僕たちは、本当は魂であって肉体ではないのに、どうして自分の魂を 意識せず、身体ばかりを自分と同一視するのでしょうか。
それが君たちの世界が教えることだからだ。 魂は存在せず、人とはそ の体であると教えている。君たちの快楽主義の世の中では、評価される 資質とは物的なもの(肉体美・富・権力)で、内的な資質(感受性・慈 悲深さ・謙虚さ・慎み深さ)は軽視されるのだ。
霊界では、それと全く逆だ。全ての霊的な資質が評価される。中でも 謙虚さは最も評価される資質の一つだが、外的な資質は、魂個有のもの ではないので、何の価値もない。外的な資質は、劇の作品が変われば俳 優の衣装替えがされるように、ある人生から他の人生で変化するので、 状況的な付随物だと考えられている。人は、今生では外見的に美しくて も、次の転生では醜いかもしれないし、今回は金持ちでも、次回は貧し いかもしれないのだ。
魂は、肉体から離れている間は、その違いが明確に分かっていて、霊 性の改善のためにこの世にやって来ると知っている。しかし肉体に宿る と、身体との一体感や過去の忘却や、転生先の文化の影響などで、霊的 に改善する目的意識の低い魂は、自分を完全に肉体と同一視してしまう。 そして、魂が顕現するということには、個人的に経験したことも他者の 経験も、頭から否定するのだ。
*魂の顕現とは何を意味するのですか。
魂の存在とその能力を示す全てのものだ。それらはたとえば、肉体を 持たない存在たちとの交信、幽体離脱、自他の気持ちを直感すること、 五感以外での超感知などだ。このような体験をした多くの人が、頭がお かしいと見なされる。だから、自分の霊感に自信のあるかなり進歩した 魂でなければ、自分が気が狂っていて精神療法が必要だと信じ込むに至 るだろう。
怖れ
怖れとは、懸念・動揺・不安の感情であり、自分や自分が愛する者へ の危険や脅威を感知して生まれるが、危険自体は、現実的なものである 場合と、想像上のものである場合がある。 怖れに脅かされている者は、自分に全く自信がなく無防備であると感 じ、大事な決断では、感情または肉体を傷つける悪い結果になりはしな いかといつも迷う。しかも怖れは怖れを呼ぶ。つまり、怖れは頭を過度 に刺激して、現実の状況を、空想上の脅威が出現する架空の状況に創り 変えてしまう。
しかも、それを本物だと信じてしまい、現実の脅威だけ ではなく想像上の脅威によっても、自分の怖れを増大させてしまうのだ。 怖れは心配も引き起こす。頭の中で、脅威となり得るあらゆる状況を 予め想定して、その全てから無傷で逃れる方法を探そうとするからだ。 恐怖とパニックは、強烈で鋭い怖れの感覚で、非常にトラウマとなり易い。
怖れは、自分が在るがままに振舞う妨げとなるので、霊的進化に最も 有害な感情の一つである。進化する意志のある善意の魂でさえも、怖れ を乗り越えられなければ、長期にわたって成長が滞ってしまうことがあ り得る。
*でも、全ての怖れが同じだとは思わないのですが。
もちろん違う。だが一般的に、怖れは魂を抑圧して、気持ちに従って 行動できなくさせ、感情を窒息させて完全に抑制してしまうことさえあ る。そのため、停滞してしまうのだ。
*しかし、正確には何を怖れているのですか。
最も一般的な怖れは、自分への他者の否定的な反応をこわがるものだ。 この定義から派生する怖れとしては、愛してもらえない怖れ、理解して もらえない怖れ、拒否されたり軽蔑される怖れ、攻撃性(肉体的・精神 的暴力)への怖れ、孤独になる怖れなどがある。 ところで、自分への他者の否定的反応が怖いと、その怖れが、在るが ままの自分を表現する怖れをもっと増長させてしまう。そして、これに 負けてしまうと、他者が望む自分らしくない振舞いをしてしまう。
他者 とはこの場合、身近にいる人で、愛する人や家族(母親・父親・兄弟・ 伴侶など)のように、少なくとも愛情を期待できる人のことだが、全般 には、どんな人間関係にも当てはまる。この怖れは、家族内外を問わず、 こどもが肉体的・精神的な暴力や虐待の対象となった幼児期に由来する ことが多い。
前述のカテゴリーに入らない怖れとしては、未知なものへの怖れ、死 への怖れ、苦痛(肉体的または精神的)への怖れがある。 未知への怖れは、不安を呼ぶ。人は、知らないものについて、多大な 脅威や危険を想像してしまうものなのだ。実際のところ、死の恐怖とい うものは未知への怖れであり、死後に起こり得る未知なるものへの怖れ であるか、無というもっと冷酷なものがやって来ることへの怖れである。
まだもう一つ別の怖れがある。人間にとっては最大の怖れで、他のも のはそこから派生するので、特別に言及しておく必要がある。それは、 自分自身を知ることへの怖れであり、自分の欠点や美徳も含めて、自分 が本当はどういう人なのかを発見する怖れである。 我々は、我々自身の欠点を知るのが怖い。我々は、自分にエゴがある ことや、自分の災いのほとんどが自我のせいだということがなかなか納得できないために、欠点を認識すれば余計に苦しむに違いないという誤 った思い込みをしているのだ。気づきは、我欲の一形態に過ぎない「自 己愛」を苦しませはするが、幸せになろうとして我欲からの解放を望ん でいる魂を痛めることはない。 エゴから解放されるためには、先ず自分自身にエゴがあることを認め て、次にそれがどう表面化するのかを認識しないといけない。認めるの を怖れてはならない。
我欲は全員に存在していて、それからの脱却の過 程のどの地点にいるかが違うだけなのだ。だが、自分自身を知ることを 怖れて長期にわたって我欲を覆い隠してしまうと、我々は停滞してしま い、ずっと苦しむことになるのだ。 同様に、我々は、愛情・感受性・謙虚さ・優しさ・同情・博愛など、 自分の美徳や愛の表現を発見することを恐れる。実際にそうすることで、 傷つけられたり利用されたりして苦しむのが怖いのだ。そしてそこから、 自分に対する他者の否定的な反応への怖れが生まれるのだ。 しかしそれにも関わらず、この怖れに打ち克ち、自分自身になって、 愛情深い自己を目覚めさせるために戦えば、内なる幸福が大変強くなる ので、外部からのどんな苦痛や攻撃にも屈しなくなる。 死に対する恐怖も、自分自身を知る怖れから生じている。死が終わり で、意識である自分自身が抹殺されると信じているので怖いのだ。
自分 を深く見つめる怖れを失えば、心の奥底で「死は存在しない! 君は不死 身だ!」と叫んでいる魂の声を聞くことができよう。その時に、存在し なくなることへの怖れ、つまり死の恐怖は、消えるだろう。
*怖れは、魂の進化に、具体的にどのように影響しますか。
すでに言ったが、怖れによる致命的な影響は、魂が自分を在るがまま に表現するのを止めてしまい、気持ちに従って行動するのを抑制してし まうことだ。人は自分自身でいなければ、自由意志が囚われているので、 霊的に成長できない。自由に決断ができず、いつも怖れにさいなまされ る。恐れに支配されるのだ。そして、失敗すると思い込むので、霊性進 化に有益となり得るどんな状況にも立ち向かおうとしない。
怖れとは、地球の権力者たちが、人類を操り、霊的に停滞した状態に 保つために利用する感情だ。彼らは、人間が取り組もうとする霊的な挑 戦には、必ず架空の敵という脅威を創り出し、偽りの安全と引き換えに、 挑戦を止めさせるのだ。
それは、彼ら自身も怖いからだ。人類に霊性・愛情・兄弟愛が目覚め て彼らの悪行が明るみになり、自分たちの犯罪が裁かれ有罪となり、特 権や全財産が剥奪されたり、他の人間を騙し抑圧し搾取して獲得した権 力を奪われるのが怖いのだ。
*例を挙げて下さいますか。
たとえば、人類全体の友愛に賛同する全ての運動に対する恐れを作り 出し、非常に有害な勢力を作りあげ、その純真さを利用して、恐怖体制 を敷く。全人類のための連帯と協力に基づいた、もっと公正な政治・経 済体制を導入すれば、その後で混乱・無秩序・騒動や経済崩壊が起こる だろうと脅かして、恐れを生み出す。
彼らは、自由は奔放となり、自由 思想は厄介な考えをもたらし、自由な感情は悪習・堕落・不道徳をもた らすと予告する。 地球の人類が、他の惑星にも愛に生きる人類がいることを発見して、 それを見習ってしまうことを恐れている。そのため、地球外生命の証拠 はどれも隠蔽し、他の世界の生物と接触することの危険性を映画を通し て助長する。映画では、宇宙人は忌まわしい姿(昆虫、爬虫類、ウィル ス)をしていて、体内に入り込んだり、人類を滅亡させる悪意を持って いるのだと思わせようとする。 人間が不死であることや、人生の目的は愛を深めながら霊的に向上す ることなのだと気づかれて、その努力を始められるのが怖い。
そのため、 死後の生の存在を示すものは一切否定し、物質主義の科学教義の中に逃 げ込む。同時に、肉体の死後に起こることを追求したり、霊界と交信し たりすることの恐ろしさを、映画を介して助長する。その中では、生き ている人間の魂を支配して苦しめる、幽霊・悪魔・血に飢えた吸血鬼や ゾンビなどという恐怖の存在を創り出して、死後の命をどれもおぞまし く描いているのである。
それに一役買っているのが、恐怖の産業(映画やテレビ)で、最も愚 劣な脅威を映像に仕立て上げ、ほぼ全世界で見せることによって、全て の人の脳にそれが浸透し、頭の中で現実に変わるようにするのだ。全映 画の90%は、テロリスト・連続殺人犯・レイプ犯・麻薬密売人・宇宙か らの侵略者・ゾンビ・様々な精神異常者といったあらゆる邪悪な存在に 姿を借りた恐怖を、何らかの方法で波及させるのが目的だ。こうして、 子どもや大人の想像力を過剰に刺激し、各人独自の怖れの上に、もっと もっと沢山の恐れが外部から加わるようにする。
*怖れはどう克服したらいいでしょう。
自覚と勇気を持つのだ。先ず、自分が怖れているということと、何を 怖れているかに気づくのだ。 深く分析して見れば、怖れの一部には根拠がなく現実的な脅威とは結 びつかないことや、少なくとも思っていたほどではないことが分かるだ ろう。現実の脅威に根ざした怖れの場合には、それを生み出した状況や 環境に勇気を持って立ち向かい、決断を下す際に、恐れに負けないよう にすれば乗り越えられる。 「怖れがなく、完全に自由だとしたらこの気持ちをどうしたいと思う だろう」と自問してみるのだ。それが、選択されるべき正しい決断なの だ。試してみる価値はある。絶えず努力すべきなのだ。
怖れと対面し勇敢な決断をしていくにつれて、自分の内面が進歩する のを感じ、怖れは力を失い、代わりに自信と明晰さを得る。そしていつ の日か、過去を振り返り「何であんなことが怖かったんだろう。今なら はっきり分かるぞ」と言えるようになるのだ。
*自分自身を知る怖れを乗り越えることで、特に配慮すべきことがあり ますか。
自分自身を、美徳や欠点も含めて、在るがままに見るのは何も悪いこ とではない。自分を在るがままに受け容れるのだ。 改善途上であることを認め、自分に嫌なところを発見しても落胆しな いこと。自分の汚れたところに光を当てて欠点を認識することは、最初 は苦痛を伴い不快かもしれないが、そうする価値はある。それが霊的な 成長の道における最初の一歩になり、成長するには、我欲を排除するこ とと同様に、感情を発達させることが不可欠であるからだ。 自分の感情を怖れず、それが現れたり表したりするのを怖れず、そう する時に嬉しく感じるのを怖れないことだ。悪い事を恐れるだけで沢山 なのだから、その上、良い事を恐れるのは止めとしよう。
*同じ質問をしたかもしれないのですが、我欲とその具現形態である 「エゴ的感情」に関してのお話を全部まとめる意味で、もう一度質問を したいのですが。
質問したまえ。
*一般的に、自我とその形態を克服するにはどうすればいいのですか。
最初の一歩は認識すること。アルコール中毒であった者は、中毒を克 服する最初の一歩は、自分がアル中だと認めることだと知っている。こ れと同じように、虚栄心・自尊心・尊大に打ち克つための最初の一歩は、我々一人ひとりに出現する我欲を識別することで、自分の我欲を認識す ることだ。
そのためには、それぞれの欠点がどういうもので、どう表面化するの かを詳しく知る必要があり、今まで君と私はそれに取り組んできたのだ。
*それは難しく思えます。
それほど難しくはない。我欲自体が難しく見せているのだ。 他者の誤りや欠点はあんなに簡単に見えるのに、自分自身のものを認 めることはなぜこんなに大変なのだろうか?(隣人の目の中のおが屑が 見えるのに、自分の目の中の丸太に気づかない)。我々がここにいるの は、自分を受け容れてそこから改善するためなのだと理解できれば、後 は簡単だ。
*我欲自体が混乱させようとするのでしたら、どのようにエゴを認識で きるのですか。
有効なのは、自分の行動をあたかも他者のもので、自分が受け手であ るかのように分析してみることだ。つまり、自分と他者とを置き換える のだ。それから分析してみる。公正で正直な振る舞いだったろうか? そ れとも、利己的に動いただろうか? ある言動に対して、それをする時とそれをされる時とで、自分の意見 が変わらなければ、客観性に近いのだ。しかし同じ言動であっても、自 分がした時には容認して、他者がした場合に告発するのであれば、それ は不公平なのであって、自我に翻弄されているのだ。それゆえ、自分の 欠点に気づくためには、他者を分析する場合と同じ客観性を持つ必要が ある。
*そしてどうするのですか。
次のステップは、態度を修正することだ。自分の利己的な思考を認識 しても、それが出現しなくなる訳ではない。自我があることを認識して 受容するのは大切だが、その意のままに行動することを避けて、エゴに 屈しないことだ。 別の言い方をすると、自分自身に「僕の中にエゴがあるのは知ってい るけれど、それに左右されずに行動して、愛に基づいた行いをするよう にするぞ」と言うのだ。 態度を変化させることで、我々は少しずつ、自分自身や他者への言動 や行為を修正できるようになる。利己的な態度は、自分にとっても他者 にとっても有害なのだ。
*どういう意味で自分に有害なのですか。
愛を感じられなくなるからだ。愛は、人が味わえる感情の中では最も 素晴らしいもので、我々を真に幸せにしてくれるものだ。
*態度を変えることは、欠点を認めることよりもずっと難しく思えます。利己的な言動を改めるための助言をいただけますか。
行動する際には、次のような内省が役立つだろう。「僕がそうされた ら、どんな反応をするだろうか? 僕だったら、その人にどうして欲しい だろうか?」こうして、他者も我々と同じなのだと想像すれば、自分に 災いを望む人は稀なので、自分の他者への否定的な態度を感知できる。 こう推察することで、「汝の隣人を愛せよ」という金言が生まれたの だ。もちろん、簡単ではない。改善しようという揺ぎない紀律と意志が 必要とされる。しかし辛抱強く続ければ、短期間のうちに別の心持ちに なり始め、もっと内面と調和して幸せに感じられるので、前進し続ける 励みとなる。
*「エゴ的感情」は、どう扱うべきでしょうか。
それも、同じようにだ。最初に、我々皆が「エゴ的感情」を持ってお り、自分にもそれがあるのだと認めること。それらが、我欲が顕現した もの、または、我欲と愛との内面の葛藤が表面化したものだと認めるの だ。 次に、自己分析と内面の意識的な改革を通して、それらを打ち負かす 方法を見出すこと。
*内面の意識的な改革とはどういうことですか。
それは、自分自身が指導する内なる魂の改革のことで、改革の目的 (愛における進歩と我欲の排除)が明確で、欠点がどういうものでどの ように具現するのか、根絶する手段は何なのかがはっきりしている。 完全を目指す道程では、他者の美徳や欠点から学ぶことができるのと 同じように、自分の美徳や欠点を観察することでも学ぶことができるの だ。 一日のうちで自分と繋がれる静かな時間を作り、欠点についてや、そ の日の自分の態度や他者の態度について振り返ってみる。自分がどの程 度愛に基づいて行動し、どれほど我欲によって行動したのか、また、他 の人たちはどれほど愛または我欲によって行動したのかを、内省してみ るのだ。こうして正直に考えてみれば、進歩に必要となる答えを見出す ことができ、確固とした意志を持って試練に立ち向かう励みとなるのだ。
他者の利己的な態度に気づいても、それらを理解していれば受け容れ ることが容易になり、敵対的な態度を取らないでいられる。自分自身の 利己的な態度に気づけば、流されてしまったと分かるが、自覚すること ができたので、いいことだ。次の機会には、エゴは減らしてもっと愛あ る気持ちで行動しよう、と固く決意するのだ。 こうして、毎日少しずつ前進して行ける。君たちが、内面の意識的な 改革を忍耐強く続けるのなら、いつか過去を振り返った時に、見違える ような自分を見出し、驚くべき肯定的な変化を遂げたと気づける日が来るのだ。
*でも僕は、いい人である条件の一つは他者を批判しないことだと思っ ていたのですが、いい人になるには自分の欠点だけでなく他者の欠点も 見る必要があると言われるのと、矛盾しませんか。
それは一般的に、人が他者の欠点に焦点を当てる時は、批判したり嘲 笑したりするためだからだ。人は悪い意図を持っていると、とても不公 平になり易く、嘲笑の対象となる者を罵倒しようと現実を曲げて大げさ にして、何の配慮もしないものだ。 もちろんこれは嘆かわしい態度で、イエス自身が何度も「隣人の目の 中のおが屑が見えるのに、自分の目の中の丸太に気づかない」と咎めて いる。このため、多くの善意ある者が、欠点について話すのは悪いこと だと信じている。
しかし、ここで欠点について分析するのは、批判するためでも嘲るた めでも誰かを非難するためでもなく、それがどう作用するかを理解して 我々自身が改善するためと、他者も改善できるように助けるためである。 ここでは、現実を、誇張も隠蔽もせずに、在るがままに見ようとしてい るのだ。 実際、この舞台では、人類の大半が同じ欠点を共有しており、それを 排除することが進化の工程の一環となっている。それに、初めに認識す ることなく、どうやって利己的な行為を修正できるというのだろうか?
*我欲に触発されて攻撃してくる人がいたら、その人を許さないといけ ないのだと思っていました!
許すためには理解が必要で、理解するにはどうして攻撃したのか、つ まり、原因となる場面ごとの我欲についても掘り下げる必要がある。
たとえば、他者の欠点に焦点を当てて、公衆の場でそれを批判して中 傷する者は、虚栄心の顕現形態の一つである羨望という欠点の下に行動 しているのだ。 霊性進化の工程や克服すべき我欲の段階と、我欲がそれぞれの段階で どのように顕現するのかが理解できなければ、羨望・嘲笑・批判・中傷 などや、もっと酷い利己的な態度を許すことはとても難しいだろう。
*それでは、自分自身が我欲のどの段階にいるのかを知ることは可能で すか。つまり、自分の能力や霊的発展レベルがどの程度なのかを知るこ とはできるのでしょうか。
ああ、知ることは可能だ。自分自身を知ろうと努力して、霊的に成長 しようという誠実な思いがあれば、自分がどの地点にいて、今生で取り 組むべき霊的な課題が何であるかが分かるだろう。 ここでは、美徳も欠点も含めて、自分自身を理解できるように幾つか の指標を与えようとしているのだ。手助けがなく、自分を理解すること はかなり難しい。だが、我々には旅の道連れがいるのだ。 もう話したことだが、一人ひとりにはガイド役がついていて、助けて 欲しければ、自分独りでは気づくのが困難なことを見せてくれるように 手を貸してくれるのだ。
また、肉体を持った人の中にも、その内なる能 力によって、君たちに手を差し伸べられる人がいる。 しかしこれも全て、各人の意志による。我欲に捕らわれていて前進し たがらない者は、自分の欠点も認めようとはしないし、いかなる助言も 受け入れようとはしない。そのため、霊界から与えられる助言にも、も っと高次の同胞の意見にも、耳を貸そうとしない。嘆かわしいことに、 君たちの世界では、大半の人がその状況にいるのだ。
自分が目も耳も不自由だと嘆いているが、目隠しを取ろうとも耳栓を 除こうともせず、「目隠しも耳栓も取りなさい。君は目が見えないわけ でも耳が聞こえないわけでもない」と言ってくれる人を聞こうともしな い。要は、自分の不幸を嘆いているのだが、自分が幸せになるのを阻む 主要因たる我欲を放棄したいとは思わず、幸福になるために必要な支援 を受けるつもりもないのだ。
(P160~P175)
(作者あとがきをご覧ください)
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♬著者ヴィセント・ギリェム氏は、広めることを希望していますので、抜粋して投稿しています。氏および翻訳者のご厚意に感謝いたします。