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「魂の法則」 ヴィセント・ギリェム著~人間関係と愛の法則

2019-09-19 13:14:06 | 魂の法則

  https://www.uv.es/vguillem/Tamashii_no_Housoku.pdf (日本語訳全文)

「魂の法則」 ヴィセント・ギリェム著~人間関係と愛の法則

(双子の魂)

P175~P186



(P175~P186)

         人間関係と「愛の法則」


*愛についての話で思い出したのですが、僕たちには全員双子の魂がい るのだと言われましたよね。    その通りだ。
 
*双子の魂は存在するのですね。 そういうことだ。
 
*想像の世界の中の幻想で、ロマンチックな夢とばかり思っていました。
 
 そうではなく、実在するのだ。ただ、君たちが想像する通りだとは限 らない。
 
*それでは、双子の魂とはどういうものですか。
 
お互いを補い合える、100%似通った魂のことだ。双子の魂は、愛で 結びつくように創造され、完全に幸せになるためには、お互いを必要とし合うのだ。
 
*各人の双子の魂は一つだけですか、それとも複数存在するのですか。
 
とても似通った魂は複数あり得るが、100%類似するたった一つのも のだけが、双子の魂だ。
 
*双子の魂は、どういう目的で創造されるのですか。
 
誰もが絶対に、孤独を感じることのないように。自己覚醒を促し、愛 の道を歩むよう突き動かしてくれる自分と同じ存在がいるためだ。双子 の魂は、君の理想のパートナーで、永遠の伴侶だ。
 
*それは、双子の魂は一緒になるために同時に生まれ変わる、という意 味ですか。
 
 多くの場合にそうだが、いつもそうとは限らない。魂の発達に求めら れることによる。たとえば、自己の意志力を発展させて相手に依存しな いようになるために、独りで物事を経験しなければならない場合も時に はある。
 
*一緒に転生する場合には、カップルとして暮らすためにそうするので すか。
 
 それは理想的な状況で、多くの場合にそうなるように転生が準備され るのだが、必ずしもそうなるとは限らない。また一緒に転生しても、カップルとしてではなく、身近な家族や別の関係に生まれ変わることもあ る。 魂の成長のために要請されることや、魂自身の選択にもよる。転生し た後で、一緒にならない選択をする可能性もあるのだ。
 
*では、今生で関わる人たちが選ばれるのは、転生前の決定なのですか、 それとも生まれ変わってから決めるのでしょうか。
 
 家族構成や特定の友人や将来のパートナーなど、一番身近な人間関係 は、転生以前に話し合われる。これに関しては、生まれ変わる魂たちの 間で、それぞれの使命や試練においてお互いに助け合う約束がなされる。 たとえば、将来生まれ変わって来る子どもに対して親になる約束をする ことなどだ。ただ、その約束がのちに果たされるかどうかは別物だ。
 
*転生以前の約束は、大抵守られるのですか。つまり、ある人とカップ ルになる約束をしたのに、のちに生まれ変わってから、違う人を相手に 選んでしまったり、ある夫婦が二人の子どもを持つ約束をしていたのに、 一人しか、あるいは一人も生まなかったということもあり得るのですか
 
君たちの世界ではごく頻繁に、転生以前の約束が破られている。
 
*約束が破られてしまう原因は何でしょう。
 
 通常は、本人自身の欠点である我欲に身を委ねてしまい、頭で決断を 下すからだ。頭は、君たちの住む物質界のありさまに多大に影響されて いる。物質の獲得にのみ努力すること(消費主義)や、物質的な悦びを 味わうこと(快楽主義)にだけ焦点を当てた生活へと誘導され、自分の 志や霊的な約束を忘れてしまうのだ。
 
*魂は転生以前のことを全く覚えていないのに、転生してから、生まれ る前の霊的な約束がどんなものだったのかを、どうやって知ることがで きるのですか。
 
 霊的な直感に従えばいいのだ。人は、心で感じた通りにする時には、 どの道を選ぶべきか察している内面の声に従っているのだ。そして、当 初の目的を果たしていくにつれて、もっと幸せになり、さらに自信がつ いて落ち着いて、人生での次の目標が明らかになってくる。 心の声に耳を貸さなければ、頭脳のみに導かれるが、頭脳は感情とは 異なり、純粋に物質的な目的を追うように仕向けるので、人は虚無感を 覚え、自分自身と折り合いがつかず、不満足で自信がなく、人生に意義 を見出せないのだ。

*具体的なケースで説明下さいますか。

 生まれる前にカップルになる合意があった二つの双子の魂が、今生で 出会ったとしてみよう。双方の魂はお互いを認識し、両者に愛情が芽生 えたとする。しかし、一方がひどく自我に洗脳されていて、今生での決 定を下す際に、その我欲のままになったとしよう。 我欲は頭の中で、物的に不利な状況を悪影響を与えるために利用し、 あらゆる方法で感情を無視させようとする。「いい相手じゃない、お金 がない、学歴がない、社会層が違う、肉体的魅力がない、家族は反対す るだろうし面倒はご免だ、遠くに住んでいる、これこれしかじかの人で はない」などと。 こうして、本物の感情を味わって、真の幸福の一端を共に経験できる 霊的に似た人と暮らす機会が現れたというのに、その機会を見送って、 気持ちに反した選択をして、双子の魂との転生以前の約束を破ってしま うのだ。 我欲の言いなりになると、自分の気持ちには従わず、知的・物的な期 待に沿って相手を選ぶことだろう。こうして、肉体的にもっと魅力的な 人やもっとちやほやしてくれる人、もっと経済力がある人など、別の人 を優先し、表面的にはもっと刺激的な生活や安楽な生活を送るだろうが、 感情的には虚しいのだ。

*本当に約束を果たそうとする人たちはどうなるのですか。たとえば、 前のケースで拒絶されてしまった人は、どうなるのですか。
 
 Bプラン、つまり代替計画は常に存在する。霊的なガイド役たちは各 人の能力を把握し、その限界が分かっているのだ。霊的にはそれほど類 似していなくても、我欲のためにではなく、感情のために努力する気の ある別の人と人生をやり直すことが可能だ。

*それでは、たとえば、未来の両親がもう転生していて、彼らが打ち合 わせとは違う選択をしてしまって、それぞれが別の配偶者を見つけて最 終的に一緒にならなかったとしたら、二人の子どもになろうと決めてい た魂はどうなるのですか。生まれ変わるのを止めるのですか。

 眠っている間に、魂はほぼ毎晩霊界に戻っているので、転生していて も、霊的世界から切り離されてはいない。他の魂が関わることは、その 状態にいる時に決めることができる。 たとえば、最初に準備した計画とは異なるものの、将来子どもになる 筈だった魂と、かつての約束を再考することもできる。両親になる予定 だったどちらの親も引き受けない場合には、その魂が子どもとして生まれ変わることに同意してくれる、似た特徴を持ったカップルを代わりに 探す。 ガイド役たちは、生まれ変わった後で人間が考えを変えやすいことを 知っているので、進化の代替プランを数多く用意してくれている。こう して、選ばれた環境が、転生前の計画からどんなにかけ離れてしまって いても、進化のための選択肢が残るように努めてくれているのだ。最初 に描いた「ルート」から逸れてしまったら、自分が選んだ道から新たな 「ルート」を再検索するのだが、目的地は同じである。

*約束を果たさなかったことは、魂に影響しますか。

 一見すれば、その人が幸福への最短距離から逸れてしまったかのごと く、否定的なことに思えるだろう。しかし、好きな時に考えを変える自 由も、味わってみなければ自覚できない状況を経験することも、自由意 志の一部なのだ。 それに、ある方法で学ばないことは、別の方法で学べるのだ。同じ場 所に行き着く道は色々あって、それぞれが異なる選択肢だが、体験する ことと学ぶことは同じなのだ。

*転生する魂は、自分の家族や近親者となる人たちを前世から知ってい たのですか。

それは、色々だ。同じ家族に生まれた人の中に、前世での仲間がいる かもしれないし、別のケースでは、同じ家族に一緒に生まれ出るのは初 めてかもしれない。

*家族構成、つまり、父親や、母親や、兄弟を決めるのは誰ですか。

通常は、一緒に生まれるそれらの魂自身が、霊的ガイドの支援や助言 を得て、相互に合意して決めている。

*家族関係は何によって決まるのですか。
 
贖罪や使命など、転生する魂の進化に求められることによる。

*進化に求められることがどのように家族構成に影響するのかと、贖罪 と使命との場合で、どう異なるのかを教えていただけますか。

 よかろう。兄弟・親・子を問わず家族の構成員が前世の天敵で、憎悪 や報復欲や恨みに駆られて酷い危害を加えた合った過去を持つ場合があ る。これらの魂は、血縁から生まれる愛情を奮い起こしてお互いの傷を 癒すという目的で、一緒に生まれ変わる。つまりこの場合は、前世でお互いに傷つけ合い「愛の法則」に反したために、彼らの間に清算すべき 負債があった訳なので、一種の贖罪となるのだ。
 
 使命の場合には、魂は帳尻を合わせるために集まるのではなく、愛し 合っているからであり、より進んだ霊的な目的を果たすために助け合お うとして一緒に転生する。このような霊的な目的は、進化の遅れている 人たちを支援することに関係しているが、同時に、自分たちの霊性向上 にも役立つのだ。 この二つの極端なケースの間に、我欲と愛情、贖罪と使命とが混在す る、色々な意味合いの中間的な状況が存在する。魂は、霊的進化の道程 を進んで行くにつれて、支払うべき借りが少なくなり、無条件に与えら れる愛が大きくなるのだ。
 
*でも、家族関係が贖罪の場合には、逆効果にならないでしょうか。つ まり、憎しみ合っている人たちが同じ屋根の下で共存を強いられたら、 虐待・暴力・緊張・口論などが絶えないのではありませんか。
 
 共存を強要された訳ではない。自分たちの悪感情を克服するために、 彼ら自身が霊的ガイドの提案を受け入れたのだ。 君が言う、虐待・暴力・緊張・口論は、これらの魂がまだ霊的な悪習 にしがみついており、自己改善をしたくないから起こるのだ。
 
*どちらにせよ、憎み合っている人たちを同じ家族に入れるのは、過激 な療法に思えますよ。それでは、危険な囚人をまとめて同じ独房に入れ るようなものではないですか。しまいにはやり合いませんか。こんな状 況から愛が生まれるとは思えません。
 
 家族の全員がお互いに仲が悪いとは言っていない。たとえば、父親と 息子の間で衝突が起こるとか、兄弟間の仲が悪くても、他の家族とは問 題がないケースだ。通常、このような家庭には、より進化した魂が転生 し、愛情に満ちた行いとはどのようなものであるべきかの手本を示す。 似たような欠点のある魂が一緒に転生するのは、まさに一方が他方の鏡 となるためであり、自分と似た人との共存体験から学ぶためだ。
 
*この経験から学ぶべきことは何ですか。
 
一番大切なことは、我々は皆兄弟だと知ること。これは、まさに文字 通りだ。前世で最も憎むべき人が、次の転生では君の兄弟となり得るの だ。
一つはっきりさせよう。 一部の人だけを愛して、その他を憎んでいて は、進化はできない。憎悪を愛に変えない限り、前進できないのだ。 だから、憎しみによってしてしまったことを償う必要があるのだが、 一番苦手で最も借りのある人に償いをするのが理想的なのではなかろう か。 また、我欲が顕現したものが欠点だが、我々と同じ欠点を持つ他者の エゴを認識したり、それを身を持って体験してみることも有益である。
 我々は、隣人の目の中のおが屑が見えるのに、自分の目の中の丸太に 気づかない傾向にある。要は、我々は、特に嫌いな人の欠点には、非常 に注意を払うのだが、それと似ていることが多い自分自身のものは見よ うとしないのだ。 他者の我がままのために実際に苦しんでみれば、欠点がどう影響する のかを体験できるので、欠点を自覚でき、それをなくすべきだと考える だろう。

*人間関係のテーマに戻りますが、どういう理由で二人の人がカップル になるのでしょう。

 愛によって、霊的な進化の必要性によって、あるいは執着によって。 最初の二つの理由は、霊的な判断に従ったもので、転生以前に取り決 められる。 最後のものは、転生してしまってから本人が選択するもので、霊的と いうより「現世的な」理由によって決められる場合が多く、転生以前に 交わした魂の約束が何度も変更される。

*これらの結びつきの種類による違いを説明いただけますか。

 最初のものは、愛情の結びつきと魂の類似性によるものだ。 霊的な進化のための結びつきは、互いの学習上の必要性によるもので、 通常、課題が残っている魂の間や、特定の欠点・美徳に共に取り組むこ とで霊的に向上し得る魂の間で見られる。

 三つ目の執着による場合は、肉体または性的な魅力、知的・物的な目 標が似ていること、物質的な必要性、愛情の欲求や、一緒になる二人の 便宜・義務などによって結びつく。

*子どもたちの転生が、霊界で決められることは理解できるのですが、 二人がカップルになるというような決定は、生まれ変わった後に、いつ も物質界でなされるのではないでしょうか。
 
 確かに最終決定は転生してからなされるが、見ず知らずの二人が、何 十億という人の中で出会うというのは、どれほどの確率だろうか? 偶然 であろうか? その環境が整うには、つまり、特定の人たちが出会って知 り合う機会ができるには、無数の状況が重なる必要があり、実はこれが 霊界で調整されているのだ。 それに、自分の人生において、ある人が重要な人になると予感できる のは、前世の記憶からの感覚によるのだ。
 
*お話から推察すると、各転生で違うパートナーになるかもしれないの ですね。
 
 もちろんそうだ。君たちの進化レベルの世界ではそれが普通であるし、 おまけに多くの場合、霊性進化のために変える必要があったり、前世の 行為の結果として変わることがある。
 
*どういう意味ですか。
 
 霊的に完全に似通った双子の魂の場合でも、愛情よりも欠点が勝って しまって、それを認識も修正もしたくなければ、一時的であるにせよ、 別れてしまうこともある。人は、失ってから初めて大切なものに気づく ことがあるからね。そうして、次生では余り似てはいないが、悪習を修 正するために役立つ人を相手に選ぶことになる。 君たちの世界では、大半の人が内面をほとんど気にかけていないので、 愛によって結びつくカップルは非常に少ない。大多数は、物的または情 緒的な必要性や便宜、性的な魅力などによって一緒になり、魂の要請に 従って結びつく者はごく一部だ。
 
 我欲の大部分を取り除き、魂が気持ちと一致している進化した世界で は、大半の結びつきが愛に基づくものだ。それは、類似する魂同士が相 手を見間違えることがないためであり、物的な欲望がどれほど満たされ ようと、相互の愛情ほど幸せを感じさせてくれるものはない、と知って いるからだ。その世界では、私欲によって相手を選ぶ男女は皆無だし、 双子の魂ではないカップルには滅多にお目にかかれない。
 
*「人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません」という有 名な言葉があるので、世間では、ただ一人だけを伴侶にすることが最も 霊的だと思われてきました。それなのに、あなたは、多くの相手を持つ のが「普通」で、霊的にも有益となり得ると言われました。矛盾するの ではありませんか。
 
愛の絆と結婚の絆とは別物なのだ。
ある程度の時間が経つまでは夫婦にははっきり分からないものの、地 上の90%の結婚に真の愛は存在しないのだ。だが、一枚の紙に署名して しまったために、どうやら人には、考えを変える権利がないようだ。 自分たちの関係を感情に基づいて選ぶようになれば、進化した世界の ように、君たちの関係も永続的なものとなろう。しかし、その世界で二 人を結びつけているものは、義務ではなく、愛情なのだと知らねばなら ない。 人には誰もに、相手を選ぶ自由と同じく、自分で決意するなら別れる 自由があるし、自己の決定については誰にも言い訳をする必要がない。 はっきりさせておきたいのは、二人を結びつけるものは相互愛である が、それぞれが個人の自由を完全に保持しているということだ。
 
 司祭の 前であろうと宗教遺物と花で飾り立てられた祭壇の前であろうと、サイ ン入りの契約書では結びつかないのだ。そのようにして二人を結びつけ ているものは神ではなく、君たちが作り上げた法律や習慣によって、君 たち自身がそうしているのに過ぎないからだ。 神が本当に与えてくれたものは、愛せる能力と、愛を体験して幸せに なるための双子の魂であり、自らの運命を決定できる自由だ。 だが、君たちの世界では、愛情で結びつく僅かな夫婦も、まだそれぞ れの我欲を克服する必要がある。多くの場合に我欲が勝ってしまい、感 情を押さえつけるからだ。 それゆえ、「人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりませ ん」という常套句は、真の幸福を体験したい者の助言となり得る、「愛 が結び合わせたものを、我欲が引き離してはなりません」というより適 切な文言に置き換えられるだろう。
 
*それでは、霊的な観点からは、離婚は肯定できることなのですか。キ リスト教の大半が離婚に反対なので、いつも悪いことなのだと思ってき ました。
 
 宗教と霊性とは異なるものだ。 誰と一緒にいたいか、またはいたくないかを選ぶ自由があるのは、い つも良いことだ。自由意志を行使できるので、肯定的なことだ。霊界は、 いつも自由意志の味方なのだ。 ただ紙に署名をしたというだけで、なんの愛情もない相手といること を強制したり、気持ちはあっても、理由はともあれ、一緒に暮らすこと が不可能な人を強要することは、自由意志の侵害となる。
 
 君たちは、夫婦になるということは、自由意志の一部を放棄すること だとまだ思い込んでいるが、そうではない。たとえば君たちは、結婚し たり同棲すれば、絶対に果たすべき義務であるかのように、相手と性関 係を持たねばならないと思っているが、それは違う。人は、嫌だったり 望まないのであれば、ただ結婚しているという理由だけで、性関係を義 務づけられたりはしない。 また、単に性関係を持ったというだけで、その相手と一緒になる義務 もない。さらに、どんな状況で一緒になったにせよ、自分にない気持ち を感じなければならない義務もない。 そして、これが一番重要なのだが、そのために罪悪感を覚える必要は ない。感情とは強制されるものではなく、自発的に湧き出なければなら ないのだ。霊的な観点からは、全ての上に自由意志があり、他のあらゆ ることに勝るのだ。 執着を手放さない限り、愛の至福を味わえはしない。愛にとっての執 着とは、鳥にとっての鳥かごなのだ。
 
*性関係を持つ人たちが、愛し合っているからではなく、単に愉しいひ と時を過ごしたいのであれば、何らかの霊的な法則に背くことになりま すか。
 
 いや、その人たちが自由にそう選択したのであれば、全く問題となら ない。 ただ魂は、進化すると性関係以上のものを期待し、ただの肉体関係だ けでは満ち足りなく虚無感を覚えるものだ。しかも、お互いに性的に惹 かれ合っても、魂の類似性がなく内面の気持ちがなければ、単に性関係 だけの結びつきでは、しまいには飽きてしまう。そのため、長続きしな いことが多い。続いたとしても、二人の絆はとても弱いものなので、不 安定な関係となり、いざこざが絶えないことだろう。
 
 魂が成長していくにつれ、性関係は、本能という生物的な欲求から、 気持ちを表現する手段へと変わる。原始人の性は、基本的に本能的なも のであり、好きでもない人と性交しても、まだ感情がほとんど発達して いなかったために、空虚感を覚えることもなかった筈だ。 愛の能力の高い進化した魂ならば、本能を満足させるだけの性関係に は、大きな虚無感を覚えるだろう。進化した魂にとっての性的関係は、 親密な愛情表現なのだ。 性関係を持つ魂が、霊的に似ていて互いに愛し合っている場合には、 その深い愛情が、性関係にも反映される。肉体の交歓と共に、お互いの エネルギーが交流し、活力を与え満たし合うのだが、これはアストラル 体・メンタル体・霊体が交わることから生じるのだ。
 
 それに反して、完全に性的な関係、つまり、性行為に及ぶ男女が双方 ともに愛情を感じていない場合は、肉体が満足しても、アストラル体・ メンタル体・霊体などの精妙な体の交じわりに欠ける。その結果、虚無 感と不満感がもたらされるだろう。 進歩した世界では、一緒になろうと魂を奮い立たせるものは、純粋に 内面に感じる愛だけで、その他の理由で二人が結びつくことは、極めて 稀である。また、そこでは洞察力が非常に発達しているので、地球で良 くあるケースのように、外見に惑わされたせいで思っていた通りの人と 違って、後で騙されたり失望したりすることがない。
 
*性の問題をどう解決できますか。
 
 君たちの性の問題は、その大半が、ほとんどなんの愛情も感じない人 と性関係を持つということに由来している。君たちは、まだ肉体の部分 しか見ておらず、性の悦びの最たるものは、肉体的に非常に魅力的な人 と関係を持つことだと思い込んでいる。
 
 大多数の人は感情面を認識しようとはせず、霊的に似ている愛する人 と一緒にならない。そのため、愛情がないことから問題が生じる。内面 が満たされたと感じられないことが問題なのだ。愛のない性関係を持つ ことで一番苦しむのは、進化した魂だ。
 
 愛情がないことが問題なのだと気づき、気持ちに従って行動すべきだ と認める代わりに、同じように愛のない別の人との体験を求め続けたり、 セックスを魅力的にしようと色々な要素を加えてみるが、相変わらず虚 しいのだ。こうして、感情でしか埋められないものを、物質で埋めよう とするので、悪循環に陥るのだ。
 
*それなら、映画で見る関係のように、ロマンチックな愛は、僕たちの 世界には不足しているのですか。
 
 この場合は男女の愛のことだが、問題は、愛というものの君たちの概 念が、霊的な視点からの愛から歪められていることだ。 君たちが誤って「情熱的」な愛とか「ロマンチック」な愛と呼ぶ、強 い肉体的な魅力からの関係は少なくはない。それは、花火の光のようで 一瞬は強烈だが、その後は完全に消えてしまう。 そのため、物的な調味料で感覚を過剰刺激(高価なレストランでのデ ィナー、豪華なプレゼント、五つ星ホテルのスィートルームでの一夜、楽園のような島でのバカンス)して、なんとか継続させようと無駄な努 力をする。そしてこれら全てを、君たちはロマンチックな愛と呼ぶが、 実際には、ひと度性欲が満たされるやだんだんと薄れていく、強い性的 魅力を指しているに過ぎない。
 
 情熱に関しては、多くの場合、愛とは何の関係もなく、誰かを所有し たいという満たされぬ欲求であり、我々が執着と呼ぶところの自我が顕 現したものだ。人は物ではないので、所有できないし、本人以外の誰に も属さない。愛すことと所有したいこと、愛と執着とを、混同してはな らない。 はっきりさせておこう。 誰かを愛すように強いることはできない。愛 が自由でないならば、それは愛ではないのだ。 感情は強要することができない。感情は提言・操作・強要・命令に従 わない。愛されたいのであれば、何の見返りも期待せず、無条件に愛す のだ。そうすれば、いつか、原因-結果の法則が、与えたものをもたら すだろう
(P175~P186)

(作者あとがきをご覧ください)

 https://blog.goo.ne.jp/y-hne/e/d644c9fe4a68408429a35f4b1e30b3ea

 ♬著者ヴィセント・ギリェム氏は、広めることを希望していますので、抜粋して投稿しています。氏および翻訳者のご厚意に感謝いたします。


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「魂の法則」 ヴィセント・ギリェム著~悲しみ・絶望・苦々しさ・自暴自棄・諦め

2019-09-19 11:39:06 | 魂の法則

 

  https://www.uv.es/vguillem/Tamashii_no_Housoku.pdf (日本語訳全文)

「魂の法則」 ヴィセント・ギリェム著~


悲しみ・絶望・苦々しさ・自暴自棄・諦め

P160~P175

(P160~P175)

         悲しみ・絶望・苦々しさ・自暴自棄・諦め

 

 悲しみは、士気の喪失と低下という情緒的な状態だ。 悲しみは、攻撃性と同じ原因や状況で生じがちだが、感受性がもっと 強い人の場合にそうなるのであり、我欲に由来していることが攻撃欲ほど明白ではないので、捉えるのが難しい。

 実際、無力感や罪悪感や、場合によっては憤りと自棄も、本当は攻撃 性と悲しみの入り混じったものだ。 悲しみは、自分が求める成果が見られなかったり、結果が期待したも のと違ったりして、憔悴したりがっかりした際に表れる。 悲しみには色々な形態があり、それぞれに特色がある。 苦々しさは恒常的な悲しみで、長期に及ぶ。日常生活の妨げとはなら ないが、とても深く内面に根を張っているので超えるのが難しく、悲し みによってその人が少しずつ死んでいくような印象を与える。努力する 動機づけや生き甲斐がないというのが特徴である、絶望と諦めという悲しみの形態にも深く関連しているが、後者は通常、認めたくないような 状況から生まれる。

 自暴自棄は、鋭く強烈な悲しみの極端なもので、日常的ないかなる仕 事も行えなくなり、精神不安定になって自分の命や他者の命を奪うなど、 致命的な行為に及ぶことがある。

*悲しみが我欲の感情だと思われているのは、予想外でした。

 ところがそうなのだ。人が時々悲しくなるのはとても普通のことだ。 だが、諦めて投げ出してしまって、悲しみがその人の日常的な状態にな ってしまうと、それは停滞した状態なのだ。悲しみは、霊的成長の努力 を怠る口実となるのだ。

*悲しい時に、誰かに何か悪いことをするとでも言うのでしょうか。

 悲しみは自分に有害であるし、間接的には他者をも害する。悲しみの せいで、自分の務めが果たせなくなる場合があるからだ。悲しみや落胆 に沈んでいる人と一緒に暮らすのは、とても疲弊することなので、大変 強い意志力を持たない限り、うつ状態の人と暮らす者たちにも容易にそ の状態がうつってしまう。

 悲しみが蓄積されると、攻撃欲と同じように、多数の病気を引き起こ す。悲しみで病気になり死んでしまい、今生で取り組んでいた試練や使 命を途中で止めてしまう人は大勢いる。そうした人たちは、同時に、他 の魂たちを助けるという約束も投げ出しているのだ。たとえば、悲しみ に蝕まれて死んでしまう父親や母親は、子どもたちを見捨てているのだ。

*悲しみはどう超えたらいいでしょう。

 攻撃性と悲しみを生み出す要因は大変似通っているので、攻撃性を乗 り越えるために処方したレシピを、ほぼその一点一点、悲しみを克服す ることにも適用できる。 それゆえ、悲しみを乗り越えるための基本となるのは、理解である。 自分自身への理解、他者への理解、我々の人生の状況への理解。 我々が直面する逆境の多くは、愛の学習と我欲の克服という工程の一 部を成しており、その多くは生まれる前に我々自身で選んだものだと理 解するのだ。

 そしてその他のものは、他者への不寛容・頑固さ・無理解 などで、我々自身が招いたものなのだ。 時には、自分が間違っているのを認めたくなかったり、自分自身の利 己的な態度を認めたくないために、悲しくなる場合があるのだと理解す ること。

 誰かに傷つけられて悲しくなるのであれば、それは、その魂の成長が 足りないためで、愛の知識をまだほとんど持たないためなのだと理解す るのだ。 自分らしさを抑圧したり、意志を黙殺して悲しくなるのであれば、自 分を在るがままに表現するよう努めて、悲しみを超えるのだ。

*あなたのレシピは、諦めを勧めているようですが。

 とんでもない。理解と諦めは全く異なるものだ。諦める者は、匙を投 げ、理解を放棄し、自分の意志を否定する人だ。もうどうでもいい、と 生きる希望を失い、落ち込むのだ。 もう言ったことだが、諦めも、悲しみに関連する我欲の一形態なのだ。 それは苦しみを避けるために頑張らない、というやり方なのだ。しかし、 この方法では、別の理由でだが、もっと苦しむことになる。 理解は、生きる希望と悦びを失わずに、努力し続けて前進する鍵とな るのだ。以前は分からなかったことにも、意味を見出すことを可能とす るからだ。

*諦めと理解の違いがはっきりする例を挙げていただけますか。

 例を挙げれば、死に対する姿勢だ。 君たちの世界の大半の人は、死に対して諦めの態度をとるが、それは 死の意味を理解しようとしないからだ。君たちは生きている間は、死と 向き合うことを避け、懸念を直視しようとしない。 この話題について真面目に話をしたがる人に出くわすと、冗舌家か頭 のおかしい人に思えるのだ。本当は君たちは怖いので、この話題を避け て、日々の雑事に没頭しているのだ。理解しようとはせず、ただ避けて いるのだ。 そうするうちに、愛する者が突然死んで、驚愕するのだ。この状況は、 悲しみ・苦々しさ・憤怒・無力感をもたらす。そして、このどうしよう もない事実を変えることが不可能なので、最後に諦めてしまうのだ。諦 める者は、仕方がないので受容せざるを得ないものの、理解できていな いので、不機嫌に暮らし無益に苦しむのだ。 死は単なる移行期で、実際に死ぬのは体だけで愛する者は生き続け、 遅かれ早かれまた一緒になれる、と理解できる者は、もう生きる希望を 失うことがない。そればかりか、再会の時が来たら大いに楽しめるよう に、物質界で何もやり残さないようにと、もっと頑張って生きようとす る。 進化した世界では、人が死んでもそれが肉体からの離脱のプロセスだ と皆が理解しているので、誰も、悲しんだり、絶望的になったり、苦々しく思ったりしない。

 その反対に、仲間が魂の真の故郷である霊界に戻 るので、喜んであげるのだ。

淫乱と色欲

 セックスへの依存は、虚栄心の顕れでも自尊心の顕れでもある。 だが、人がセックスを常習するようになる原因は、それぞれの場合で 異なる。そのため、見栄っ張りな者に特有の淫乱と、自尊心の強い者と 尊大な者の特徴である色欲という、二つの表現形態に区別してみよう。 淫乱とは、セックスの悦びへ過度に傾倒することだ。虚栄心の強い者 のセックスへの依存は、他者から認められたいという欲求と関係してい る。

 つまり、セックスを通して人から認められたり、称賛されたりちや ほやされることを期待しているのだ。彼らは、自分自身を満たす手段と して性的快楽に溺れるが、他者の欲求を配慮することがほとんどない。 しばしばセックスを利用して人を独占し、意のままにしたり優位に立と うとする。 感覚が飽和しあきあきしてしまうと、性欲をメンタルに駆り立てる手 段として新しい刺激を探す。

 それは、パートナーを頻繁に変えることで あったり、サディズムとマゾヒズムなどの堕落した性様式に訴えたり、 他の人たちをその意に反して乱交に巻き込んだりといったものだ。

 一方、自尊心が強い人のセックスの常習は、愛せる人がいないことを 認められないとか、特定の人への愛情を抑圧したり認めようとしないな どの、愛情の空虚感や欲求に起因している。 つまり、自尊心の強い者が本当に必要としているのは、愛され愛すこ となのだが、自分の愛情欲を認識せずに抑圧してしまうことが、安全弁 のように、セックスへと逃避させてしまうのだ。

 要は、愛の欠如をセッ クスで補っているのだ。そのために過度の性欲があるが、虚無感は、性 的なものではなく感情的なものなので、性関係では満たすことができず に満足できない。 そこで、益々セックスを求めるようになる。そうすることで、この空 虚感を癒そうとするのだが、上手く行かずに、前述のような堕落した様 式に至る場合もある。

*色欲はどう克服するのですか。

 色欲に関しては、セックスによって満たそうとしている内面の虚無感 は愛情の欠如によるもので、愛情だけがそれを満たすことができると認 めることが、それを克服する唯一の方法だ。

*淫乱はどう克服しますか。

 それが虚栄心の反映したものだと認識して、それでは絶対に幸せにな れないことに気づくのだ。 残念だが淫乱のケースの大半は、若さや肉体美や性力などの衰えが顕 れ、性的魅力を失ったり、体が精神的な性欲に応じられなくなった時に、 自然に消滅するのだ。肉体の衰えにより、自分の取り巻き連中は消え、 それまでの人生の主要な刺激剤も失われる。 こうして人は、便宜上の虚しい関係を築きながら、無意味な人生を送 ってしまったという、厳しい現実に直面するのだ。肉体的な魅力だけで 寄って来る人たちに囲まれていたが、魅力が失われるや、その人たちは 魔法のように消え失せるのだ。

 その人の我欲にも関わらず、本当に愛し てくれた何人かが残ってくれるかもしれないが、彼らに注意を払ったこ となどほとんどなかった筈だ。 虚栄心を満足させるために使用した外見美という武器が失われてしま うと、真相にずっと近い新たな局面と対峙しなければならない。そこで は、人を惹き付けるためには、自分の内面から何か美しいものを引き出 さねばならないのだ。こうして、便宜上の関係と気持ちの通う関係との 違いを評価できるようになり、後者を尊重することを学ぶだろう。

*でしたら、美しく魅力的な人たちだけが淫乱なのですか。

 そうではないが、その多くが淫乱の深みに陥り易い。 魅力がないその他の見栄っ張りな人たちは、そうしたいと思っても、 欲しいものを手に入れる餌としては、肉体的な魅力を利用できないから だ。そういう場合は、虚栄心が羨望を呼び起こし、自分が持たない美貌 を獲得したいという叶え難い欲望にかられ、体重を落としたり、整形手 術を何度も受けようとする考えに取りつかれ、自分をより魅力的に見せ ようとする。 肉体的に魅力的なのに、完全な肉体を持とうとする執念に捉われてし まう人は多く、それは「ナルシシズム」または「肉体信仰」と呼ばれる 虚栄心の具現形態の一つである。

*ナルシシズムまたは「肉体信仰」がどういうものなのか、もう少し広 く説明いただけますか。

 それは、今言ったように、虚栄心の表現形態の一つであり、自己の肉 体美が望み得る最大の価値を持つものとして傑出するものだ。 自分の体で満足できずに「完全な肉体」を求めることは、脅迫観念へ と変わる。これは精神的な病気であり、食べることを止めたり、あらゆる種類の痩身サプリ・強壮剤・興奮剤などを摂ったり、自分の命を危険 にさらすことさえいとわず、様々な人工物をインプラントするといった、 常軌を逸脱した行動を取る。

 ナルシシズムに感化されてしまった人は、絶対に自分の体で納得しな い。時間とエネルギー、意志とお金の全てを、肉体の改善へと費やして しまう。肉体自体が自分自身だと思い込んでいるのだが、実際には、物 質界で動くために使用する衣服に過ぎない。 いつかは理想的な肉体を手にして幸せになれるのだ、という偽りの幻 想を抱いている。そして幻想を利用して儲けている、エステ産業や化粧 業界や消費主義によって、その信念が益々強まっていく。だが、その幻 想は我欲が仕掛けた罠に過ぎず、それでは幸福にはなれない。幸福は、 愛を育むことでしか獲得できないのだ。

 そのため、不満はどんどん膨張 する。 そして、体内時計が老年へと向かって情け容赦なく進んで行くにつれ て、あんなにも一生懸命になって得られた成果が、老化という自然現象 に台なしにされていくように思える。人生はこうして過ぎていき、かつ ては美しかった肉体を完全に去る時が来て、非情にも自然の腐敗プロセ スが宣告される。 魂は霊界に戻ると、今や墓の中で朽ちた自分自身ではなかった肉体を 美しくしようと無駄に時間と努力を費やしたことに気づき、魂という永 続する本当の自分を改善することにはほとんど努力しなかったことに気 づく。 しかし、手遅れなことなどない。魂の命は存続するので、再び生まれ 変わって、着ている肉体を自分だと思い込んで無駄にしてしまった人生 でやらなかった事を、もう一度やり直せるのだ。

*こういう見方をすると、肉体美は魂の進歩にとっては障害だと言って もいいですね。

 私の話から、美しさはそれ自体がネガティブな特性なのだと思わない で欲しい。その反対に、魂が進化していくにつれて内面の美に呼応して、 魂が宿る肉体はより完全により美しくなるのだ。そして実際に、君たち よりも霊的に進化している物質界では、そうなっているのだ。 しかし、進化の乏しい魂たちが支配する後進的な世界では、確かに諸 刃の剣となる。虚栄の段階から抜け出せない進化の乏しい魂にとっては、 肉体的な魅力は虚栄心の奔放を許す武器となり、そのために使用される。 気紛れ・下品・不躾・横柄に振舞っても、自分の肉体美が欲しいものを与えてくれると知っているのだ。それは、称賛してくれる者やちやほや してくれる人たちだ。

 目も眩む体の美しさで欲しいものが手に入るのな ら、なぜ善い人になる努力をする必要があろうか? …こうしていつしか老年になり、自分の唯一の魅力を失い、独り取り 残されて、自分のモラルの貧しさに失望する。美しく魅力的な外見を維 持することばかりにかまけていて、内面を改善しようと努めたことが一 度もなかったからだ。

*ナルシシズムはどう克服しますか。

 自分は肉体ではないので、肉体にそれほど煩わされるべきではないと 認識するのだ。人が幸せになるためには、自分自身を、つまり自分の内 面を耕さねばならないのだ。 肉体美という罠に陥った多くの魂がそのことを知っている。そのため、 自分の体ばかりを眺めて人生をそれ以上浪費したくないので、直ぐ後の 転生ではありがたみの少ない肉体を選ぶのである。我欲を克服して人間 として改善したいので、美しい肉体を持つことが誘惑の原因となるので あれば、現状では持たない方を選ぶのだ。

*それでは自尊心の強い者は「肉体信仰」に陥らない、つまり、自分の 体に不満を覚えたり、魅力的で美しくなりたい、と熱烈に願いはしない のですか。

  もちろん願いはするが、見栄っ張りな者とは違う要因でそうするのだ。 気位の高い者は、称賛の的となるよりも、愛されることを求めている のだが、もっと美しくなればもっと愛してもらえる、と間違って信じ込 んでしまうのだ。 自尊心の強い者がハンサムな場合は、周りの人たちは自分を好きでそ ばにいるのではなく肉体やその他の魅力に惹かれているからで、飽きた りもっと素敵な人に出会えば簡単に捨てられてしまう、と知ってしまう と失望する。

*僕たちは、本当は魂であって肉体ではないのに、どうして自分の魂を 意識せず、身体ばかりを自分と同一視するのでしょうか。

 それが君たちの世界が教えることだからだ。 魂は存在せず、人とはそ の体であると教えている。君たちの快楽主義の世の中では、評価される 資質とは物的なもの(肉体美・富・権力)で、内的な資質(感受性・慈 悲深さ・謙虚さ・慎み深さ)は軽視されるのだ。

 霊界では、それと全く逆だ。全ての霊的な資質が評価される。中でも 謙虚さは最も評価される資質の一つだが、外的な資質は、魂個有のもの ではないので、何の価値もない。外的な資質は、劇の作品が変われば俳 優の衣装替えがされるように、ある人生から他の人生で変化するので、 状況的な付随物だと考えられている。人は、今生では外見的に美しくて も、次の転生では醜いかもしれないし、今回は金持ちでも、次回は貧し いかもしれないのだ。

 魂は、肉体から離れている間は、その違いが明確に分かっていて、霊 性の改善のためにこの世にやって来ると知っている。しかし肉体に宿る と、身体との一体感や過去の忘却や、転生先の文化の影響などで、霊的 に改善する目的意識の低い魂は、自分を完全に肉体と同一視してしまう。 そして、魂が顕現するということには、個人的に経験したことも他者の 経験も、頭から否定するのだ。

*魂の顕現とは何を意味するのですか。

 魂の存在とその能力を示す全てのものだ。それらはたとえば、肉体を 持たない存在たちとの交信、幽体離脱、自他の気持ちを直感すること、 五感以外での超感知などだ。このような体験をした多くの人が、頭がお かしいと見なされる。だから、自分の霊感に自信のあるかなり進歩した 魂でなければ、自分が気が狂っていて精神療法が必要だと信じ込むに至 るだろう。

                                              怖れ

 怖れとは、懸念・動揺・不安の感情であり、自分や自分が愛する者へ の危険や脅威を感知して生まれるが、危険自体は、現実的なものである 場合と、想像上のものである場合がある。 怖れに脅かされている者は、自分に全く自信がなく無防備であると感 じ、大事な決断では、感情または肉体を傷つける悪い結果になりはしな いかといつも迷う。しかも怖れは怖れを呼ぶ。つまり、怖れは頭を過度 に刺激して、現実の状況を、空想上の脅威が出現する架空の状況に創り 変えてしまう。

 しかも、それを本物だと信じてしまい、現実の脅威だけ ではなく想像上の脅威によっても、自分の怖れを増大させてしまうのだ。 怖れは心配も引き起こす。頭の中で、脅威となり得るあらゆる状況を 予め想定して、その全てから無傷で逃れる方法を探そうとするからだ。 恐怖とパニックは、強烈で鋭い怖れの感覚で、非常にトラウマとなり易い。

 怖れは、自分が在るがままに振舞う妨げとなるので、霊的進化に最も 有害な感情の一つである。進化する意志のある善意の魂でさえも、怖れ を乗り越えられなければ、長期にわたって成長が滞ってしまうことがあ り得る。

*でも、全ての怖れが同じだとは思わないのですが。

 もちろん違う。だが一般的に、怖れは魂を抑圧して、気持ちに従って 行動できなくさせ、感情を窒息させて完全に抑制してしまうことさえあ る。そのため、停滞してしまうのだ。

*しかし、正確には何を怖れているのですか。

 最も一般的な怖れは、自分への他者の否定的な反応をこわがるものだ。 この定義から派生する怖れとしては、愛してもらえない怖れ、理解して もらえない怖れ、拒否されたり軽蔑される怖れ、攻撃性(肉体的・精神 的暴力)への怖れ、孤独になる怖れなどがある。 ところで、自分への他者の否定的反応が怖いと、その怖れが、在るが ままの自分を表現する怖れをもっと増長させてしまう。そして、これに 負けてしまうと、他者が望む自分らしくない振舞いをしてしまう。

 他者 とはこの場合、身近にいる人で、愛する人や家族(母親・父親・兄弟・ 伴侶など)のように、少なくとも愛情を期待できる人のことだが、全般 には、どんな人間関係にも当てはまる。この怖れは、家族内外を問わず、 こどもが肉体的・精神的な暴力や虐待の対象となった幼児期に由来する ことが多い。

 前述のカテゴリーに入らない怖れとしては、未知なものへの怖れ、死 への怖れ、苦痛(肉体的または精神的)への怖れがある。 未知への怖れは、不安を呼ぶ。人は、知らないものについて、多大な 脅威や危険を想像してしまうものなのだ。実際のところ、死の恐怖とい うものは未知への怖れであり、死後に起こり得る未知なるものへの怖れ であるか、無というもっと冷酷なものがやって来ることへの怖れである。

 まだもう一つ別の怖れがある。人間にとっては最大の怖れで、他のも のはそこから派生するので、特別に言及しておく必要がある。それは、 自分自身を知ることへの怖れであり、自分の欠点や美徳も含めて、自分 が本当はどういう人なのかを発見する怖れである。 我々は、我々自身の欠点を知るのが怖い。我々は、自分にエゴがある ことや、自分の災いのほとんどが自我のせいだということがなかなか納得できないために、欠点を認識すれば余計に苦しむに違いないという誤 った思い込みをしているのだ。気づきは、我欲の一形態に過ぎない「自 己愛」を苦しませはするが、幸せになろうとして我欲からの解放を望ん でいる魂を痛めることはない。 エゴから解放されるためには、先ず自分自身にエゴがあることを認め て、次にそれがどう表面化するのかを認識しないといけない。認めるの を怖れてはならない。

 我欲は全員に存在していて、それからの脱却の過 程のどの地点にいるかが違うだけなのだ。だが、自分自身を知ることを 怖れて長期にわたって我欲を覆い隠してしまうと、我々は停滞してしま い、ずっと苦しむことになるのだ。 同様に、我々は、愛情・感受性・謙虚さ・優しさ・同情・博愛など、 自分の美徳や愛の表現を発見することを恐れる。実際にそうすることで、 傷つけられたり利用されたりして苦しむのが怖いのだ。そしてそこから、 自分に対する他者の否定的な反応への怖れが生まれるのだ。 しかしそれにも関わらず、この怖れに打ち克ち、自分自身になって、 愛情深い自己を目覚めさせるために戦えば、内なる幸福が大変強くなる ので、外部からのどんな苦痛や攻撃にも屈しなくなる。 死に対する恐怖も、自分自身を知る怖れから生じている。死が終わり で、意識である自分自身が抹殺されると信じているので怖いのだ。

 自分 を深く見つめる怖れを失えば、心の奥底で「死は存在しない! 君は不死 身だ!」と叫んでいる魂の声を聞くことができよう。その時に、存在し なくなることへの怖れ、つまり死の恐怖は、消えるだろう。

*怖れは、魂の進化に、具体的にどのように影響しますか。

 すでに言ったが、怖れによる致命的な影響は、魂が自分を在るがまま に表現するのを止めてしまい、気持ちに従って行動するのを抑制してし まうことだ。人は自分自身でいなければ、自由意志が囚われているので、 霊的に成長できない。自由に決断ができず、いつも怖れにさいなまされ る。恐れに支配されるのだ。そして、失敗すると思い込むので、霊性進 化に有益となり得るどんな状況にも立ち向かおうとしない。

 怖れとは、地球の権力者たちが、人類を操り、霊的に停滞した状態に 保つために利用する感情だ。彼らは、人間が取り組もうとする霊的な挑 戦には、必ず架空の敵という脅威を創り出し、偽りの安全と引き換えに、 挑戦を止めさせるのだ。

 それは、彼ら自身も怖いからだ。人類に霊性・愛情・兄弟愛が目覚め て彼らの悪行が明るみになり、自分たちの犯罪が裁かれ有罪となり、特 権や全財産が剥奪されたり、他の人間を騙し抑圧し搾取して獲得した権 力を奪われるのが怖いのだ。

*例を挙げて下さいますか。

 たとえば、人類全体の友愛に賛同する全ての運動に対する恐れを作り 出し、非常に有害な勢力を作りあげ、その純真さを利用して、恐怖体制 を敷く。全人類のための連帯と協力に基づいた、もっと公正な政治・経 済体制を導入すれば、その後で混乱・無秩序・騒動や経済崩壊が起こる だろうと脅かして、恐れを生み出す。

 彼らは、自由は奔放となり、自由 思想は厄介な考えをもたらし、自由な感情は悪習・堕落・不道徳をもた らすと予告する。 地球の人類が、他の惑星にも愛に生きる人類がいることを発見して、 それを見習ってしまうことを恐れている。そのため、地球外生命の証拠 はどれも隠蔽し、他の世界の生物と接触することの危険性を映画を通し て助長する。映画では、宇宙人は忌まわしい姿(昆虫、爬虫類、ウィル ス)をしていて、体内に入り込んだり、人類を滅亡させる悪意を持って いるのだと思わせようとする。 人間が不死であることや、人生の目的は愛を深めながら霊的に向上す ることなのだと気づかれて、その努力を始められるのが怖い。

 そのため、 死後の生の存在を示すものは一切否定し、物質主義の科学教義の中に逃 げ込む。同時に、肉体の死後に起こることを追求したり、霊界と交信し たりすることの恐ろしさを、映画を介して助長する。その中では、生き ている人間の魂を支配して苦しめる、幽霊・悪魔・血に飢えた吸血鬼や ゾンビなどという恐怖の存在を創り出して、死後の命をどれもおぞまし く描いているのである。

 それに一役買っているのが、恐怖の産業(映画やテレビ)で、最も愚 劣な脅威を映像に仕立て上げ、ほぼ全世界で見せることによって、全て の人の脳にそれが浸透し、頭の中で現実に変わるようにするのだ。全映 画の90%は、テロリスト・連続殺人犯・レイプ犯・麻薬密売人・宇宙か らの侵略者・ゾンビ・様々な精神異常者といったあらゆる邪悪な存在に 姿を借りた恐怖を、何らかの方法で波及させるのが目的だ。こうして、 子どもや大人の想像力を過剰に刺激し、各人独自の怖れの上に、もっと もっと沢山の恐れが外部から加わるようにする。

*怖れはどう克服したらいいでしょう。

 自覚と勇気を持つのだ。先ず、自分が怖れているということと、何を 怖れているかに気づくのだ。 深く分析して見れば、怖れの一部には根拠がなく現実的な脅威とは結 びつかないことや、少なくとも思っていたほどではないことが分かるだ ろう。現実の脅威に根ざした怖れの場合には、それを生み出した状況や 環境に勇気を持って立ち向かい、決断を下す際に、恐れに負けないよう にすれば乗り越えられる。 「怖れがなく、完全に自由だとしたらこの気持ちをどうしたいと思う だろう」と自問してみるのだ。それが、選択されるべき正しい決断なの だ。試してみる価値はある。絶えず努力すべきなのだ。

 怖れと対面し勇敢な決断をしていくにつれて、自分の内面が進歩する のを感じ、怖れは力を失い、代わりに自信と明晰さを得る。そしていつ の日か、過去を振り返り「何であんなことが怖かったんだろう。今なら はっきり分かるぞ」と言えるようになるのだ。

*自分自身を知る怖れを乗り越えることで、特に配慮すべきことがあり ますか。

 自分自身を、美徳や欠点も含めて、在るがままに見るのは何も悪いこ とではない。自分を在るがままに受け容れるのだ。 改善途上であることを認め、自分に嫌なところを発見しても落胆しな いこと。自分の汚れたところに光を当てて欠点を認識することは、最初 は苦痛を伴い不快かもしれないが、そうする価値はある。それが霊的な 成長の道における最初の一歩になり、成長するには、我欲を排除するこ とと同様に、感情を発達させることが不可欠であるからだ。 自分の感情を怖れず、それが現れたり表したりするのを怖れず、そう する時に嬉しく感じるのを怖れないことだ。悪い事を恐れるだけで沢山 なのだから、その上、良い事を恐れるのは止めとしよう。

*同じ質問をしたかもしれないのですが、我欲とその具現形態である 「エゴ的感情」に関してのお話を全部まとめる意味で、もう一度質問を したいのですが。

質問したまえ。

*一般的に、自我とその形態を克服するにはどうすればいいのですか。

 最初の一歩は認識すること。アルコール中毒であった者は、中毒を克 服する最初の一歩は、自分がアル中だと認めることだと知っている。こ れと同じように、虚栄心・自尊心・尊大に打ち克つための最初の一歩は、我々一人ひとりに出現する我欲を識別することで、自分の我欲を認識す ることだ。

 そのためには、それぞれの欠点がどういうもので、どう表面化するの かを詳しく知る必要があり、今まで君と私はそれに取り組んできたのだ。

*それは難しく思えます。

 それほど難しくはない。我欲自体が難しく見せているのだ。 他者の誤りや欠点はあんなに簡単に見えるのに、自分自身のものを認 めることはなぜこんなに大変なのだろうか?(隣人の目の中のおが屑が 見えるのに、自分の目の中の丸太に気づかない)。我々がここにいるの は、自分を受け容れてそこから改善するためなのだと理解できれば、後 は簡単だ。

*我欲自体が混乱させようとするのでしたら、どのようにエゴを認識で きるのですか。

 有効なのは、自分の行動をあたかも他者のもので、自分が受け手であ るかのように分析してみることだ。つまり、自分と他者とを置き換える のだ。それから分析してみる。公正で正直な振る舞いだったろうか? そ れとも、利己的に動いただろうか? ある言動に対して、それをする時とそれをされる時とで、自分の意見 が変わらなければ、客観性に近いのだ。しかし同じ言動であっても、自 分がした時には容認して、他者がした場合に告発するのであれば、それ は不公平なのであって、自我に翻弄されているのだ。それゆえ、自分の 欠点に気づくためには、他者を分析する場合と同じ客観性を持つ必要が ある。

*そしてどうするのですか。

 次のステップは、態度を修正することだ。自分の利己的な思考を認識 しても、それが出現しなくなる訳ではない。自我があることを認識して 受容するのは大切だが、その意のままに行動することを避けて、エゴに 屈しないことだ。 別の言い方をすると、自分自身に「僕の中にエゴがあるのは知ってい るけれど、それに左右されずに行動して、愛に基づいた行いをするよう にするぞ」と言うのだ。 態度を変化させることで、我々は少しずつ、自分自身や他者への言動 や行為を修正できるようになる。利己的な態度は、自分にとっても他者 にとっても有害なのだ。

*どういう意味で自分に有害なのですか。

 愛を感じられなくなるからだ。愛は、人が味わえる感情の中では最も 素晴らしいもので、我々を真に幸せにしてくれるものだ。

*態度を変えることは、欠点を認めることよりもずっと難しく思えます。利己的な言動を改めるための助言をいただけますか。

 行動する際には、次のような内省が役立つだろう。「僕がそうされた ら、どんな反応をするだろうか? 僕だったら、その人にどうして欲しい だろうか?」こうして、他者も我々と同じなのだと想像すれば、自分に 災いを望む人は稀なので、自分の他者への否定的な態度を感知できる。 こう推察することで、「汝の隣人を愛せよ」という金言が生まれたの だ。もちろん、簡単ではない。改善しようという揺ぎない紀律と意志が 必要とされる。しかし辛抱強く続ければ、短期間のうちに別の心持ちに なり始め、もっと内面と調和して幸せに感じられるので、前進し続ける 励みとなる。

*「エゴ的感情」は、どう扱うべきでしょうか。

 それも、同じようにだ。最初に、我々皆が「エゴ的感情」を持ってお り、自分にもそれがあるのだと認めること。それらが、我欲が顕現した もの、または、我欲と愛との内面の葛藤が表面化したものだと認めるの だ。 次に、自己分析と内面の意識的な改革を通して、それらを打ち負かす 方法を見出すこと。

*内面の意識的な改革とはどういうことですか。

 それは、自分自身が指導する内なる魂の改革のことで、改革の目的 (愛における進歩と我欲の排除)が明確で、欠点がどういうものでどの ように具現するのか、根絶する手段は何なのかがはっきりしている。 完全を目指す道程では、他者の美徳や欠点から学ぶことができるのと 同じように、自分の美徳や欠点を観察することでも学ぶことができるの だ。 一日のうちで自分と繋がれる静かな時間を作り、欠点についてや、そ の日の自分の態度や他者の態度について振り返ってみる。自分がどの程 度愛に基づいて行動し、どれほど我欲によって行動したのか、また、他 の人たちはどれほど愛または我欲によって行動したのかを、内省してみ るのだ。こうして正直に考えてみれば、進歩に必要となる答えを見出す ことができ、確固とした意志を持って試練に立ち向かう励みとなるのだ。

 他者の利己的な態度に気づいても、それらを理解していれば受け容れ ることが容易になり、敵対的な態度を取らないでいられる。自分自身の 利己的な態度に気づけば、流されてしまったと分かるが、自覚すること ができたので、いいことだ。次の機会には、エゴは減らしてもっと愛あ る気持ちで行動しよう、と固く決意するのだ。 こうして、毎日少しずつ前進して行ける。君たちが、内面の意識的な 改革を忍耐強く続けるのなら、いつか過去を振り返った時に、見違える ような自分を見出し、驚くべき肯定的な変化を遂げたと気づける日が来るのだ。

*でも僕は、いい人である条件の一つは他者を批判しないことだと思っ ていたのですが、いい人になるには自分の欠点だけでなく他者の欠点も 見る必要があると言われるのと、矛盾しませんか。

 それは一般的に、人が他者の欠点に焦点を当てる時は、批判したり嘲 笑したりするためだからだ。人は悪い意図を持っていると、とても不公 平になり易く、嘲笑の対象となる者を罵倒しようと現実を曲げて大げさ にして、何の配慮もしないものだ。 もちろんこれは嘆かわしい態度で、イエス自身が何度も「隣人の目の 中のおが屑が見えるのに、自分の目の中の丸太に気づかない」と咎めて いる。このため、多くの善意ある者が、欠点について話すのは悪いこと だと信じている。

 しかし、ここで欠点について分析するのは、批判するためでも嘲るた めでも誰かを非難するためでもなく、それがどう作用するかを理解して 我々自身が改善するためと、他者も改善できるように助けるためである。 ここでは、現実を、誇張も隠蔽もせずに、在るがままに見ようとしてい るのだ。 実際、この舞台では、人類の大半が同じ欠点を共有しており、それを 排除することが進化の工程の一環となっている。それに、初めに認識す ることなく、どうやって利己的な行為を修正できるというのだろうか?

*我欲に触発されて攻撃してくる人がいたら、その人を許さないといけ ないのだと思っていました!

 許すためには理解が必要で、理解するにはどうして攻撃したのか、つ まり、原因となる場面ごとの我欲についても掘り下げる必要がある。

 たとえば、他者の欠点に焦点を当てて、公衆の場でそれを批判して中 傷する者は、虚栄心の顕現形態の一つである羨望という欠点の下に行動 しているのだ。 霊性進化の工程や克服すべき我欲の段階と、我欲がそれぞれの段階で どのように顕現するのかが理解できなければ、羨望・嘲笑・批判・中傷 などや、もっと酷い利己的な態度を許すことはとても難しいだろう。

*それでは、自分自身が我欲のどの段階にいるのかを知ることは可能で すか。つまり、自分の能力や霊的発展レベルがどの程度なのかを知るこ とはできるのでしょうか。

 ああ、知ることは可能だ。自分自身を知ろうと努力して、霊的に成長 しようという誠実な思いがあれば、自分がどの地点にいて、今生で取り 組むべき霊的な課題が何であるかが分かるだろう。 ここでは、美徳も欠点も含めて、自分自身を理解できるように幾つか の指標を与えようとしているのだ。手助けがなく、自分を理解すること はかなり難しい。だが、我々には旅の道連れがいるのだ。 もう話したことだが、一人ひとりにはガイド役がついていて、助けて 欲しければ、自分独りでは気づくのが困難なことを見せてくれるように 手を貸してくれるのだ。

 また、肉体を持った人の中にも、その内なる能 力によって、君たちに手を差し伸べられる人がいる。 しかしこれも全て、各人の意志による。我欲に捕らわれていて前進し たがらない者は、自分の欠点も認めようとはしないし、いかなる助言も 受け入れようとはしない。そのため、霊界から与えられる助言にも、も っと高次の同胞の意見にも、耳を貸そうとしない。嘆かわしいことに、 君たちの世界では、大半の人がその状況にいるのだ。

 自分が目も耳も不自由だと嘆いているが、目隠しを取ろうとも耳栓を 除こうともせず、「目隠しも耳栓も取りなさい。君は目が見えないわけ でも耳が聞こえないわけでもない」と言ってくれる人を聞こうともしな い。要は、自分の不幸を嘆いているのだが、自分が幸せになるのを阻む 主要因たる我欲を放棄したいとは思わず、幸福になるために必要な支援 を受けるつもりもないのだ。

 (P160~P175)

 

(作者あとがきをご覧ください)

 https://blog.goo.ne.jp/y-hne/e/d644c9fe4a68408429a35f4b1e30b3ea

 ♬著者ヴィセント・ギリェム氏は、広めることを希望していますので、抜粋して投稿しています。氏および翻訳者のご厚意に感謝いたします。


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